人間の村のこと
中世の村の描写はほとんど想像です。
数日たってからのこと。
一つの影が巨木の下の洞穴から這い出た。袋にありったけの食料と、必要だと思ったものを詰め込んで背中に背負い、寒くなっても平気なくらいの厚いマントを羽織って、ナナは大きな一歩を踏み出した。
見上げると、木々の隙間から細かく砕かれたような青空が見える。きっと誰にとっても旅にはぴったりの日だっただろう。
ナナは初めて踏み出す旅に心躍らせていた。
もちろん、慣れた住み家を離れるのはつらかったが、それよりも未知のものに強く惹きつけられるのを感じた。自由な旅、新しい土地、そして自分は変わるのだ。
結局、ジリアンは最後まで首を縦に振ることはなかった。彼はいかに外が恐ろしいか、人間がひどいかを繰り返し述べ、ナナはそれに反抗して言い争いになった。
ジリアンなんて偉そうなことを言うけれど、それだけしかできないわ、とナナは思っていた。羽をはばたかせようが、爪で引っかかれようが、止まるつもりはさらさらない。
朝早く、ジリアンが狩りへ出かけたのを見届けて、ナナは行動に移した。
どちらへ歩けば森を抜けられるのか、どこまで森が広がっているのか一片だって知らない。彼女は地図なんて見たことがなかったし、存在だって知らなかった。
だから、彼女は光の来る方向に向かって歩くことにした。分かりやすいし、太陽を追いかけるなんてロマンを感じる。
彼女はひたすらに太陽に向かって歩いたが、どれだけ経っても樫とシダはどこも同じように茂っていて、まったく進んだようには思えなかった。逆に、ますますうっそうとしているように感じられる。
落ち込んだ気分をなんとか紛らわすために、ナナは声に出して言った。
「半日で抜けられるなんて馬鹿なこと思ったの、ナナ? そんなわけないじゃない。でも大丈夫、旅はまだ始まったばかりだし、森にはいつか終わりがあるのよ」
思い袋を置き、樫の木の下でしばらく休むことにした。
しばらくうとうとしていると、頭上から訊きなれた声がした。
「そっちは違う」
「ジリアン、止めに来たの?」
ナナは見上げずに言い返した。ジリアンの小言にはうんざりだ。
「わたしは戻らない。どんなに訴えたって、決めたことは絶対にやめないんですからね」
耳元で風を切る音がする。となりにひらりと黒っぽいものが舞い降りたのを感じたが、ナナは決して目を向けるまいと思った。
「違う。お前の行く方向は森が深くなる一方だ。そのまま進み続けても、4週間かかったって出られやしないぞ」
しばらくの間、ナナはジリアンの言っていることが理解できなかった。
まるでジリアンは旅の案内をしているように聞こえる。でもそんなはずはない。彼は森の外にいかせたくないと言っていたではないか。
「頑固で気まぐれで自分しか考えてないジリアンが道案内なんて信じられない! 旅を許してくれるの?」
ジリアンはむっとした表情をした(もちろん、鳥ができる限りでのむっとした表情だ)。
「許したんじゃない。ただ、単純な事実を伝えているだけだ。まったく手間のかかる子め。迷ったら誰が探し出すと思っているんだ。さあ、ぼうっとしてないで行くぞ」
「付いてくるの? でもどうして? あれほど行くな、危険だって言ってたのは誰だったのかしら」
一瞬、ジリアンの凛々しい顔に影が差した。それは微かな変化であったが、ナナの知らない何かが奥底に隠れているようだった。彼はしばらく口に出すことをためらっていたが、こぼれるように言葉が発された。
「……森の外よりもずっと恐ろしい事柄がある。ナナ、お前はまだ知らないだろうし、おれは知ってほしくない」
それ以上ジリアンは詳しく言わなかったので、ナナは「森の外よりもずっと恐ろしい事柄」が何であるか想像するしかなかった。この世のものとは思えない恐ろしい怪物だろうか? それとも身も心も凍るような幽霊?
しかし、事実がどうであれ、見知った仲間が付いてきてくれることは嬉しい。ジリアンがいれば何も怖いことはないだろう、とナナは思った。
「とにかく、一緒に来てくれる仲間が増えるのは悪いことじゃないわ。あなたには翼があるから、迷うこともなさそう。それで、どちらの方向にいけばいいの?」
方向に関してはジリアンは正しかった。森を抜けるのに4週間はかからず、わずか数日で木々のまばらな場所までたどり着いた。その短い旅の間でも、彼はいつでも良い話し相手だったから、ナナは一回もつまらないと思ったことはなかった。言い争いをしたことなど、すぐに過去とことになった。
周りに木がないことは、ナナを不思議な気分にさせた。彼女は森以外の場所を知らない。永遠に続くような青空、木が生えていない平原、険しい谷、なだらかな丘、すべてが目新しく、魅力的にナナを誘っていた。
「ねえ、見て」ナナは丘の上にある黒っぽい塊を指さした。「あの丘の上に何かが見えるわ。あれが人間の住んでいる場所?」
「そうだとも。あんなに醜いものを作るのはやつらしかいない」
「醜い?」
「醜いさ」ジリアンが答えた。「木を殺し、石を切り出して作った建物だ。寒気がする。一体、〈小さい人たち〉のどこが良いのだか。おれはさっさとこんな恐ろしい土地を離れて帰りたい」
「レイモンドと会えばすぐにその頑固頭もなんとかなるはずよ。まずはあの丘が目的地ね」
そう言って、ナナはどんどん進んでいった。
ジリアンの方はと言えば、ぶつぶつと「これだから恋する娘は」と言っていたが、あきらめてナナを追って飛び立った。
二人が見ていた人間の農村は、この時代にはよくあったものであった。
何軒かの藁ぶきの家やら粗末な納屋が集まってできており、その中央には城――城というよりも少しばかり大きいだけの屋敷だが――が他の家々から頭をのぞかせていた。家々は低い石造の塀でぐるりと囲まれているために、かろうじて一つの集合としてまとまっているようにも見える。
塀の外側には、あざやかな緑の麦畑や放牧地が広がっていた。ここが農民たちの生活の場であった。朝日が出ると同時に家を出て、牛や羊に草を食わせ、作物の世話をして、日が暮れ始めるといそいそと帰宅する。
この城主はとある王に仕える騎士だった。数世代前の先祖が褒美として得た土地を、代々受け継ぎ支配していた。歴史に残るような善良な領主というわけではなかったが、かといってひどい野心家ではなく、公平かつ謙虚であれという騎士道を信じ、妻と幼い息子とのつつましい生活を営んでいるような、よくいる荘園領主であった。
さて、ナナがこの村を見ているとき、領主の方も巨人が来ていると話を聞いていた。何しろ、見晴らしの良い丘の上だ。ナナを隠すような木々や岩はないし、人間より大きい彼女の姿を見ないほうが難しかった。
「人々に戻れと伝えよ。そして城の中へ入れ、掛け金を下ろせ。家畜はできる限り塀の中へ隠すが、無理ならば放っておけ」
「兵はいかがしましょう?」
付き人が尋ねた。
「若い男どもを塀のそばに並べろ。ただしわしが殺せと言うまで決して攻撃してはならん。落ち着いた巨人のほうが怒ったものよりも何倍もましだ」
領主は確かに騎士ではあったが、もう若くはなく、白髪も混じりはじめ、何年も戦に試合にも出ていなかった。青年であれば、話を聞くやいなや磨き抜かれた槍と鎧に身を固め、馬に馬具を取り付けるように命じ、勇ましく異形の怪物に向かって行くかもしれない。しかし、年を経て無茶な勇敢さは冷静さとなり、状況を判断できる知恵がついた。
丘の村の領主はもはや名誉を欲してはいなかった。彼が求めるのは平安さと日常だ。できることならば、巨人が何もせずに村を通り過ぎてほしい。それがもしもだめならば、武器庫で埃をかぶっている投石機や弩砲を引っ張り出して一斉に打てば、勝ち目はあるだろう。わざわざ自分が出向いて仕留める必要はどこにもない。
隣の椅子には若い息子が何かをこらえているように座っていた。付き人が部屋から立ち去ると、息子は父に話しかけた。
「父上、なぜ今攻撃しないのです?」
「まだそのときではないからだ」
「でも、仲間がやってきたら? 農民が襲われたら?」
「そうだな。そのときはそのときだ、エアドヴァ―ド」
領主は息子の不満そうな顔を見て取ったが、何も言わなかった。息子はまだ子どもだ。わしも息子くらいの年齢のときはそうだった、と思いながら。
村の中で起こっていることを、ナナは知るよしもない。村へ向かっているのに、さきほどから人間には出会わないとは思っていたが、逃げてしまっているとは予想もしていなかった。
とうとうナナとジリアンは石垣のすぐそばまでやってきた。中を覗き込むと、みすぼらしい家々が密集しているのが見えた。しかしどこにも人の影はない。塀は高くなく、ナナなら乗り越えられそうなほどだったが、おそらくそうやって侵入するのは無礼だろう、とナナは思った。洞穴のように、きっとどこかに入り口があるはずだ。ナナは塀をぐるりと回ってみて、ようやく扉のようなものを発見した。
「こんにちは」
悩んだあげく、ナナは声をかけた。返事はない。もう一度挨拶をすると、人間の怒鳴り声が返ってきた。
「帰れ。おれたちをこのまま放っておいてくれ!」
「別に傷つけようってわけじゃないの。少し聞きたいことがあるだけ。どうか、中にいれてくださらない?」
「帰れ! お前はここには入れん。領主さまが禁じているからな」
他の人間たちも「帰れ」「帰れ」と叫び始め、大合唱のようになった。耳をつんざくような音に気おされ、ナナとジリアンはいったん離れなくてはいけなかった。
「どうだね。人間はみなあのように、丁寧なあいさつにも無礼で返事をする。絶対にお前を認めはしない。それもこれも、大きさの違いだけだ」
きつい言葉を言うものの、ジリアンの口調は心配しているようにも聞こえた。
実際、ナナは合唱のような叫び声に驚き、動揺していた。怖いとも思った。まだ頭の中ではがんがんと音が鳴り響き、頭痛がしそうなほどだった。
けれども、それだけであきらめる決心がつくわけではなかった。
「さあ、どうかしら。きっと今までわたしのような人を見たことがなかったのよ。だから怖がっているだけ。すぐに慣れるに違いないわ」
ナナはなにも無かったかのように口に出した。ジリアンに言うというよりも、自分に言い聞かせるように。