救命ポットにて
荒涼とした恒星間空間を、小さな人工物が飛翔していた。その中に閉じこめられていたのは、二人の人類。男と女。広大な時間と空間の中で、あまりにも短い命。この命の果てる前に、二人はどのような救いにいたるのだろうか。どのように生きることが可能なのだろうか。
そろそろ僕の左腕にしびれを感じるような気がして、そっと腕を動かした。彼女の頭を動かさないように、極めて慎重に動かしたのだが、心の中では彼女が目を開くことをひそかに期待する気持ちもあった。もちろん、そんなことは起こりようもないことはよく分かっているのだが。
僕たちは二人ともほとんど裸で、彼女は簡単なチューブ類を身につけたまま、二人で一人用の寝台に横たわっているのだ。それはきわめて長い時間にわたってのことだったし、窮屈なことは間違いのないことだったが、それでも眠っている彼女とこうして体を少し接していられることで、心には大きな慰めを感じた。
彼女の皮膚はなめらかで、若々しさを保っているように思われた。彼女の肌の上で、そっと掌を動かしてみても、彼女を起こす心配はない。彼女の皮膚は冷たく感じられたが、氷のように冷たいというわけでもなく、掌に気持ちの良いものだった。彼女に触れていると僕の呼吸や心拍も、彼女の非常にゆっくりした呼吸や心拍に同期してくるような気がする。
僕もこの状況の中では特にできることもなく、寝たり起きたりと変わり映えのしない生活を繰り返しながら、大部分の時間は彼女を眺めて、彼女の存在を感じて過ごしている。起きると言っても、この狭い空間ではちゃんと座ることもできない。うす暗い中で頭上のリーダーを灯して読書をしたり、彼女が起きた時に読んでもらえるように日記をつけたり、過去の出来事を思い出したりしている。時々は無駄と知りつつ、受動レーダーや受信装置のスイッチ類を入れたり回したりしてみることもあったが、それはエネルギーの無駄使いに過ぎないという事はよく分かっていた。第一、発見されるときには、こちらの反応など必要ないのだから。救命艇を発見して近づいてくる救助船の者にとっては、冬眠者の反応など、作業には全く必要が無いし期待されてもいないのだから。
それは、最初は微かな振動のように感じられた。特に大きな音が聞こえたり、異常を知らせる警報が鳴ったりしたわけではなかった。
僕はいつものオフによくするように、この宇宙船の唯一の繁華街、「銀河座通り」、通称「銀座通り」にそって、ただ目的もなく歩いていた。宇宙を疾走する宇宙船の中に設けられた通りの名前としては、なかなかうがった命名だと思ったが、もともとは母星の一都市にあった通りの名をもじってつけられた名前だと聞いたことがある。乗組員や乗客が三々五々、僕と同じようにその街を散策していた。この限られたスペースの中でも、時には新しい発見があるのを楽しみにして。それは、客や搭乗員が退屈を紛らわせるために作って、新しく展示されたばかりの手作りの商品であったり、載せている限られた原材料を新しく組み合わせて工夫した料理やデザートであったりしたけれど、そのようなささやかな変化を見つけることは、この永い旅では限りなくうれしいことだったからだ。もちろん、乗客なら目的地まで冬眠することも選べた。冬眠技術も成熟期に入った昨今では、昔騒がれたこともあるような事故の可能性はほとんどなく、目的地にほとんど年をとらずに到着できるというのは、長い旅では大きな魅力だった。もちろんそれだけ資源を節約できる利点も大きかった。多くの乗客は冬眠を選んだが、搭乗員である僕は残念ながら、その方法を選ぶことは禁じられていた。それで、オフの時間には公園をうろついたり、ジムで汗を流したり、図書館で電子書籍に目をとおしたりして過ごすことが普通だった。狭く限られた自分の空間にひきこもってばかりいるのは、時間の無駄、命の無駄だという気がしていたからだ。
その日も通りをぶらつきながら、行き交う人びとを眺めるという楽しみに耽っていた。なんと言っても、その中には若い異性の姿もけっこう混じっていたから、コンピューター画面に疲れた僕の目にとっては、それはとても貴重な休息に感じられた。その時、向こうのショーウインドーをのぞきこみながら、一人でゆっくりとこちらに向かって歩いてくる若い娘の姿が目に入った。薄い軽やかなスカートをひらめかせながら、次々にショーウインドーを巡っている彼女のことは、以前公園で数人の若い女性とともに笑いあっていたことや、図書館で一人きりでリーダーの画面を眺めて読書している姿を見かけて記憶に残っていた。僕は、何となく彼女にひきつけられていった。通りの同じ側を、ゆっくりと歩み寄っていく。あと少しで声が届きそうになったとき、彼女がふと顔をあげてこちらを見つめた。そして、そっと微笑んで軽く会釈をしてくれた。僕もたぶん笑顔になって会釈をかえした。彼女が今まで見つめていたショーウインドーには、美しい色ガラスの花びんが外からの光りを受けて浮びあがっていた。
「きれいだね」と、僕は彼女を見つめながら言った。
「本当に。いつか落ちついたら、こうした美しいもので部屋を飾ってみたいわ」
「前に会ったことがあるかな」
「さあ、どうかしら」
彼女は、実際には僕のことを覚えてはいないことがその返事からよく分かった。僕の方はというと、これまで彼女がいる時にはすぐに目を引かれてきたものだったのに。
「僕はいつか君が、公園にいるのを見かけたことがあるよ」
彼女は僕に目を向けただけで、何も言わなかった。それとも、言おうとしたのだろうか。
公園は、この宇宙船の中心部分を占めている酸素の供給循環装置の一部を乗客乗員に開放したものだった。そして、そこは僕たちがこの小さな世界で体験できるもっとも大きな空間だと言えた。時々、狭い空間に圧倒されそうになると、僕たちは新鮮な空気を吸って、空間の広さを味わうために出かけていき、しばらくの時を過ごすことができる。もちろん、もっと大きな空間を経験したければ展望窓という手もあるけれど、こちらからの景色は落ち込んでしまうほどに広大で、浮かんでいる僕たちの宇宙船自体があまりにも小さく、絶対零度の空間の中で自分の矮小さばかりが意識されてしまう為に、それほど人気がないのだ。ただ、またたきもせずに輝いている星々があるばかりなのだから。
その時、今度は確かに、微かに感じられる程度の振動が床をはしった。僕は彼女に目を向けた。彼女も、瞳に不思議そうな色を浮かべて僕の方を見あげた。
「何かしら」
「うん、何だろうね」
僕たちは銀座通りを見まわしてみた。この通りを散策していた人々も、それぞれに立ち止って周りを見まわしたりしている。こんな振動を感じたことなど、この旅が始まって以来一度も経験がないことだった。何だか嫌な落ちつかない気持ちになった。微かな振動がまた襲ってきた。ショーウインドーの中を見れば、壊れやすい商品を保護するために、保護容器が降りてきて緩衝材の注入が始まっていた。
「僕たち、引き上げたほうが良いようだね」
僕が言い終わらないうちに艦内放送が響いた。
「ミスター・ブルー。A・B。ミスターブルー。A・Bにおいで下さい。」
「君は? スタッフかい?」と彼女にきいた。
彼女はうなずいて、「行かなくては」と答えた。
「僕はCスタッフだから、呼びかけられてはいない。君の手伝いをできるだろうか」
彼女は一瞬考え込んで、僕のポジションについて質問した。僕はCに分類されている。いわゆる研究職とか事務職の部門だから、緊急事態にはAやBのスタッフの指揮下に入って手伝うか、自分の持ち場に引っ込んでいることが求められているにすぎない。僕は、普段は艦内の生態系の維持について、そして目的地での生態系改変についての研究者なので、今の緊急事態にはお呼びではないという事なのだ。そして、ミスターブルー・コールは、緊急事態即応体制のために、それぞれの持ち場に駆けつけることを呼びかける暗号コールである。一般の搭乗者に不安を与えないで緊急体制を整えるために使われるものなのだ。マニュアルや研修の最初に強調されているが、今まで実際には経験したことはない。
「じゃあ、お手伝いしていただくわ。手が必要になるかもしれないから。よろしくお願いね。ついて来てちょうだい」と、彼女は早足で歩きはじめた。
彼女は冬眠状態で旅をすることを選んだ乗客たちの世話をする看護師であることがわかった。世話をするといっても普段は、冬眠状態の乗客のバイタルサインや脳波を監視して、異常がないことを確認するのが任務であった。よほどのことがない限り、緊急事態で冬眠を解凍しなくてはならないようなことは考えられないし、僕の手助けが必要であるとも思われないという事を、急ぎ足で持ち場に戻りながら説明してくれた。僕は、それなのに彼女が僕の申し出を受け入れてくれたことにちょっと期待するような気持になった。
彼女の持ち場は、長く直線状に続く広い廊下といった印象を与えた。その中央にさらに幅の広い空間があり、そこがナースステーションとなっていた。僕たち二人がステーションに着いたときに、当直中のナースが計器盤の前に座って忙しそうに各冬眠ブースの状況を調べているところだった。彼女は顔を挙げて僕たち二人を見あげて、一緒にいた彼女を認めると軽くうなずいて見せた。そして僕の方には鋭い視線を投げかけてきた。僕は何となく見覚えのある彼女にうなずいてみせた。多分公園で見かけたことがある彼女の友人の一人であろうと思えた。彼女が怪訝そうに僕を見つめたのは、ほんの一瞬のことで、すぐに計器盤に目をもどした。
「今のところバイタルサインにも冬眠装置にも異状なしよ」。
「コードブルーだなんて、いったい何事かしら」
「さあ、とにかく待機しましょう。レイナももう来るでしょう」
彼女が答えた時に、ガツンというよろめくほどの衝撃が伝わってきた。それと同時に、計器盤の上で赤い警告灯が瞬き始めた。僕たち三人はお互いに顔を見合わせた。
「緊急事態。緊急事態発生。冬眠カプセルの射出準備にかかってください」。
あらかじめ録音されていたのだろう。緊急事態には似つかわしくない落ちついた声で、機械的とも思える声で、緊急事態など信じてもいない声音で、思いもよらない指示が流された。もしこの指示が本当だとしたら、今頃居住区では緊急脱出準備が呼びかけられているはずである。なにか現実とは思えない早さで時間が過ぎていくのを感じた。
「とにかく迷っている時間はないわ。あなたたちはそっち、私はこっち」
そう言って当直をしていた彼女が一方の廊下に突進した。
「一緒に来てちょうだい」
僕は彼女について、もう一方の廊下に急いで進んだ。廊下にそって左右に丸い窓が並んでいた。そこから覗くと冬眠者の顔が見えた。冬眠者はほとんど裸で、慣れていない僕は一瞬覗き込むのに気後れしたが、看護師である彼女は、それらの冬眠者に職業的な視線を送り、僕に説明した。
「視認して、彼らの状態を確かめて。特に異常が感じられなければ、それからこのボタンを押して。グリーンがつけばバイタルサインはOKよ。生命維持装置がそれぞれ本船から切り離されて、各カプセルの維持装置が活動を開始する。それから次のボタンを押して。脱出カプセルが降りてくるわ。それもグリーンになるのを確かめて。それで準備OKよ。本当に射出するには最後の赤いボタンを押して。それはまだ触ったらだめよ。射出命令が出るまではね」
「視認ってどうするんだ」
「のぞきこんで、普通に眠っているように見えれば、それでいいの」
彼女はそう言いながらすでに一方の窓にそって作業を開始していた。僕は戸惑いながらも、反対側の窓の確認を開始した。中の人は、健康そうに眠っていた。最初のボタンを押して、一瞬待つとグリーンのランプがついた。次のボタンを押すと、シャッターが閉じるように、眠っている人は脱出カプセルに包まれて見えなくなった。僕はそれを確かめてから次の窓に移った。彼女はすでに反対側の列の数人分前を進んでいた。廊下の半ばまで来たとき、激しい衝撃が襲ってきた。今度はまるで地震だった。といっても、僕は地震について聞いたことがあるだけで体験したことはないわけだけれど。振りまわされる感じで足をすくわれそうになった。彼女に目をやると、壁に手をついて必死で立っているのがわかった。僕を見た目が恐怖に大きく見開かれていた。
「緊急脱出命令。緊急脱出命令。これは訓練ではない。緊急脱出命令」。
機械的に大声がくり返し始めた。
「信じられない。本当のことかしら」と彼女が叫ぶように言って、「あなたは最初のポットに戻って、赤いボタンを押しながらできるだけ早くこちらに戻ってきて」と続けた。ナースステーションに駆け戻る僕の目に、反対側の廊下を駆け戻ってくる当直の彼女の姿が見えた。蒼白の顔が、ギュっと引き締められているのがわかった。やはり赤いボタンを押して脱出装置の起動をするためと見えた。僕は、ナースステーションに近い方から廊下の両側の赤いボタンをできるだけ手早く押しながら、彼女のいる奥の方に向かって進んでいった。彼女の近くまで戻ったときに、またしても地震のような揺れがきて、今回は底深いものの裂けるような音も交じっていた。彼女のいる所にようやく辿りつくと、そこには空の冬眠ポットが一つ残されていた。反対の廊下にいる当直看護師の方を見つめると、ちょうど彼女も冬眠ポットの一つに入りこもうとしているところだった。こちらをちらりと振りかえって、手を挙げて合図をおくってきて姿が消えた。
「私達も緊急脱出をしなくては」と、彼女が僕を見あげて告げた。しかし、僕たちはその廊下の端まで来ていて、残されたポットは一つだった。
「君が行きなさい。これは一人用だろう」と、僕は彼女を押し込んだが、彼女は狭い入口で向きを変えて僕の手を握った。
「あなたはどうするつもりなのよ」
「僕は他のポットを探して脱出する」
「何をバカなことを、時間が足らなくなったらどうするのよ。一般居住区までは遠いのよ。最短距離で行ったって時間がかかるわ。それに迷わないで行けると思ってるの」
確かにそうだ。今日この部署には初めて来たのだし、道すじを覚えている自信はなかった。彼女はポットを閉めないで僕の手をさらに強く握った。僕たちは見つめ合ったが、それは一瞬のことであったかもしれない。船体がまたしても大きく振り回されるように揺れた。揺れと彼女が強く引く手とが同じ方向に僕を動かして、次の瞬間、僕は彼女と折り重なるように冬眠ポットの寝台の上に投げ出された。彼女は、僕を押し退けるようにして救命ポットのボタンを探し出して力いっぱい押し込んだ。
*
うす暗いディスプレーの明かりに照らしだされた妻の顔を見つめて時間を過ごしている時に、彼女の目じりに小さな皺があるのに気がついた。そうだ。あれから長い時間が経ってしまったのだ。今さらながら驚きを感じてしまう。しかし、時間の微かな侵食が見られるとしても、妻は美しい。僕は眠っている彼女を飽きずに見つめていた。見つめる以外に、何ができただろうか。彼女に触れることはできるにしても、そこから会話どころか、たとえば僕が触れることを煩がるといったわずかな身動きのコミュニケーションも成り立つことはないのだから。それでも彼女を眺め、彼女の肌に少し触れることに、僕が飽きることはないだろうと思う。もちろん、抱きしめたい気持ちはいつもあるけれど、それでは彼女の体温を上げて、冬眠をさまたげることになるので、それはいつも自制している。ほとんどは、ただ眺めるだけだが、それでも一緒に生きているという実感を得られるのだ。
僕が、まあ、あのような形で救命艇に引きずり込まれるようにして、救命艇の発進ボタンが押されたのは、まさに間一髪だったと思っている。救命艇が艦から発進するためにゆっくりと送り出されている途中で、二度ほど大きな振動に揺さぶられた。僕たちは狭いポット内で振り回された。僕たちは抱き合って恐怖に耐えた。それでもポットは、じれったい位ゆっくりと射出口に向けて進み続けているようだった。途中でよく引っかかって止まらなかったものだと思う。そして空間に解き放たれた。一瞬の加速に続いて、今まで感じたこともないような揺れが襲ってきた。爆発波の先端にのるように、ポットは急加速した。事実そうだったに違いない。このポットからは外の様子を正確に知ることはできないが、すぐ近くで巨大な爆発があったことは間違いがない。嵐の中の小舟のようにゆすられるポットの中で、僕たちは固く抱き合って耐えるしかなかった。どれくらいの時間が過ぎたのかよく分からなかった。ようやく揺れがおさまって落ち着きを取り戻してから、僕たちはあらためて腕を伸ばす程離れてお互いの目の中をのぞきこんだ。極度の緊張のあとで、思わず笑いが込み上げてきた。しかし僕たちはすぐに真顔にかえった。
「君のおかげで命拾いをした。ありがとう。他のポットを探していたら、僕は助からなかったに違いない」
「いったい何が起こったのかしら。本当に私たちの船は爆発してしまったのかしら」
彼女が青い顔になって訊ねたが、それは僕にも分からないことだった。
「大きな爆発が起こったことは間違いなさそうだ。それ以外は分からない」。僕はレシーバーのスイッチを探しだして、何か聴こえないかと耳をすませたが、ノイズが聞こえるばかりだった。
「皆、爆発に巻き込まれてしまったのかしら。誰もラジオを鳴らそうとしていないわ。」
「たくさん助かっているだろうと思うよ。第一、冬眠中の人たちはラジオで連絡しようにもできないだろう。それに、なんとか脱出した人たちだって、まだ何が何だかわからない混乱状態なのかもしれない」。
「あの爆発が小さなもので、私たちの船が修理できるなら、すぐに私たちを助けに来てくれるかもしれないわね」
僕にはそうは思えなかったが、黙ってうなずいて彼女に賛成しておいた。僕たちはしばらく黙って耳をすませるようにしていたが、狭い一人用の冬眠カプセルの中で少し居心地が悪いような気持になってきた。彼女と二人きりで、この狭い空間でしばらく過ごさなくてはならないという事実が、だんだんと身に染みて理解できるようになったからでもあった。
「ところで」と、僕は遠慮しながら続けた。「あらためてだけれど、初めまして。よろしくお願いします。助けてくれてありがとう。僕は、シン・オオモリと言うんだ。君の名は何ていうの」。
「私は、オーロラ・マクフィールド」。
「オーロラって素敵な名前だね」
「私は名前でからかわれるから、あまりうれしくないわ。ロラと呼んでちょうだい」
「素敵な名前なのに、なぜからかわれるの」
「私が冬眠の管理をしているからよ。昔のお話を知ってるかしら。私は眠っている側にいるべきなんですって」
僕は心の中でなるほどと思って、思わず微笑んでしまった。それに、物語の主人公にしても良いくらい可愛い人だから、からかう男性たちの気持ちもわからないわけではない。
「それじゃ、あらためてロラ、僕を助けてくれてありがとう」
「それは偶然の出来事でしょう。運命と言ってもいいわ。あなたとあそこで分かれていたら、私は、あの扉の向こうで私を見つめていたあなたの目を一生忘れられなくなるところだったと思うわ」
「きっとそうだろうね。でも、ロラ、君があの瞬間に引っ張ってくれなかったら、僕は間違いなく君を一人で行かせていただろう。だから、君は命の恩人だよ」
「そうかもしれないし、そうでないかもしれない。でも、あらためて互いを知りあうことが必要よ。私から始めましょうか」
「いや、僕から自己紹介するよ。僕は環境技術の研究者で技師でもある。あまり実際的な技師というわけでもないし、僕たちの船では環境維持のスタッフの相談役といった所かな。船が向こうの惑星に着いたら、それからが僕の本当の仕事が始まるといってもいいくらいなんだ。だから緊急時には呼び出されなかった」
「私はナースよ。人口冬眠をしている乗客の健康管理をしているの。ドクターもおられるけれど、変わったことが起こらなければ、私たちがすべて任されているのよ。ドクターは眠らなかった乗客や乗員の診察や相談に忙しいから、ほとんど私たちのウォードに来られることはないわ。それと、人工冬眠に入るときや起きる時のお世話をするのが仕事」
「つまり君は人工冬眠のスペシャリストというわけだね」
「スペシャリストというほどじゃないけれど、やるべきことは分かっているつもり」
「それはよかった」
「どうして」
「僕は君が眠らなくてはいけないと思うんだ。救助を待つ時間はけっこう長いと思う。船のスピードを考えると、救命艇はずいぶん広い範囲に散らばることになるだろうし、救助隊はそれを拾って回らなくちゃいけない。そのうえ、救助が必要であることが母星本部に伝わるにも長い時間がかかる。救助隊を組織するのにもだ。だから、君は眠って年を無駄にとるリスクを避けなくてはいけない」
「それはあなたも同じでしょう。それに私が人工冬眠のスペシャリストなのよ。あなたじゃないわ」
「君が指導してくれたら、僕も処置をできるようになれるよ。それに君はまだ若い」
「あら、それはあなたも同じでしょう。あなただってお年寄りには見えないわ」
「たぶん君より5つ6つ年上だろうと思う。女性に年を聞くのは失礼だと思ってきかなかったんだ」
「24才になったところよ」
「じゃ僕より6つも若い」
「この中で私が眠っていて、あなたはどうするの。ずっと起きているつもり」
「そうするしかないだろうね。この艇の冬眠装置は、多分、一人用だろう」
「残念ながらそのとおりだわ。でも、私が起きた時におじいさんのあなたを見るのはいやだわ。万一、私達が思っているよりも時間が経って、あなたが亡くなっているのを見るのはもっといやよ。それじゃ、あの扉の向こうにあなたを置き去りにしたのと同じ気持ちになるでしょう」
「分かった。この議論はもっと後でやることにしよう。ところで、この救命艇の生命維持装置はどうなっているのだろう」
「私も詳しくないのだけれど、一人の人がずっと起きていても何十年かは燃料電池がもつはずだわ。それにCO2の吸収とO2の発生は大丈夫なはずよ。食料はどうなっているのかしら。あら、それこそあなたの専門分野でしょう。どこかに取説のようなものがあるはずよ。この中の図書目録を開いてみたらどうかしら」
「そうしよう」
頭上のディスプレイのスイッチを押して、僕は救命艇の構造設計書を見つけだした。同時に、救命艇の記憶装置には、意外とたくさんの蔵書と音楽が収納されていることに気づいた。もっとも、こうしたものはたいした記憶容量はとらないはずだが、それでも親切なものである。大部分の乗員は冬眠で過ごすはずだから、これらのものは必要が無いはずだ。艇の構造設計書は、微に入り細に穿ったものだったが、艇内から操作できることは限られていた。それでもいくつか嬉しい発見ができた。
「これによると」と僕は言った。「CO2吸収量をあげて、O2発生量を増やすことは可能なようだ。それに栄養カプセルやエネルギー源の生産も工夫によっては可能だと思う」
彼女の顔がパッと明るくなったが、「残念ながら、二人がずっと起きていて、その必要量を賄うには少し足りないと思う」と続けた。「やはり、どちらかが冬眠しなくては駄目だ」。
「それじゃ、あなたが先に冬眠して。適当な時間が経ったら起こすから」
「いや、やはり君に先に眠ってもらわなくてはならないなぁ。こうした変更を加えるのには、少し時間がかかる。そのうえ、その作業は君には不可能だと思う」。
僕がそう言うと、彼女は悔しそうな顔をして黙ってしまった。
「まあ、冬眠のことについてはまたゆっくり考えよう。それより、もっとロラのことを知りたいな。これから長いつきあいになるのだからね」
「私もあなたのことをもっと知りたいと思うわ。命を任すことになるんですもの」
「そうだね。それじゃ僕のことを話そう」
僕は、僕の今までの30年の人生について話し始めた。
「僕は15歳の時に両親を失った。ラーウイルス禍のことは聞いたことがあるかい。君がまだ幼い時だったと思う。僕の住んでいた地方では、感染がことさら激しかった。世界は感染を恐れて僕たちの地方を閉じ込めてしまったので、戦争になりそうにもなった。でも、大人たちは結局、自分たちが滅びることを選んだので、戦争も起こらなかったし感染が世界に蔓延することも防げたのだ。その時に、本当に多くの人々が亡くなった。僕の両親も死んだんだ」
彼女は目を細めるようにして聞いていた。
「その事件は、もちろん知っているわ。その時にはよく分からなかったけれど、看護師の勉強では必ず習うことだわ。高潔な判断だったわ」
「僕もそうだと思う。でも本当にたくさんの人が死んで、後に残された僕たちは、3年ものあいだ自分たちだけで生きていかなくてはならなかった。最初は、人々を埋葬する日が続いた。その後は、生きていくために社会のインフラを再建した。農業も再建した。作物を土地に植えて育てることもした。工場で作物を育てることは、すぐには不可能だったからだ。僕たちは、外からの援助が再開するまでに、さらに多くの人々を失った。たいていは、僕たちに技術を教えてくれた生き残った高齢者たちだったが。それから、安全が確認されて、外の人々に救いだされた。残された僕たちは大切にされたし、そのおかげで大学まで進むこともできた。僕は研究者として大学院にも進んだ。しかし、僕たちの国はもう失われてしまった。それが、僕がこの宇宙船に志願した理由だよ。新しい国の一員になってやり直したかったからだ」
「私がこの宇宙船に乗ったのも、同じような理由だわ。私も両親を失ったようなものだから。あなたの物語ほど劇的ではないし、どこにでもある話だけれど、父が事故で亡くなってから、何年もずっと母といっしょだったの。でも母にも新しい人ができて、新しい家族ができて、私も大人になった。大学にまで行かせてもらったのだから。もう独立するころだと思ったのよ。でも、私がこれに乗ることを決めて母に話してから、家族の皆がとても優しくなった。私は良い想い出をもって出発することができたわ。新しいところで、私は私の家族をもつのよ」
この船のスタッフは皆、似たり寄ったりの運命を背負ってこの船に身をまかせたのを僕は知っていた。乗客たちも多くはそうだった。ただ、僕たちスタッフはこの航海のために乗船料を払う余裕がない者ばかりだったが。そうでなければ、この片道の移住に参加するはずがないではないか。そして彼女も同じような痛みと、同じような愛を家族によせて、古い世界から離れてきたことを知った。
*
初めてロラが眠りについて、体温とともに呼吸数と心拍数が徐々に低下していった時には、僕はもう少しでパニックになりそうになった。それが予定されていることと頭では理解していても、その前のわずかな日々でもう離れられなくなってしまった彼女が、僕から失われていくようで、耐えられない寂しさと悲しみが心を充たした。気づくと涙があふれていた。彼女の裸は真珠のように美しく輝いているように見えた。色を失いつつある唇にそっと口づけして、僕は彼女に別れを告げた。僕がふるえていたのは、わずかに低下しつつある室温のせいばかりではなかった。ロラの冬眠を妨げないために、起き続けているぼくの生存を脅かさない範囲で、室温を下げる必要があったのだ。その方がエネルギーも節約になる。昔行われていたように胃に冷水を循環させるのではなくて、動脈と静脈から挿入された管による低体温と薬物による代謝の低下により、ロラは若さを保ったまま冬眠を続けることが可能なのだという知識とは別に、先ほどまであれほど生き生きとしていたかわいい私の妻が、今は、それこそ名前のごとくオーロラ姫のように眠りについている。そして、その時が来るまでは、私の心からのくちづけもその眠りを覚ますことはできないのだ。
「美しい愛するロラ、健やかにお眠り」と、口に出していってみたけれど、今は一人きりとなったこの狭い救命艇の中では、言葉は虚しく響くようだった。彼女が目を覚まし微笑みかけてくれる時が来ることを、なんだか信じられない気持ちがした。
「今日は二人で公園に出かけてみましょうか」
ロラが、突然話しかけてきた。あの時は本当に驚いた。彼女が突然錯乱したのかと思って、僕は驚いて彼女の顔を見つめた。僕たちがいつ救助されるのかわからないままに、3日を過ごして、助け出されるのはかなり先のことになると諦めが付き始めた時だったので、彼女が錯乱しても不思議はないと思えた。
「ばかね。私は気が変になったのではないですからね」
彼女がおかしそうに、悪戯っぽく笑いながら言った。僕たちはこの救命艇に閉じ込められたまま、それぞれの人生や考えや夢について話し続けた後のことだった。1日を24時間と、本船で過ごしていたと同じように過ごすことに決めて、4日目の朝を迎えた時のことだった。
「こうして話し続けていても、狭い艇内の壁を見つめながらだと楽しくないでしょう。だから、二人で“ゴッコ遊び”をしましょうよ。今日は今から公園でデートするのよ」
「なるほど、そういうことか。それじゃ、公園でデートしよう。どこで待ち合わせることにする?」
「西のゲートを入ったところに小さな広場があるでしょう。あそこのベンチで待ち合わせしましょう」
僕たちは二人並んで狭いベットに横たわったまま目をつむった。
僕が西ゲートに入っていくと、白いベンチに座ったロラの姿が見えた。薄い黄色のワンピースが輝くようだった。彼女は小さな本を手にもって、少し俯きかげんにそれを読みふけっているようだった。僕は、彼女の様子をみつめて一瞬立ち止まった。目の前には円形に芝生が広がり、その縁には黄色い小さな花が植わった細い花壇が取り巻いていた。僕は気を取り直して、少し急ぎ足で彼女に向かった。足音が僕を追い抜いていった。彼女はそのままで顔をあげて、僕を認めてほほ笑んだ。
「ずいぶん待たせたのかしら」と僕が尋ねた。
「いいえ、この世界に入ってきたのは、ほとんど同時だったわ」
「僕は、本当は君より先に着きたかった。女性を待たせたくなかったんだ」
「あら、本当?」と、彼女は答えて姿が消えた。
僕はそのベンチに座って周りの様子を眺めた。目の前の芝生の広場と黄色い花を見つめていた。西ゲートに人影がして、薄い黄色のワンピースをまとったロラが姿を見せた。彼女のまわりには薄黄色のオーラが輝いているようだった。僕は思わず何回か瞬きをしてしまった。空気がほんの少しだけ青紫色をおびたように感じた。彼女は僕を見つけて、そっと微笑んだようだった。そして風に吹かれる花びらのように歩み寄ってきた。
「ずいぶんお待ちになった」
「たった今、ここに座ったところ。君のワンピースの色はすてきだね。薄い黄色で、君がオーラをまとっているのが見える」
僕はこんな気障なセリフを、今まで女性にかけたことはなかったが、こう口にできて突然とてもうれしくなった。
「ロラの黄色いオーラのおかげで、風の色が薄紫になったような気がする。ありがとう」
彼女は黙ったまま少し笑って僕の横に座った。
「この公園にはよくいらっしゃるの」
「そうだね。僕がオフの時には、よくここで時間を過ごしたものだよ。最初に君がお友達と楽しそうに話していたのを見たのもこの公園だった」
「ごめんなさい。私、あなたに気がつかなかったわ」
「邪魔するのが怖くて、遠くから君たちを眺めていただけなんだ」
「その時からお友達になれれば良かったのに」
「今はもう友達になれただろう? たぶん」
「そうね。たぶん」
これは僕たちの最初のデートだったので、何を話していいか思いつかないままで、目の前の公園を眺めていた。なにか面白いことを話さなければと、心は焦るのだけれど、ロラが何に興味をもっているのか、僕が面白いと思っていることを一緒に面白がってくれるのか、僕といっしょにここに座っていることを、詰まらないと感じているのじゃないかなどと、それこそ詰まらないことばかりが心に浮かんだ。そっと隣のロラを盗み見てみると、彼女は真っ直ぐに公園を眺めながら微笑んでいた。
「君は何色が好き」
「私はどんな色も好きよ。どんな色でも、仕事着の白だって、嫌いな色ってないわね。あなたは何色が好き」
ウーンと、しばらく考えて「緑かな」と答えた。「僕の仕事がうまくいったら、惑星中が緑になる」
「それはすてきね。本当はあなたのしたいお仕事はどういったことなの」
「環境工学。テラフォーミングをすることが夢かな。僕たちの新しい世界を、緑でいっぱいにすること」
「素敵なお仕事ね」
「君の仕事も素敵だと思うよ。だって、人々の眠りを守っている。人々の命を守っているのだから」
「目的地に着いたら、あなたの本当の仕事が始まるのね」
僕の心の中に、一瞬目的地に着くことができるのだろうかという疑いが湧き起って、涙が湧いてきて、僕たちのゴッコ遊びが崩れそうになった。僕は慌てて立ち上がった。
「ちょっと一緒に歩こうよ」
伸ばした手が彼女の手と触れて、彼女も軽く僕の手を握って立ち上がった。
「君の見たことのない庭があるんだ。そこに行こう」
僕は彼女と手を繋いだまま先に立って歩き始めた。歩きながら周りに見えるものを次々と口に出して説明した。僕たちの進んでいく道のまわりに生えている木々や、そこに咲いている小さな花たちの姿や色について、そうすることによって僕たちを囲んでいる世界を共有して、散歩の楽しさを味わいながら。それにこの公園は、酸素の供給やわずかであっても航海中の食卓に変化をつける貴重な穀物や果実の提供源を兼ねているばかりではなく、多様な種の保存にも貢献しているので、僕の仕事の一部をなしている場所でもあったから、僕の知識は、一般の乗客のものよりもずっと詳しい確信がある。考えてみると、彼女が最初のデートの場所に公園を選んでくれたのは幸いだった。他の場所より生き生きを思い浮かべて描写することができるし、女性と二人きりの時に何を話していいか分からなくなる僕にとっては、他の場所に較べて話す材料に困らないという利点があったからだ。僕は植えてある一つ一つの木々や草花について説明しながら進んでいった。彼女も一つ一つの植物について、短い感想をかえしてくれたので、僕は普段にないほど饒舌になった。
道は船の外壁と同じ円筒形の中でらせん状に造られていたので、散歩道はけっこう長く歩くことができる。それに他の道とのあいだは見通せない工夫されていて、公園は実際よりもはるかに広い空間であるかのように感じる設計がされているのだ。空を見上げなければのことだけれど。僕が選んだ道は、このまま進むと南門に出る。もう一つの道は北門に通じている。僕たちが歩いてきた道が一番東側のカーブにかかるところに、ちょっとした茂みが作られている。そしてそこに目立たない踏みわけ道がある。そこを茂みの中に入っていくと、関係者以外立ち入り禁止の札があって小さな戸口がある。その戸を入ると、そこは小さな実験農場となっている。僕は彼女に説明しながら先きにたって進んでいった。そこでは透明な仕切りで区切られたたくさんのケースの中で、さまざまな植物が栽培されているのだ。
「こんな所があるなんて知らなかったわ。まるで秘密の花園ね」そう言いながら彼女は僕についてきた。
「それほど花が咲きみだれているわけではないけれどね。僕は関係者だから、ここには時々来ることがある。変種をつくりだして、実際に試してみたいことがあったら、ここで実験できるようになっているんだ。土の組成とか、大気の成分とかを変えてね。そして、新しい故郷に着いたときの準備をしているんだ」。
「でも、こんなに狭いところに、たくさんの種を保存することができるのかしら」。
「それこそ母星にある植物は、そして植物が必要とする昆虫とかの生物は、すべて冷凍保存してあるんだ。必要な時にそなえてね。ちょうど君の患者さんたちと同じだよ」。
彼女はちょっと返事に困ったように僕をにらんだ。僕の秘密場所に彼女を連れてくることができて、ちょっと得意な気持ちになった。
*
眠っているロラを見つめていることは、心を和ませることである。しかし、もちろん起きている彼女と共に時間を過ごすことは、それ以上に楽しく貴重な時であることは間違いない。彼女は美しい。しかしそれ以上に、彼女はすばらしい知性と決断力を内に秘めていることに、僕は本当に驚かされてきた。今はただ眠っているように思える彼女のひどくゆっくりとした呼吸と鼓動の奥で、彼女はどんな夢を見ているのだろうか。僕自身は、この冬眠の間に見た夢を思い出せないでいる。それでも、眠りから覚めた時には、何か夢を見ていたような気がすることもある。2年間の人工冬眠は、主観的には夜眠って朝起きるような印象で、その間の時の経過はほとんど意識にのぼることのない、一瞬のことであるように思えるのだが、確かにその間にも、頭脳はゆっくりとではあるけれども活動を続けているはずなのだから。
彼女の起きる時が近づいてくると、毎日が特別の期待に染められてフェスティバルを迎える子供のように、僕の毎日は限りなく輝かしいものとなり、しかも時間の歩みが信じられないくらいに遅くなるのだ。一瞬一瞬を、指を折りながら数えつつ過ぎ去る時を数える。
最初の僕たちの“ゴッコデート”は大成功だった。僕たちは幸せにつつまれながら救命艇で目をあけた。僕たちは、この三日間ここで話し合った以上に、美しい公園や研究農場で話し合い理解し合うことができたと思う。
「とても楽しかったね。僕たちがこんな風にデートできるなんて思いもよらなかった」と、僕はロラを見つめながら、ちょっと興奮して告げた。ロラも僕を見つめながら、そっと微笑んでくれた。
「私にとっても初めての体験なのよ。二人で“ゴッコ遊び”をするなんて。だから、こんなに上手くいくなんて思わなかったわ。あなたの景色の描写が素晴らしかったのよ。それで私も同じ景色の中に居れたのだわ」。
「僕はこんなこと初めて経験したよ。君は今まで一人で“ゴッコ”をすることがあったの」。
「そうね。たまにはね。私も夢見る乙女なのよ」。
そういって僕を見た彼女は、悪戯っぽく笑っていた。
「いろいろ不幸なことがあったでしょう。そんな時に、私は一人きりだと思った時に、こうしたことに耽ることがあったわけ。昔のお話で『小公女』というのがあるでしょう。その主人公がこうして不幸を幸福に変えるのよ」。
「それはすごい知恵だね。でも君のは、もっと独創的だった。僕は君のことが、この艇の中で話し合ってきた以上に理解できた気がするよ」。
それからの数日の間、僕たちは毎日、この“ゴッコデート”を繰りかえした。それは本当に僕たちを夢中にさせた。ロラと初めて手をつないだのは、あの最初の公園だったが、その後に訪ねた銀座通りでは腕を組んで歩いた。展望窓で並んで外の星を見つめている時には、周りに誰もいないことを確かめて、もちろんそう信じれば誰もいなくなるわけだが、そっと口づけをした。ちょっと唇が触れるだけのような口づけだったが、その羽のような感触を今でも忘れられない。
僕たちは、少なくとも僕は、狭い救命艇に生活しているにもかかわらず、これらの日々は限りなく幸せだった。しかしいつまでも、こうしてもいられなかった。なぜなら、この救命艇は、長く二人が起きて生活するには小さすぎたからである。栄養カプセルは充分あったし、僕たちは母船にいた時から、よほどのことがない限り栄養カプセルで生活していたから、食事の問題はなかった。水も循環再生されていたので問題ではなかった。しかし肝心の二酸化炭素処理・酸素生成システムに付加かかかり続けていることは明らかだった。救命艇内の二酸化炭素濃度が、わずかながら上昇していた。僕たちのどちらかが冬眠に入る必要がある時が近づいていると感じた。僕たちは二人並んで横たわりながら、この問題について話しあった。彼女もなかなか譲らないところもあったが、最終的には僕の案を受け入れてくれた。つまり、彼女が僕に人工冬眠の扱い方をできるだけ詳しく教えた上で、彼女が最初の冬眠期間に入ることになった。それから数日間、僕は彼女の手ほどきのもとで、頭上にあるリーダーの助けも借りて、人工冬眠について基礎的なことを学んだ。彼女をどう入眠させるかが問題だったが、かなりの過程は自動化されていた。一番難しいのは、動脈と静脈にカテーテルを挿入することで、これはロラが自分ですることが難しく、僕も習熟することができない手技だった。なにしろ、練習するにしても他に練習台がいないわけだから。
一方、彼女が冬眠に入ったあとで、僕はこの艇の環境を少しでも良くする方法を考えるという約束もした。それがあるからロラは、先に冬眠に入るという条件に同意せざるを得なかったのだ。この艇の二酸化炭素処理・酸素再生システムの中心は、触媒を利用した化学反応だったのだが、補助システムとして「スーパーミドリムシ」を利用することができることに気がついた。不活性化された「スーパーミドリムシ」ユニットがあり、これを活性化して、さらに予定された二倍の能力を発揮させることができる可能性があった。もちろん生物を利用する方法なので、急激に能力を向上させることは難しいだろう。それこそ植物を成長させるように、忍耐強くこのシステムを育てていく必要があるし、システムとして安定させるには時間が必要であるけれど、それこそ僕の知識と経験を生かすことができる分野の一つであることは間違いがない。これがロラを納得させた理由である。次に彼女が目を覚ましたときには、この救命艇の生命維持システムを、今よりも強固なものとしておけるという見込みによって、彼女は言い争うのをやめたのである。
ロラによる僕の人工冬眠トレーニング速習コースが完了した時、彼女がまた、突然僕を驚かせた。
「私達、結婚しなくてはいけないわ。私が冬眠に入る前によ」
「え、どういうこと」
「結婚するのよ、私達」
「それは」と僕が言いよどむのを、彼女は真剣な顔をして見つめた。
「あなたは、私と結婚したくないのね」
「そうじゃない。僕はうれしいし、ロラと結婚したいと思うよ。君が僕のことを知る前から、僕は君の魅力に惹きつけられていた。話したいと思ったし、一緒に時間を過ごしたいと思っていた。僕は君と結婚することに異議はない。だけど、それは君にとっては不公平な気がするのだ。ここにはぼくしかいないのだから。君には選択の余地がない。今はね」
「結婚にはいろんな形やきっかけがあるものだって思ってきたわ。私の母に愛する人ができた時から、私は自分の結婚についてうんと考えてきたのよ。あなたはそうしたことを真面目に考えたことがある」
「いや、正直にいってほとんどないと思う。いつかどうしようもなく魅かれる人と出会って、結婚するんだろうなと、漠然と思っていただけだよ」
「結婚にはいろんな原因があると思うのよ。しかし本当の原因は運命だと思うの。私たちは、どういうわけか、この一人乗りの救命艇に二人で乗り込むことになったのよ。そして、この数日を一緒に過ごしてみると、とても相性がいいこともわかった。運命なのよ」
僕は彼女の説明に納得しそうになった。しかし、いつかは助け出される可能性をまだ信じていたし、その時にはどうなってしまうのだろうか。運命が僕たちを引き離すことになるのだろうか。結婚すると言うことの喜びよりも、こうした特殊な状況の中での結婚が、普通の情況に戻った時にどう壊れてしまうのかという不安の方が大きかった。僕は正直にそういったことを、少し詰まりながら説明した。彼女は少し笑って、それから真面目な顔に戻ってこういった。
「さあさあ、シンさん。そんな取りこし苦労はやめなさい。私たちは今生きているのよ。そしてこれからも一緒に生きていこうとしているの。それは運命の命じたことだわ。あなたはどちらを選ぶの。二人の友人として一生一緒に過ごすつもり。それとも、運命に結び合わされた夫婦として、これからの長い時間をいっしょに生きていくの」
「ロラ、どうか僕と結婚してください」と、僕は叫んだ。「君が正しい」
そういうわけで、ロラが眠りに着く前に僕たちは結婚式を挙げることとした。それから数日は、二人でいろいろなプランを練った。もちろん、ロラが主導権を握っていることは、普通のカップルが結婚式に臨むのと同じだった。それでも一緒にプランを考えるのは楽しかった。僕たちの場合、そのプランを実行するためには、普通のカップルの何倍も打ち合わせが必要だった。僕たちが注意を向けるもののすべてが、正確に美しく描写されて共有される必要があったからだ。僕たちは、この数日、空想の中でデートを繰りかえしてきたことで、アドリブで世界を共有することがかなり上手くなってきていた。しかし、結婚式となるとそうはいかない。この結婚式をいつものデートのようにアドリブにまかせたくはなかったのだ。
まずは結婚式をどこで挙げるか、いろいろな場所を提案しあった。たとえば僕たちの乗っていた本船の中にある儀式の部屋とか、最初のデートをした公園とか、あるいは、母星の様々な結婚式場など。その中には、森の中のひっそりしたチャペルで鳥の声に囲まれての結婚式といった案もあった。しかし最後にはとてもスタンダードな、ありそうでありそうもないところ、少し高台になっている岬の先端の小さなチャペルを選んだ。海が見渡せて緑にもつつまれているのが、二人の気に入ったのだ。その後、時間や季節や天候などを選んでいった。景色の隅々まで、結婚式の間にはもしかしたら僕たちの目が向くことのないような草花や建物の壁といったものも、二人で見ることができるように話しあった。誰に司式をしていただくかを決めるのは、あまり難しくなかった。本船の船長の顔をした牧師さんに決めた。決めた時にはおかしくて、二人で少し笑った。招待客も、それほど多くはないけれど友人達や恩人たちを招くことに決めて、その姿かたちを共有していった。招待客はさまざまな時代に二人を愛し、深い影響を与えてくれた人たちで、母星の人であったり本船での友人であったりした。そしてもちろん、お互いの両親と家族、僕の両親は15年前の若々しい姿から、少し年令を進ませて描いてみた。ロラは、亡くなったお父さんも、分かれてきたお母さんの連れ合いと家族も、どちらも出席してもらうことにした。随分いろいろなことを決めなくてはならなかったが、準備は二日ほどですんだ。彼女の結婚衣装は当日まで僕には秘密だった。
心地よい穏やかな風が背中から吹いていた。緊張して式場の入り口に向いた僕は、会衆の間にひかれたバージンロードを、父親に手を引かれて進んでくるロラを見つめていた。会衆は皆、彼女の方に顔を向けていた。彼女が僕に秘密にしていたウエディング・ドレスは、その場で初めて、君の口から明かされた。僕が目にしたドレスは、白いレースに飾られたシンプルなものだったが、ピンク色のバラで飾られていた。頭は、やはりピンク色の花の冠で飾られていた。正直に言うと、その姿は昔話から想像する眠りつづけるオーロラ姫のようで、鼻の奥がつんとするようだった。ロラが祭壇の近くの僕の側に来たとき、僕は思わず手を差し伸べていた。そして二人で祭壇に向きなおった。僕たちの誓いの言葉と、それを聖別する牧師の言葉が続いた。船長の顔の牧師はにこやかだった。僕たちも幸せでクスクス笑った。軽い微かなキス。そして退場。両親の顔がにこやかだった。不思議なことに、遥かな昔にこの世を旅立った彼らに本当に祝福されていると感じた。音楽にあわせて退場する僕たちを、人々の祝福の言葉や拍手が覆ってくれた。
続いてその庭で、広々とした海原を眺めながらの野外パーティーが行われた。小さな楽団もそこにいて、ダンス曲を奏でてくれた。僕たちは、僕たちに想像できるかぎりの贅沢な料理をテーブルに並べた。友人たちと親しい人たちと、笑いあい話し合い、そしてダンスもした。やがて空は夕暮れの美しい茜色に染まり、僕たちの結婚パーティーはお開きとなった。
僕たちの新婚旅行は、会場の下の小さな港からの船旅だった。それは、宇宙を行く旅ではなく、海の波の上を進む洒落た船、ヨットだった。ヨットは清潔で白く小さく、僕たちのキャビンも小さなものだった。それは、ちょうど僕たちの小さな救命艇の大きさだった。キャビンとしては小さすぎることは分かっていたが、僕たちは話し合ってそう決めたのだ。つまり、これからの僕たちの旅、この救命艇での旅は、僕たちの新婚旅行なのだと。僕たちはデッキから親しい人たちに手を振ってわかれた。茜色の空は濃い紫へ、そして深い色にかわっていき、人々は小さくなっていった。その姿が小さくなりいつまでも手を振っている彼らと、遥かな別れをして、僕たちはキャビンに戻った。
僕たちのベットの脇机には、小さなバラの花束が飾られていた。花びんは、僕たちが初めて出会ったあの店のショーウインドに並べられていたカットグラスの花びんだった。花びんは室内のうす暗い灯りの中でも不思議な輝きを放っていた。僕たちのベットは、母星にも得られない特別の寝具、つまり無重力だった。そして僕たちが纏っていたのは、薄い冬眠スーツなのでまるで着ているようには感じられないようなものだった。しかし、ベットではほとんど想像力を働かせる必要が無かった。ロラの存在だけで、そのベットは絢爛豪華なものと感じられたからだ。僕たちはそこで初めて身体をあわせた。恐怖に打ちのめされて脱出したあのときの後では、それは初めての抱擁だった。抱き合って目を見つめながら、愛していると打ち明けた。これからの人生をよろしくお願いしますと誓い合った。驚いたことに、驚いてはいけないのだろうけれど、ロラは初めてだった。そして正直に言うと、僕も初めてだった。お互いにあとで打ち明けることになったのだが、僕たちの学生生活はよく似ていた。少しでも早く独り立ちできる資格を得ようと、そればかりに集中していたのだ。それに、それ以外のことに手を出すには、二人とも貧しすぎたのだった。そういうわけで、しかも無重力という特別の寝具のせいで、はじめてのセックスは少し手間がかかったが、初めて入った彼女の身体は、とても熱かった。僕は完全に満足した。彼女と結婚できて幸せだったからだ。
*
眠っているロラを見つめている時、彼女の髪に一筋白いものが見えるのに気がついた。エッと思って、ただ髪の毛が光っているだけではないかと、目を近づけてよく見てみたけれど、確かにそれは白髪だった。僕は気になって、この小艇内には鏡は置かれていないので、自分をカメラに映して、スクリーンでよくよく眺めてみたのだが、僕にはもっと白髪があることに気がついた。確かに、僕たちがこの救命艇に移って救助を待つようになってから、ずいぶん時間が経ってしまっている。ロラは眠っていても美しかったし、起きている時にはもっと素晴らしかった。肌も若々しいままであると思っていたが、ずいぶん時間が経ってしまっていることは間違いがない。僕たちは2年ごとに冬眠を交代していた。僕ももう十回も眠りについていた。僕たちが母船を脱出してから、40年が、実際には41年がたってしまったと言うことだ。実際に年を摂るのがその半分程度としても、僕はもう50歳に近づいているのだから。
41年というのは、最初にロラが冬眠についたとき、僕はうんと我慢をして3年間彼女を眠らせておいたからだ。起きた時に、彼女は本当に怒った。あれほど怒った彼女を見るとは思わなかった。それで、僕は二度と彼女を怒らせないために、それからは2年おきに冬眠を交代するという約束をかたく守ってきた。彼女に若くいてもらいたいというのは、彼女を愛しているからでもあり、決して僕のわがままだけが理由ではなかったが、あれほど怒った彼女と出会うことはもう避けたかったので、僕はいつも約束を守ってきた。それに、2年ぶりに彼女を起こすというのは、本当に喜びだった。時間がきて、呼吸と鼓動が少しずつ早くなり、彼女の白い体に血の色がもどってくるのを見ているだけで、僕は幸せだった。二年間の奇妙な共同生活が、孤独な共生が終わり、ほんの二週間程度にすぎないにしても、一緒に命を喜び合うことのできる休暇のような、お祭りのような時間を過ごすことができる日が、本当に待ち遠しかったのだ。それはロラも同じだと思う。起きて2年間を過ごした者が、孤独が破れた時の最初は、それだけ激しく求める側になるのが常だったからだ。しかしこの休暇の終わりが近づいて来るにつれて、今度は残される者が激しく求めるようになる。これからの孤独な二年間にそなえる準備のようなものだ。
ロラが目覚めてから、まったく正常の生活が始まるまで二日ほどかかる。彼女が完全に生きかえってから、まずしなくてはならないことは、もちろんお互いの愛を確かめ合うことは別にして、彼女の冬眠中に行った救命艇の機能の改善などを正確に伝えることだった。これはどうしても欠かせない作業なのだ。特に最初に彼女が冬眠中に僕がおこなったことは重要だった。僕たちは交代に二週間を使うと決めていたが、最近は、実際にはもう少し長い時間を費やすことが多くなってきていた。救援を待つ時間が長引くほどに、二人での時間の重要性が増していったからだ。それにしても、二人で起きておられる時間はせいぜい一ヶ月が限度だった。それも、僕の努力をつくして得た一ヶ月だった。炭酸ガスを処理して酸素の生成を増すために、スーパーミドリムシの水槽を準備することがその努力だった。生物を利用してのガス処理は、基本原理は簡単だが、水槽を適切な環境として安定して保つために様々な調整を必要とした。そのうえに、再生水の貯蔵水槽を利用して二つの水槽が同時に働くようにした。成長曲線が交互に高まるように工夫して、充分に育った方の水槽のミドリムシを栄養カプセルに加工することにも成功した。もっとも、工業的に製造されて貯蔵されているカプセルほどにはスマートな出来ではなかったが、逆にちょっとしたビスケット風に加工することにより、単調な食生活に変化を加えることができるようになった。これには、ロラは歓声を上げて喜んでくれた。これからの課題は、ミドリムシをエネルギー油に変換することで、これはまだ実行できていない。十分な光源を確保できないでいるからだが、これは卵が先かニワトリが先かといったジレンマに陥るような課題である。しかし、どこかに突破口を開くことができるのではないかと、僕はあれこれ思索と設計作業を続けている。とにかく、彼女が眠っている間に、この小さな救命艇で可能なかぎり環境を整える作業を続けてきたので、最初の数年のあいだに状況を少しは改善することができたことはちょっと自慢だった。
一日中こうした実務的な作業を行っているわけではない。読書したり、音楽を聞いたり、日記をつけたり、日記というのは僕が眠っている時に書きつづる、彼女に残しておくラブレターのようなものであったが、そして筋肉を鍛えるために運動をした。といっても、横になるしかないスペースで、しかも重力のない環境での運動であるから、それはきわめて限られたものでしかなかったけれど。僕たちが助け出されるとして、そのあとどれくらい長い間リハビリをすることが必要であろうかと考えるとちょっと心が沈んだ。
しかし、こうした実際的な活動は、彼女が眠っている二年間では、わずかな時間を費やしているにすぎない。一番楽しいことは、そして最も時間を費やしたことは、次に二人でどんな“ゴッコ旅行”をするかという計画を練ることだった。二人が起きておられる時間をどう楽しく有益に過ごすかというのは、この旅行計画にかかっているからだった。
ロラの目覚めは、いつもの通り順調であった。少しずつバイタルサインがあがってくる二日間は、もう祭りの始まりだ。そして、いよいよ起き出しそうになったときを見はからって、僕は彼女に念入りにキスをするのだ。それは、唇に触れるだけだが、心を込めた口づけである。何しろオーロラ姫を起こすのだから。彼女も、僕のキスまでは目をあけようとはしない。僕たちの暗黙の決まりごとだ。とっくに目覚めても良い時になっても、彼女は目を開けないで待っていてくれるのだ。そして、「お待ちしていましたわ、王子様」とか「起こしてくださってありがとうございます」とか、ただ「王子様」とかと呟くのだ。そうすると僕も、とても王子様の気持ちになって「オーロラ姫、おかえり」とか、「オーロラ姫、お目覚めを待っておりました」とかと返事をかえして、あらためて彼女を腕の中にはっきりと感じるほど抱きしめるのだ。そうすることで、二年間の不思議な孤独から目覚めるのだった。僕が起きる時にはこんなにロマンティックにはいかないが、それでも待っていてくれる歓びに体中が一杯になるのには変わりがない。
こんな時に一番、夫婦とはいったいなんだろうかと、不思議な想いに満たされる。僕たちは不思議な結婚をして、二人だけでこの狭い艇内に閉じ込められている。「ロラはそれを運命に導かれたもの」と呼んだ。そうした始まりにせよ、彼女が僕の妻であり、僕は彼女の夫として、この永い年月を過ごしてきた。その年月は、僕たちが想像したよりも長い期間となってしまっている。僕たちが人類社会の中に戻れる時はあるのだろうか。それを僕たちは望んでいるのだろうか。そうした疑問がわくこともある。もし社会の中で、夫婦として普通の時間軸で生活していたらどうなっていただろうか。これ以上に幸せな夫婦でありえただろうかと考えることもある。最初の数日は、僕たちの時間はお互いを感じることだけで過ぎてゆくのが普通である。もちろん、長い時間を待ったものの方がより熱心である。冬眠を過ごした者は、一晩とは思えないまでも、ほんの数日眠っていたように感じるものなのだ。しかし、二年間の「歩哨勤務」、僕たちは一人きりで起きている期間をそう呼びならわしている、を終わった側のこの感動を、お互いに知り尽くしているので、それに水を差すようなことはしたくないからだ。
僕たちは二人で“ゴッコの旅”を繰りかえす。よく新婚旅行のヨットに戻って、デッキの上などで時間を過ごす。この場所は、いつものように繰りかえし選んで、とてもよく分かっている場所なので、お互いに情景を描写することなく、行動を説明することもなく、同じものを見て、同じ感動に浸ることができるからだ。時には小さな島の入江にヨットを停泊して、木々に覆われた美しい島に上陸することもある。そこでは、僕たちは木の上に小さな小屋を作った。枝の間の小さなベランダに座って海を眺めていた。心地よい風が穏やかな海から吹きわたってきて、二人で肩を並べて、海を見つめてその美しい色の変化を味わって過ごした。素晴らしい夕焼けも眺めた。
時には、二人でおしゃれをして演奏会に出かけることもある。こういった場面では、記憶媒体の中から演奏を選んでおくのは、二年間の「歩哨」をしている方なのだ。隣りあった席について、それも特別に良い席だが、手を握り合って目をつむりコンサートとオーケストラと周りの人々を、そしてお互いの息づかいを感じ続けるのだ。これもデートとしては容易いやり方で、僕たちは気に入っている。二人でダンスに出かけることもある。これには、あらかじめどのような場所に出かけて、どのようなダンスを踊るのか、どのような友人と出会うのかといった決め事を細かく相談しておくことが必要である。
そしてようやく、少し仕事の話をする。今回は、特にどうしてもしておかなければならない相談があったが、僕はどう切り出そうかと、まだ迷っていた。
「あのね。ほら。あの人たちのこと」
「え、なあに。誰のこと」
「僕たちが、緊急に送り出した人工冬眠で旅行していた人たちのことだけど」
「ええ」
「あの人たちはどうしているのかなと思って」と、僕は切りだした。
「あの人たちはどうしているのかな。まだ冬眠したままで、どこかを漂っているのかな」
「それはそうだと思う。救助が来るまで、そうするしかないもの」
僕はしばらく言い淀んだが、思い切って言ってしまうことにした。
「もし救助が来なかったら、そして救命艇に異常が起こったら、その時には起こされるようなことになるのだろうか」
「そうはならないわ。だって、そんな時に起こすなんて残酷だもの」
「そうだろうね。でもあの人たちの人生を考えると、僕たちはこうして一緒におれて幸運だと思う」
「私もそう思うわ。たとえ二人用に造られていないで、二人で同時に起きていられる時間が少ないとしても、あなたとこうして旅ができるのは幸運だわ」
「僕も同感だ。だけど」
「だけど?」
「この二年間の間にずっと考えていたことがある。もしも、もしもだよ、「歩哨」にあたっている方が、二年間の間に心臓発作でも起こして死んでしまうとすると、起きた者はその死と突然直面することになる」
僕たちの会話はしばらく途絶えた。41年間の漂流生活で、たとえ人工冬眠のためにその半分の期間と考えても、僕たちは熟年にさしかかっているし、もうすぐ老年期に到達する。お互いに見詰め合った僕たちは、お互いの顔の中に過ぎていった時間を見つめて黙っていた。そうなのだ。今回どうしても二人で話し合っておかなくてはいけないことは、このことなのだ。こんな形で生き続けている僕たちだが、この先、何がおこるか分からないのだから。今回の歩哨期間に、実は僕は少し胸に痛みを覚えることがあった。そして初めて、僕たちの死ということを考えた。それは怖ろしいことだったが、目が覚めた時にそれを知る者にとってはもっと残酷なことになるに違いない。死ぬとしたら起きている者の方に起こる可能性が高いことだろう。眠っている者は生体監視が常になされており、異常事態には適切な治療が自動的になされることになっている。だから、その間の死の可能性としては低いと思われた。しかし、もしも僕が起きた時に、死んでしまったロラを見るのは耐えられないだろう。ロラもそうだといった。今回の当直期間にその可能性について考えはじめると、僕の胸は別な不安という痛みに苛まれることになったのだ。それで、この問題を解決するために、冬眠装置の設定を少し変える必要があると思うのだ。それが僕の出した結論だった。ロラがその提案に賛成してくれるかどうか、ずっと思い巡らせてきた。救命艇には、搭乗者が起きているか眠っているかを検知する装置がある。僕たちはそれを変更して、起きていると同時に眠っているという選択を可能とした。しかし、もし起きている方が死を迎えた時には、眠っている方はそのまま救助されるまで眠りつづけるように設定を変更するのが良いと、僕は提案したのだった。ロラはしばらくのあいだ黙って考えていたが、最後には僕の考えに賛成してくれた。そしてこの設定の変更を、僕はロラに任せなくてはならないのだ。なんと言っても、これは彼女の専門分野なのだから。その日は、僕たちはあまり口を利かなかった。起きている方を認識するシステムから信号を取り出すのは僕がやった。その信号を用いて、冬眠装置の設定を変更するのはロラがやった。僕たちはこの仕事を終えて、お互いに顔を見合わせて、しばらく黙っていた。ロラが僕に抱きついてきたのと、僕がロラを抱きよせたのは、どちらが先であったのかよく分からない。そのまましばらくの間、僕たちはお互いの心臓の鼓動を聞き続けた。
「大丈夫だよ。僕は死んだりしない」
「私もよ。一緒に生きてきたのだもの、死ぬ時もいっしょ」
「僕たちは、今そう決定したところだね」
僕たちは気がすむまで、ただ抱き合ったままに過ごした。やがて僕たちは、その日の夜を迎え、眠りに就いた。
彼女の眠りは健康で、眠るとなるといつもすぐに優しい寝息をたて始める。彼女の寝息を耳にしながら、僕はそっと僕の脚を彼女の脚と絡ませた。ロラは眠ったままで、そっと身体を僕に寄せた。本当に冬眠でない眠りをとる彼女と共にすごすのは、2年に1カ月ほどのことで、僕は眠るのが惜しいような気がしてなかなか寝付かれなかった。どうせもうすぐ2年間の冬眠に入るのだからと考えながら、ロラの寝顔を眺めていた。思えば、奇妙な人生となってしまった。これほど時間が経ってから、本当に救出されることがあるのだろうか。僕の人生は、ただロラのためにあると強く思う。彼女を幸せにできることなら何でもするだろうと思う。だけど、この限られた空間ではできることも限られている。触れ合った彼女の肌から、温かい命の温もりが伝わってくる。僕の新しい惑星でテラフォーミングを行うという夢は、このまま夢に終わりそうだ。子孫を残すこともできないだろう。思えばこの運命を受け入れて、諦めたことは多い。僕の人生は無意味なものだったのだろうか。ロラの冬眠中には、ときどきそういった思いが心をよぎることがある。しかしそうではないと思う。僕は全く別の素晴らしい人生を過ごしていると、確かに幸せな人生を過ごしているという実感がある。それは、ロラを、僕がこの救命艇の中で可能なかぎり幸せにしたいと願うことができるからだ。つまり、僕は愛する対象をこうして身近に与えられたことによって、この狭い限られた空間で人生を終えることになっても、幸せな人生をおくったと、間違いなく、感じているからだ。
とうとう僕の冬眠の時が近づいてきた。救命艇の生命維持装置は全力を挙げてくれていたが、それでもCO2濃度がわずかに上昇し始めたからだ。まだ息が苦しく感じ始めるまでには充分な時間があるだろうが、この二人で過ごせる時の間に、今回眠りに就く前の最後の時に、二人で少し長い旅を実行したかったのだ。あの眠りに就く瞬間、当直に残していくロラの瞳の中をのぞきこみながら、どれだけ愛しても足りない存在に負担を任せていく何とも残念な気持ち、そして申しわけない気持ちのままで、注入される薬剤によって深いところへと誘い込まれ、僕にとっては凍りついた二年間に落ち込んでいくあの瞬間の前に、僕はすばらしい旅、二人の想像の世界での旅を計画してきたからだ。僕が厳かに計画を発表して、準備していたたくさんの写真をロラにみせた時、ロラもこの旅の突飛さと大胆さに、頬を染めるほどだった。
僕たちは、おそろしく広大な空間の中にいた。僕たちは手をつないで飛んでいるのだった。僕たちのまわりには、数えきれないほどたくさんの星々や銀河たちが輝いていた。僕たちは虹のような薄い膜に囲まれていた。ちょうどシャボン玉の中に浮かんでいるようだった。かすかに光を放つこの透明で球形の宇宙船には、八方を宇宙にかこまれた僕たち二人の他には何もなかったが、少しの不安もなく、力に満ちて宙を突進していることが感じられた。僕の提案は、この透明な膜の宇宙船で、僕たちの宇宙を飛びまわって探検するという旅だった。
僕たちはまず、僕たちの銀河を見てまわることとしていた。最初に僕が選んだのはプレアデス星団である。新しい星々が青く輝いているのは不思議な魅力をもっているからだ。僕の失った母国では、昴と呼ばれて親しまれていた散開星団で、このために最初に心ひかれたためでもあった。同じ方向にあってもっと近いヒアデス星団にも寄って行こうかと思ったが、最初の訪問地はプレアデス星団と決心していたので寄り道は避けた。僕たちはこの旅では超光速で目標に近づいていくわけだから、ドップラー効果で実際の光景は紫外線の側にシフトしていくはずなのだが、僕たちのこのシャボン玉のような宇宙船から眺めると、いつもと同じ美しい青い光の珠が急速に大きく眼前に広がっていく。肉眼で眺めることができる星の数も、星間ガスに輝く星雲も数をましていった。そしてその中心に静止した時には、この宇宙船の船体も青い光に輝くシャボン玉となって、僕たちを取り囲んでいた。その美しい光の中で、抱き合って一つとなる恍惚を知った。
ロラが次に選ぶ番だったが、彼女が選んだのはキャッツアイ星雲だった。いささか遠いとは言っても、僕たちの旅に距離は関係ない。瞬く間に近づいてくるブルーとピンクの多重円が、僕たちを魅了した。「これを、あなたが贈ってくれた結婚指輪にするわ」と彼女は言った。僕たちは肩を寄せ合ってこの指輪の宝石に見入っていた。
その他にも、多くの星や星雲や超新星爆発で残った美しい星の残骸を見て回った。紅色のリボンのような星雲、赤く燃えるリング状の星雲、夕焼雲のような星雲、わし星雲、馬の首星雲、らせん星雲、さまざまな色が響き合って輝く惑星状星雲などを。
僕たちの銀河の中で、最後に選んだのは中心の巨大なブラックホールだった。それは怖ろしいが壮大な風景だった。密集した星々、中心の暗黒をとり巻くリング状の光の帯、激しく吹き上げるジェット。僕は彼女を背中から抱きしめた。深い大きな暗黒に畏敬の念をいだきながらお互いを感じ合っていたが、二人ともその風景から目を離せないでいた。
それから、僕たちは自分たちの銀河を離れることとした。離れるにつれて、銀河は美しい渦を見せるようになった。そして、それを取り囲むように、微かな光のリボンが幾重にもかかっていた。これは僕たちの銀河を他の銀河から識別する美しい印であった。小マゼラン雲の中で訪ねた散開星団では、白や赤や青やといった様々に光る星々が宝石のように輝いていた。僕たちはもっとどんどんと遠くへと進んでいった。おとめ座銀河団が天の川銀河へと近づいてくるのがわかるほどに。ラニアケア超銀河団が見渡せるほどに。星々は、銀河たちは、まるで生きているように脈動していた。そうした美しい輝きの中を、僕たちは手をつないで、何ものにも制限をうけない速度で飛び続けた。そして最後には、ディープスペースを目指していくこととした。130億光年の隔たりめざして。光りよりも数兆倍も速く進む僕たちの目には、宇宙が原初の姿へと縮んでいくように感じられた。それは、宇宙の創生期へと落ち込んでいくような感覚だった。
僕が冬眠に入る時が来てしまった。僕の目をのぞきこむロラの瞳の中に、先ほど経験した星々や銀河たちの輝きを見た。そっと微笑みかけるロラは、全宇宙の美しさを凝縮したように輝いて見えた。
「そっとお休みなさい。愛する方」と、彼女は優しく子守歌を歌っていた。僕は薬液が少しずつ注入されて、意識が深みへと導かれていくのを感じていた。それは、最後に経験した僕たちの宇宙の旅に似ていた。
ロラに言わせると、運命に命じられるままに僕たちは夫婦となった。そして、救助を待ちながらこの狭い救命艇の中で、交代で冬眠につきながら、何と長い時間を過ごしてきたことだろう。実際に一緒に過ごせた時間は僅かであるかもしれないが、それでも常に一緒に過ごしてきたのだ。そして今回、僕たちは一緒に死ぬ決心をした。起きているどちらかが命を終える時、残された冬眠中の一人はもう起きることはない。この宇宙のただ中で、救命艇の機能がつきるまで眠りつづけ、そしてもう一人の後を追うことにしたからだ。だからいっしょに死ぬのと変わらない。この決心をしたとき、僕たちは今までで一番幸福で、今まで以上に心からお互いに愛しく思っていることを知った。その後に、僕の計画に従って宇宙を光りよりも早く、シャボン玉のように美しい、そして美しく星々を見せてくれる小さな船で、世界の果てまで、時間の始まりまで旅をしてきたのだ。思えば、二人でどれほど旅をしてきたことだろう。小さなデートに始まり、世界中を旅してきたし、多くの懐かしい人々、なかには遥かに昔に失ってしまった人々と出会い、喜び合ってきた。実際にはこの小さな救命艇に閉じ込められてきたとはいえ、何を本当といえるのだろうか。僕たちは理解し合い、二人で手をとりあって生活を創りあげてきた。お互いに、眠っている愛する人を見つめる時間の中で、どれほど話し合ってきたことだろう。そして、特別の祝祭が二年に一度訪れる。何よりもうれしい時間、喜びを共有できる時間。これほど幸福な結婚生活は、いったいどんな生き方を選べば可能だっただろうか。霧がかかるように眠りにさそわれながら、僕はロラの息づかいを、優しい口づけを感じていた。それは宇宙に包まれているのを感じるのと同じ、宇宙の息づかい、宇宙の口づけだった。
了
読者の皆様へ
前回の投稿からもう一年が過ぎてしまいました。一年に一作品というペースで書いています。この作品は昨年3月末に一度書き上げて、その後しばらく寝かせてから、見直しを行い、今回発表にいたりました。お楽しみいただけたとすれば、本当にうれしいです。