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不器用な二人に餞別を  作者: 麻生つむぎ
3/3

不器用な二人に餞別を③ 完

「私、今月で退職しようと思ってるんです」

 食堂の向かいにある売店で買った鮭おにぎりの袋を破りながら、私がそう口にすると、彼の目線は私の目から少し低くなって瞬きが徐々に減速する。

「そうなんだ」

 シャボン玉のように浮かんでいるのがやっとなほどの呟き。

 柔らかくて、それ故に今にも潰れてしまいそうな表情だった。

「実家の都合で、地元に戻らないといけなくて」

 等加速に迫り来る圧力の危険を察知した私はすかさず嘘で誤魔化したけれど、付け焼刃の抵抗など時間凌ぎにすらならず、酸素が薄くなってゆく世界に溺れていった。

「そっか、それなら仕方ないね」

 彼の視線は先ほどよりも低くなっていた。


 気まずい、すごく気まずい。

 言わなかったほうが良かったのだろうか。

 茶柱大好きお局姉さん、前世落武者筆頭上司。彼らが私を介してどのような感情を抱こうと、気まずくなろうと、私はダメージをもう受けないけれど、絶えず気にかけてくれた彼のこの表情だけは見たくなかった。唾の飲み込むのが感覚として認識できるほどに頭の中が白んでいく。次の言葉が、慣れっこになっていたはずの会社での私が出てこなかった。

 いつもそうだ。いつも大事な所でヘマをしてしまう。

頑張ろう頑張ろうが裏目に出るし、誰かの助けになるだろうと思って上げた手が、誰かのプライドを傷つけてしまう。

 悪気はなくても、純度の高い優しさのつもりでも、絶え間なく動いている組織としての私の残像のことを、私は推し量ることができない。相応に、多くの人の残像を自分色に染めてしまうも同罪なのかもしれないけれど。


 会話が途切れた後の時間は異様に長く感じる。ひどく空いているこの食堂も、私の焦りをより一層駆り立てる。素直にこれまでの感謝を述べればよいのか、いっそ話題転換をして水に流せばよいのか、今の私にはどの選択も間違いにしか思えなかった。

私は右手の全指先で掴んでいる鮭おにぎりをまだ食べられずにいる。

このおにぎりを食べるというということは、現状への諦めを意味しているような気がした。


「ちょっと待ってて」

 生温さが増すこの空間でなにもできずにいると、親子丼を食べ終えた彼がおしぼりで何度か口を拭いて立ち上がり、早足で売店の奥に姿を消した。


彼が両手にレジ袋を提げて戻ってきた時、私は鮭おにぎりを食べ終えていた。気まずい顔をしてしまっていた私に気を利かせて、一人の時間を作ってくれたのだろうか、そんなことを考えながら近づいてくる彼の方に目をやる。

両手に提げている大きな袋の存在に、当たり前に気がついた。

その袋の中には大量の飲むヨーグルトが入っており、その量の多さと買うタイミングに私はひどく驚いた。

「どうしたんですか、そのいっぱいの飲むヨーグルト」

彼は二つの袋を机において、少し赤らんだ掌を隠すように私の目を見てから口を開く。

「環境変わるとな、体調崩しやすいから」

 そう言い残すと、返却口に親子丼の入っていた丼を持って行った。


 底が不安定だったのか、中身のバランスが徐々に崩れて袋ごとそのまま机に倒れこむ。袋から漏れた一本の飲むヨーグルトがコロコロと転がって、おにぎりのゴミを握りしめている私のもとへやってくる。

 こんなに、いらないよ。

思わず頬が緩む。一日一本飲んだとしても、今月中に飲み干すことのできないその量を改めて眺めながら、私が会社を辞める理由である残り一袋を切ったトイレットペーパーのことをふと思い返す。

これでは来月も私がここにいる理由に繋がりかねないのだけれど、今の私の中にある感情は負のものではないことだけははっきりと分かった。きっとそれは、いなくてはいけないというより、いてもいいんだと思えているからである。彼がどういう意図をもって買ってくれたかは分からないけれど、進むにしろ逃げるにしろ、別の道を歩もうと決めた弱くて脆い私への彼なりの餞別だったのだろうと、私は感じた。


「あ、もしかして苦手?なら引き取るよ、全然」

 食器を収めた彼が私の座っている席に戻ってきた。特に、好きも嫌いもなかったけれど、そんなことどうだって良いのだ。

「いえ、ちゃんと全部飲み干しますから」


 並ばないエレベーターに二人並んで乗る。他愛もないいつも通りの会話が私を寂しくさせるけれど、同時に、寂しさがここにいたという足跡をくれた。

 オフィスに戻るとお昼休憩の終了間近な時間帯なだけあって、多くの人が自分の席について私の苦手な芸術作品を作り上げようとしている。きっと両手に大きなレジ袋を提げた私の存在に気がついたら、瞼の裏でニヤついて見てないフリをするだろう。

それでも想像通りの重さで、少し赤らんでいる掌を見て、堂々と歩こうと決めた。

 

 袋を躊躇なく机の上に置いて、椅子に腰かける。色々な角度からの視線が断続的に突き刺さってくるのには気がついたけれど、彼を想いだけは埃を被らせたくないと思った。

 

 ひとまず、午後の就業に向けて取引先からのメールを確認しようとパソコンを立ち上げようとすると、隣に席のない机の右隅に置いた袋の中身が崩れそうになり、慌てて支えた。

 確かに、山から溢れるほどに嫌なことばかりだった。けれど、私が私のままで居ることができた温かく優しい時間も山から溢れてしまいそうなくらいに、いっぱいだった。

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