緑山異聞
ども、失礼いたしやす。
湯上りにぼんやりしていると声がした。
「あいよ…お入りくださいな」
ーいえ、ここで。わっしはお客のゲソを預かってるものでしてね
「…はい」
ゲソ、とは下足の略語であり、要は履き物の管理をしていると言うことだ。
ー先生の革靴、ですかい、ありゃ…
「先生はやめてくださいよ」
ーま、お気になさらず
あれ、為さんここで何を? と声がし あぁ先生にちょっとさ、と戸惑い応えが
あり、失礼しますよ 盆を持ったおんなが入って来た。
ーカツオの捌き立てですよ。若くて生臭いから大蒜と大葉を多い目に盛りました
卓に開かれた皿につやつやぶりぶりしたドス赤い切り身が乗っている。
ーお酒は土佐の瀧嵐。箸洗いにかぶらのお吸い物。焼き物は羊肉です。
「こりゃ参ったな‥完璧ですね」
ーそれはよごんした。どうかごゆっくり
おんなは満足気に言い立ち上がると去り際にちょっときつい口調で
ー多恵さんのお顔、はやく考えてくださいよ先生
軽く睨んで言った。
「為さん、一杯やりませんか」
ーえー…こんないい酒、いいンですか、じゃゴチになるかな
丸刈りで小柄だが手足が大きく作務衣がよく似合う。キュッと小気味よく杯を干すと
あぁ旨ぇやっばウチで飲むのたぁ違うなぁと照れたように笑った。
ーでね、先生。先生のお靴はわっしの方でお預かりしましょうってね
「そしたら僕の履物はどうするんだい」
ーでね先生。あんな重いもん履いてたら肩凝っちまうでしょうが。ここじゃ皆草履履き
ですよ、草履っちゃなんですがね
「下駄でもあればいいのだが、それも無いのかな」
ーそれなんですがね先生、先生の足は12文だ。驚いたね、相撲取りでもあるまいしそんな
大足はここにゃいねぇ。わっしが下駄屋に誂えるようにしておきました
「…これはすまないね、ありがとう。さ、もう一杯」
顎の張ったおんなが包みを持って来た。花羅娘露と風呂敷にある。
ー履物です。どうぞお試しください
桐下駄と雪駄。履くと鼻緒がきついが丈はぴったりだ。
「これで良さそうです。ありがとう。…お代は」
ー先生からは戴けません。この履物でこちらでお過ごしください
下ろし立ての下駄で宿を出た。けしゅかしゅと砂利を踏む音がする。ゆるやかな登り坂の
向こうには温泉街や歓楽街がある筈だ。あるに決まってる。
黒板塀の屋敷側を散策する。ここに見越しの松があったら<おとみさん>だなとフト思い
ひとり笑った。
ーお前さま
多恵の声がした。