オタク作家の野望
「なあ真中ちゃん、琳音くんとはずっとトイレで逢瀬を重ねていたの?」
藤峰駅近くにあった池を干拓してできた土地に新しく建てられた六軒の市営住宅。3LDKの二階建であるその一軒に、若いプログラマーとブラジル人夫妻が住んでいる。
十八歳の時に奥さんが妊娠してしまい、高校を卒業後、逃げるようにここに来た二人は市営住宅や市の支援を受けて生活していた。まあ、最近は私の家からお米を買えるくらいには裕福になってきているのだけど。
「理香子さんに言ってもらえないかな? 千代さんのお米は高すぎるって」
「拓也さんこそ、コミケで何百万も稼いでるって聞くけど? 奥さんがコスプレして、息子くんも連れてきてるって、Twitterで話題になってたよ」
私が拓也さんとそんな会話をしていると、琳音くんがある一冊の本を拓也さんに見せて行った。
「拓也さんが絵を描けるなら……、この本を日本語訳した時に挿絵を描いてくれませんか……?」
霧がピエロや飴の飾りを囲っている。どこか幻想的で不気味な表紙絵をしたそれには外国人名とスウェーデン語でタイトルが書かれてある。
「『メンニスコーハムン ヨン・アイヴィデ・リンドクヴィスト』……。こんな物、どこで買ったの?」
「Vプリカでクレカを作って、bokusという本を輸出してくれるサイトで取り寄せた。他に『正しき者を受け入れよ』の原本も買ったけど、輸送量のほうが高くてな……。引いちゃったぜ……はは……」
昔の自分を思い出して笑う琳音くん。手首や首筋の包帯はまだ取れないけど、小さな夢が生まれたことで少し前向きになれたようだ。
「これってどんな話なんだ?」
「アル中の主人公がある島で娘を無くしてしまって、それから数年後、再婚した主人公は義理の息子と一緒に島に戻ってくるんですけど……。ここから先はネタバレになるからいえませんね」
「うーん、出版社に持ち込んでみたほうがよくない? 翻訳をさ。琳音くんの名前、ミステリー小説で見たことあるし」
「えー、琳音くんまだ十五歳なんですよ? その年でスウェーデン語から翻訳して出版社から出すっておかしくないですか?」
すると、拓也さんは苦笑いしながら私の頭を撫でて言った。
「才能とか実力とかに年齢は関係ないよ。実際琳音くんの翻訳は、力が込められていてやっぱり魂がこもった翻訳なんだよ」
「あはは……、魂がこもった翻訳、ですか……。嬉しいです」
照れながら頬を赤くして笑う琳音くんはやっぱり可愛らしい。今はメンヘラだとしても、やっぱり自活するほどの力はあるのだからそのまま前を向いて生きてほしい。しかしその前にそのメンヘラを治さないといけない気がする。
「そういえば琳音くん、メンヘラっぽいよなあ。やっぱり事件が尾を引きずっているのかな」
「ちょっと拓也さん……! 琳音くんにそんなこと言うと、また泣いちゃいますよ……」
すると琳音くんはうつむいて、やはり目に涙を溜めてポロポロ涙の粒をテーブルの上にこぼす。そして何やら、小さく独り言を呟いている。
「そうだよ俺は……。一人で生きて行きたいのに……、先生や真夏と会えることを信じてるから前へ進めないんだよ……」
「真夏? 一度お医者さんのところへ行ったほうがいいと思うんだけど。いいお医者さんならオレも知ってるからさ」
「あーあ、拓也さん。琳音くんって事件のことを言われるとフラッシュバックしちゃうんですよ。だからそう言う系の話をするときは、サンダーバードのテーマソングを聴かせるんです」
どうして責任を取るつもりですか? 私が責めるようなノリで拓也さんに怒ると、彼はオタクなりの答えを私に提案した。
「なら物語を作ってみたら? 虚構の中に琳音くんにとっての事実を入れるんだ。きっとそれをイベントで頒布したら、ある程度分かってくれる人も出てくるかも」
その考えには私も「なるほど」と思わず納得せざるを得なかった。実際に起きた事件を基にした作品なんて山ほどあるのだから、琳音くんと私でその物語を作ってネットで公開してしまうのも手だろう。
「ねえ琳音くん。私も拓也さんの意見に賛成なんだけど、自分で主張したいことを物語に込めて、ネットで発表するのはどう?」
「……例えばどんな媒体で? 漫画にするつもり? それとも小説?」
そういえば最近、pixivでは漫画が、小説家になろうやカクヨムでは小説が人気媒体として成功を収めている。アニメ化された作品だってごまんとあるわけで……。だが、私には漫画を描くほどの漫画力や絵の能力もないし、小説も文章が下手だし毎日投稿するのは難しい。
私が返答に困っていると、拓也さんが琳音くんにどう言えばいいかわからない、と言ったような顔で聞いてきた。
「なあ琳音くん、この町は、この世界はディストピアだと思うかい?」
「ディストピア……。そうに決まってるじゃないですか。俺だってこの前襲われたんですよ」
ああ、あの事件ね。まるで話しちゃいけないタブーみたいだよね。拓也さんは琳音くんの顔をじっと見ると笑った。
「なんでこんな町に拓也さんは住んでるんですか? イベントがあるなら東京のほうがいいじゃないですか」
すると拓也さんは少し驚いた表情をしてから、すぐ笑顔になって琳音くんの頭を撫でてその頬に触れて答えた。
「オレたちは十八歳の時に子供ができた。周りの目は冷たい。でもこの町にはオレたちと同年代の親たちがたくさんいるし、それにレッテが普通に生きている珍しい地域。レッテを観察すると何かしら不思議な物語が出来上がるからね。創作には困らないんだよ」
「そんな変な理由で……」
「で、そんな話はともかく本題に移る。琳音くん、君の過去を同人誌の話として描いてもいいかい?」
すると琳音くんは少し拓也さんに引きながらも、一度ジャスミンティーを一口飲んで彼に聞き返した。
「俺は別にいいですけど。具体的にどこを物語にしたいんですか?」
「柚木先生の人生の中で、一番大事な物として君を描く。実際の例で例えるなら沙耶の唄とか、かな」
「……先生は確かにレッテに両親を殺されたし、初恋の相手も先生を守るために自分の臓器を爆発させて死にました。そこも入れるんですか?」
すると拓也さんは口に手を添えて一度考える。それから琳音くんの眼をしっかりと見つめて彼にはっきりと言った。
「俺は柚木藍ゆぎらんという男の人生に興味を持っていた。自分を誘拐犯としてでも君を守るために日本中をさまよった。琳音くん。君にはそれだけの価値があったんだよ」
だからその価値ある君の姿を描きたい。そう言って琳音くんの顎をクイと上げた拓也さんの表情には、曇りひとつなくその真剣さが嫌というほど伝わってくる。
「……でも拓也さんってエロ同人作家でしょ?」
私がそう言うと、拓也さんは私を睨みつけて宣言した。
「オレはあの時の琳音くんを被写体にして一枚絵を描く! その被写体として琳音くんの小さい頃の写真をネットで見つけては『かわいい』としか考えていなかった。でも、その可愛さの裏にこめられた激情と自我を持つ過程。オレはそれを自分のイラスト集で描きたい!」
「…………」
「…………」
私たちはもはや何も言うことができなかった。拓也さんがまさか琳音くんをイラストの被写体として求めていた上、エロ漫画とはまた違う方法で琳音くん、または柚木藍という男の半生にフォーカスして描きたいのだと。
確かにあの誘拐事件はかなり衝撃的だった。十歳だった孤児の教え子を誘拐して、一年ほど日本中をさまよって柚木は誘拐犯として指名手配された。だが誘拐も資金が尽きるとレッテに必要な酵素を補う薬が買えない。柚木は自分の体を誘拐した琳音くんに差し出し、その時にインデル症候群に罹ってしまった。逮捕時に吐いた言葉が「捕まってよかった」というのは伊達じゃない。
普通に性的目的で誘拐するなら、自分の体を障害にも等しい病に罹らせてしまうか? 私はそこが引っかかって琳音くんの言う柚木先生を、世間が言うストックホルム症候群ではなく、琳音くんにとっての事実として捉えているのだ。
「ねえ、琳音くんはどうする?」
「……俺にとっての真実を描いてくれますか?」
「もちろん。世間には歪んだ物語として非難されるかもしれないけど、それが本人にとっての事実なら、主張したと捉えてもいいと思うんだ」
「つまり俺の証言を基に描いたと?」
「うん。そう描くつもりでいるけど、どう?」
すると琳音くんはしばらく黙って、それからすぐ答えを吐いた。