蹴りで首を切る
私たちと男は数秒、顔を合わせる。それから私が慌てて男の頭に思いっきり蹴りを入れる。
「痛え!」
「真中……!」
琳音くんの泣き声が小さく聞こえる。
彼の散乱した下着や、別れ際に琳音くんが着ていたワンピースを瑠月がかき集めて三人で一緒に逃げ出す。
腰を抜かして歩ける様子でない琳音くんを背負って私は必死に外へ助けを求める。だが、駅前には普段止まって客を待っているタクシー運転手さえいない。外にはネオンの消されたカラオケスナックの看板があるばかりだ。
自分より大きな体をした琳音くんを背負うのはもちろん体力を消費するが、何が起きているのかわからない私たちはコンビニに助けを求めに向かう。だがそのためには、さっき登った階段をまた上がらないと行けない。いや、選択をしている暇はない。
私たちは慌てて階段を駆け上がり始める。だが、琳音くんがその時私の背中から降りたいと言い出した。私が降ろすと、彼は私の手を繋いで階段を駆け上がっていく。そこを後ろに、瑠月も衣類を持ったまま走り出す。
「テメェらぶっ殺してやる!」
声のする方を振り向くと、そこにはさっき私が蹴りを入れた男が追いかけてきていた。そいつは明らかに私たちよりも速い脚力で階段を上がってくる。しかも一段一段ではないのだ。二段、三段と一気に複数段を上って私たちに追いつこうとする。
「瑠月! どうするよ?!」
「あんたの彼氏でしょ! あんたが何とかしてよ!」
「地獄の底まで付いていくってさっき言ってたじゃん! 言葉の重みを考えなさいよ! あんた生徒会長のくせに……」
そう言うと、瑠月は手に持っていた琳音くんの衣服を男の頭めがけて投げた。あと数段で彼女は足を掴まれるところだった。そのくらい近い距離だったからか、男の頭に白いワンピースがかかって、男は階段を踏み外してそのまま頭から下へ落ちていった。
男が落ちていく様子を眺めつつも、「逃げなきゃ」と私はふたりにけしかけて階段を慌てて降りていく。そして数百メートル先のコンビニへ駆けていく。
「裸の彼氏ってアンタ恥ずかしくないの?」
「今はそれどころじゃねえだろ!」
「ふたりとも仲良さそうにしないで!」
「今はそれどころじゃねえよ! バカ!」
琳音くんと瑠月、両名に罵倒されながらも私は明かりのする方向へ走っていく。光が近づいてくる。あと百メートル。コンビニはもうすぐだ。そう希望を感じながら必死に明かりに近づいていく。
だが後ろでバタンと人の倒れる音がする。振り向くとそこには、男に足を掴まれて倒れた瑠月がいた。
「テメェら、よくもオレの人生をめちゃくちゃにしてくれたなあ……。こうしてお前らを血祭りにあげることで、オレも報われるぜ……」
何やら訳のわからないことを呟きながら、琳音くんと私に近づいてくる男。瑠月は倒れたまま立ち上がらない。頭を打って気絶しているのか。
ヤバい。本当にヤバい。語彙力が崩壊した脳内で、私と琳音くんは抱き合って男からの復讐をただ待つことしかできなかった。ジリジリと近づいてくる男と縮まる距離に、冷や汗をかきながら私は理不尽な制裁を待っていた。
すると刹那、男の首元から血飛沫があちこちに散り、首を失ったその大きな体は私たちめがけて倒れてきた。
「うわあ、死体だあ……」
私がその失血死した男の死体を倒すと、何やら少し低めの女性の声が聞こえてきた。暗闇の中、目を凝らしてみるとそこにはスタイルの良い外国人女性が、金髪を二つのお団子に結って構えていた。彼女の着ている白いノースリブには、男のものだろう。返り血が付いていた。
「蹴りで男の首をねじ切ったの……?」
首を探すと、向こう側に残っていた田んぼの中に、男の首が浸かっていた。その首を女性は両手で拾い上げる。そして倒れていた男の死体の上に乗せると、瞳をつぶって黙祷し始めた。
「うわっ、ミス・リーだ……」
裸の琳音くんが私の後ろから彼女の顔を確認して口にした。
「ミス・リー?」
「……カワシタくん。かわいそうに。あんな奴らの実験台にされて、働けないまま人生を終えるなんて……。どうか天国で神様に救われますように……」
それから数秒後、琳音くんを見つけたのか、ミス・リーは彼に声をかけてきた。どこか琳音くんや私を心配する様は、服や体についた返り血に似合わないほど優しい。
「琳音くんだよね、キミ? 覚えてる? 聖ビルギッタ学園で教育実習生だったリンダだよお!」
「ああ……。覚えてます。お久しぶりですね」
「無事だった? かなり追い詰められてたみたいだけど……」
眉を下げて心配そうにする青い瞳は、後ろで倒れたままの瑠月に気付いていない。それともわざとか。
「あの……、後ろで女の子が伸びてるんですが……」
私が怖れながら指をさすと、ミス・リーはそれに気付いたそぶりをしてスマホで一一九番に電話をかける。
「女の子がインガに捕まって、頭を打ったんです……。ええ、場所は鷺沢のコンビニ付近です。丘を降りてすぐなので分かると思います……。はい、分かりました」
すぐに電話を切った彼女は、後ろに立っていた私に優しく諭しながら一一〇番に電話をかけるように頼む。
「電話をかけてもらえない?」
「はあ……」
私は震える指先で電話をかけ、そのスマホを彼女に渡す。
「もしもし、岡野さんを呼んでもらえますか? ……はい。お願いします」
ミス・リーはまたすぐに電話を切った。そのスマホを私に返すと、私や琳音くんを襲ってきた男について語り出した。
「この人はね、可哀想な人生を歩んだの。両親に捨てられて、施設で不良品のように選別されて……。色んな実験のマウスにされた。普通ならインガは若いうちに死ぬけど、実験が逆にカワシタ君を普通の人間以上に強くしたの。そのまま大人になったはいいけど、彼に自活するためのチャンスは与えられなかったわ……」
「じゃあ、リー先生もインガだったの?」
琳音くんが震える唇と舌で聞く。私は彼らがどのように生きているか、生活しているかあまり分からないので会話には入れない。
「……ええ」
すると後ろから救急車のサイレンが聞こえてくる。どうやら倒れた瑠月を助けにきてくれたようだ。ミス・リーの顔に、返り血の赤がサイレンの光に反射して陰影を作り上げている。
琳音くんはそのまま私に肩を預けると、震える声で自分たちの境遇を嘆いた。
「どうしてインガって、こんな目に遭わなきゃいけないんだろう……?」
その問いに、私は何も答えることができなかった。