その29「パトラとサンドロック」
(とんだ寄り道だったな)
良かれと思ってした事が、ディーヴァの心に疲労感を残した。
早く本筋に戻ろう。
自分のためになる事をしよう。
そう思ったディーヴァは、下りの階段に向かった。
スキルに目覚めるまでのディーヴァは、2層で活動していた。
今、ディーヴァの目標は、もっと下の階層にある。
ディーヴァは黙々とダンジョンを進み、3層へと下りた。
そこは平均的なガーデナーから見れば、たいしたことの無い階層だ。
だがディーヴァにとっては、初めての階層だった。
(強敵相手に
暴れたい気持ちが有るが……。
クオンさまとの約束が有る。
落ち着いて3層を
攻略していくとするかな)
ディーヴァは既に、クオンダンジョンの10層までを攻略している。
3層で遅れを取るとは思っていなかった。
このていど、今の自分には役不足だ。
そう思っていた。
だが、いきなり階層を進めれば、クオンが心配する。
クオンの気持ちを裏切りたくはない。
そう考えているディーヴァは、3層で肩慣らしを始めた。
既製品の地図を頼りに、魔獣を狩っていった。
今のディーヴァに、3層程度の魔獣では相手にならない。
特に問題は無い。
それを確認すると、ディーヴァは4層に下りた。
そして4層でも、同様に狩りを繰り返した。
その日のディーヴァは、アディスを6層まで攻略した。
そして7層への階段の前で、足を止めた。
(今日はこのへんにしとくか……)
ディーヴァは踵を返した。
そのとき。
「ディーヴァ?」
階段の方から、女の声が聞こえてきた。
ディーヴァは階段へと振り向いた。
そこに見慣れた顔が有った。
「パトラか」
階段に立っていたのは、元婚約者のパトラだった。
その周囲には、護衛たちの姿も有った。
パトラは階段を上りきると、ディーヴァに声をかけてきた。
「あなた、こんな所で
何をしているの?」
「何って、
普通にアディスの攻略だが」
「たった一人で?」
パトラは眉をひそめた。
アディスというのは、一人で潜るような所ではない。
それが常識だ。
「俺が所属してるクランは
クランメンバーが俺一人なんだよ」
「噂通り、酷い所みたいね。
クオンダンジョンクランというのは」
パトラがクオンの名を出したことに、ディーヴァは少し驚いた。
自分とパトラは、もう婚約者ではない。
他人だ。
いま自分がどうしているかなど、耳に届いてはいないだろう。
そう思っていた。
とはいえ、その驚きを口に出せば、彼女に未練が有ると思われるかもしれない。
そう思ったディーヴァは、普通に話を進めることに決めた。
「そうでもねーよ。
居心地が良くて、俺は気に入ってる」
ディーヴァは本心からそう言った。
「そう?
だけど……一人で6層まで来たのね」
「まあな」
「がんばっているのね。ディーヴァ」
パトラは元婚約者に対し、友好的な笑みを見せた。
そのとき。
「おい、あんまり馴れ馴れしくするなよ」
苛立たしげな男の声が、二人の会話を遮った。
「サンドロックか。
今日はパトラと一緒なんだな」
ディーヴァは赤髪の少年に声をかけた。
ディーヴァは彼のことを良く知っていた。
サンドロック=ダッタ。
ダッタ家の分家の子だ。
「ククッ……。
その様子だと、まだ知らないみたいだな」
サンドロックは意地の悪い笑みを浮かべた。
「何がだ?」
「俺とパトラは、
婚約者になったんだよ」
「ふーん」
ディーヴァは興味無さげに言った。
彼は婚約者に対し、深い愛情は持っていなかった。
パトラに対し、特に不満があったわけでは無い。
顔は良いし、仕草も上品だ。
女としての魅力は、十二分に有る。
彼女と結婚することに対し、一片の嫌悪感も無かった。
無事に初夜を迎えていれば、若いディーヴァは、獣のように彼女を抱いたかもしれない。
だが、それだけだ。
親に決められた婚約者に対し、燃えるよう恋情を抱くことは、ディーヴァにはできなかった。
彼女を頼った時、ディーヴァは突き放された。
そのことを、憎んでいるわけでは無い。
だが、彼女の方も、自分に対し、たいした愛情は持っていなかったのだろう。
あの出来事は、ディーヴァにそう思わせた。
もうただの知り合いだ。
そんな彼女が誰かと結婚することを、特に悔しいとも思えなかった。
ディーヴァの落ち着いた表情が、見えていないのか。
それとも強がりにでも見えているのか。
サンドロックは勝ち誇ったように笑った。
「悔しいか? 悔しいだろうなあ。
見下してた分家の男に、
愛する婚約者を奪われたんだからなあ」
サンドロックの分家は、本家よりも立場で劣る。
本家の子であるディーヴァに対し、思う所が有ったのかもしれない。
彼の粘着質な笑みから、ディーヴァはそう感じ取った。
(もうどうでも良いが。
ん……?
そういえばコイツ、
俺と同じ学校だったな……?)
それを思い出したディーヴァは、サンドロックにこう尋ねた。
「まさか、学校で妙な噂を流したのって、おまえか?」
確信があったわけでは無い。
それは何気ない疑問だった。
だが……。
「な、何の話だ……」
サンドロックの笑みが、スッと引っ込んだ。
「ああ、そう」
ディーヴァは内心で、弟に詫びた。
(疑って悪かったな。ディージャのやつ。
あいつは俺を嫌ってるが、
来る時はストレートで来る。
姑息な真似をする奴じゃなかった)
「噂って何かしら?」
パトラがそう尋ねてきた。
彼女は同じ学校には通っていない。
そんな彼女の所までは、下劣な噂も届いていないらしかった。
「何でもない! ただの言いがかりだ!」
サンドロックがそう言い張ったので、ディーヴァはこう尋ねた。
「ならそれを、シバさまとシリスさまに誓えるか?」
クランマスターへの誓いは、ガーデナーにとって、重い意味を持つ。
もしマスターに誓えるのなら、冤罪を被せたことに対して、頭を下げても良い。
ディーヴァはそう思い、サンドロックの言葉を待った。
「っ……そんな必要は無い……!」
誓いから逃げた。
そんなサンドロックを、ディーヴァは黒と断定した。
「わかったよ」
ディーヴァは手早く清算を済ませることにした。
ディーヴァの拳が、サンドロックの顔面を打った。
「ぐふっ!?」
サンドロックは簡単に地面に転がった。
彼のガーデナーとしての実力は、たいしたものでは無いようだ。
「こいつ……!
おまえら、何をぼうっと見てる!
ディーヴァを叩きのめしてしまえ!」
彼の怒声を受けて、護衛たちが動こうとした。
そのとき、パトラが口を開いた。
「待ちなさい」
パトラの声を受けると、護衛たちはピタリと止まった。
パトラは次に、ディーヴァに声をかけた。
「ディーヴァ。こっちに来て」
「え? ああ」
ディーヴァはパトラと共に、6層の小部屋に移動した。
ディーヴァと向かい合うと、パトラは呆れたように言った。
「あなたの気持ちは良くわかったけど、
殴るなんてやりすぎよ」
「そうか?」
「当たり前でしょう?
けど……嬉しかったわ」
パトラは乙女の顔で微笑んだ。
「うん?」
これは何の顔だ?
理解できず、ディーヴァは首をかしげた。
「ああやって怒るくらいに
あなたが私の事を
好きだったなんて、知らなかった」
「うん?」
この女は、いったい何を言っているのか?
ディーヴァは傾いた首を、さらに傾けた。
「けど、心配しないで。
婚約者って言っても、
まだ向こうの親が
話を持ちかけてきてるって段階なの。
本当の婚約者じゃないわ。
だから、そんなに怒らなくても良いのよ」
「怒ってないが?」
「……ディーヴァ。
あなたの事を誤解してたわ」
「??????」
ディーヴァの首が、限界まで傾いた。
「私、あなたに、
愛されてないと思ってたの。
私たちの関係は、
ただの政略結婚で、
あなたは義務的に
私に優しくしてくれているだけ。
そう思ってた。
なのにあなたは……あんなに情熱的に。
けど……ダメよ。
私はプトレマイオ家を
背負って立つ身。
あなたとは、どうやっても結ばれないわ。
つらいでしょうけど、
私のことは忘れて。
それがあなたの為よ」
「……そうさせてもらうよ」
理解ができない思考回路の女に、ディーヴァはかろうじてそう告げた。
「さようなら。ディーヴァ」
パトラは寂しそうに微笑み、仲間の所へ戻っていった。
(……家に帰るか)
どうでも良いやり取りに、時間を潰してしまった。
ディーヴァは疲労を感じながら、帰りの道を歩いていった。
そして、地上へと続く大階段の途中……。
「よう」
アクタの声が聞こえた。
「っ……」
自分から搾取する者の声に、ディーヴァは固まった。
だが……。
「おまえ、見ない顔だな」
ディーヴァは声をかけられているのが、自分で無いということに気付いた。
(ティエリ……)
アクタが絡んだのは、今日ディーヴァが面倒を見た少女だった。
「な、何だよ?」
「何って、通行料を払ってもらおうと思ってな」
「は……? そんなの聞いてないぞ……!」
ティエリはアクタを睨んだ。
自分が正しいと思っているのだろう。
だが、関係が無い。
彼女が居る底辺の世界では、正しいとか正しくないとか、そんなことは意味を為さない。
力を持たない弱者を、正しさというものは守ってはくれない。
哀れな少女は、そのことに気付いていない様子だった。
「聞いてるとか……聞いてないとか……
そんな事は……
どうでも良いんだよォ!」
現実をわからせるために、アクタはティエリに殴りかかった。
ティエリは痛みと共に、自分の弱さを思い知る。
そのはずだった。
だが、拳がティエリに届くことは無かった。
「テメェ……!?」
アクタの拳を、ディーヴァの手が受け止めていた。
「ディーヴァ=ダッタ……!」
(ああクソ……。
やっちまった……)
ディーヴァの心が後悔に呻いた。