〈一番目の友達〉のこと
名前だけ出ていたジリアンが、ついに登場です。
ナナは約束を忠実に守った。
幸い、洞穴には干した果物や魚など、一週間は十分に暮らせるほどの食料はあった。問題は水だったが、太陽がまだ地上に顔をだしていない早朝に急いで汲んだ。
おとなしく穴の中過ごすのは、気が遠くなるほど退屈だった。いつもは森の中をうろうろと歩くのに、それを止められては何もできない。木の根元の暖かい穴の中で暇をもてあまして過ごしていると、無意識にナナの思考は〈二番目の友達〉に行きついた。
たった一度しか会ってないのに、レイモンドは昔からの友達のように感じられた。目を閉じれば彼の表情がはっきりと思い出せるくらいだ。レイモンドとの会話を思い出すと、不思議なほど幸せな気分になる。
一体今頃、彼は何をしているのだろうか。まだサー・ヴィンセントと一緒なら大変だろう。あの派手な男はナナを捕まえたがっていたから、彼女が逃げて憤慨しているはずだ。もしかすると鬱憤を晴らすためにレイモンドを怒鳴っているかもしれないと思うと、ナナは心配でたまらなくなった。
古い友人がやってきたのに気づいたのは、そんなときだった。
穴から空を見上げていると、雲の中に小さな黒い点が一つ旋回しているのを見つけた。まるで埃くらいの大きさほどにしか見えなかったけれど、ナナはそれが何か確信できた。彼女が空に向かって向かって大きく手を振ると、黒い点が方向を変えてこちらの方に降りてきた。
点はだんだんと大きくなった。最初はツバメのように見え、つぎにヤマバトのように、そしてナナの前に優雅に着地する前にはその姿がはっきりと見えた。
それは巨大なワシだった――肉を裂く鋭いくちばし、獲物を掴んで離さない強靭な爪、どこまでも見通す黄金の目、そして見事な黒い翼と王者のような風格。どんな動物も彼のようなワシを一目見れば、走るか飛んで逃げてしまうほどだ。地上の覇者の人間であっても、この大ワシに畏敬の念を感じるに違いない。
しかしナナは恐怖など知らないかのように、大ワシに手を伸ばして触れた。その様子は威厳あふれる大ワシに対してではなく、貴人が飼っているカナリアに愛情をこめて羽をなでてやるようだった。実際のところ、ナナから見れば、大ワシだって普通の鳥ほどの大きさでしかなかった。
「ジリアン、ずいぶんと長かったから心配したわ。一体どこに行っていたの?」
ワシは鋭い目でナナをしばらく見つめたあと、無理矢理喉から絞りだしたような奇妙な声を発した。
「何かあったな」
もしも他の人がこれを聞いたならば、飛び上がって驚いたに違いない。なにしろ、口を利かないはずの鳥が喋っているのだ。けれどもこの場にいるのはナナ一人だったし、彼女は鳥がしゃべることにすこしの疑問も抱いていなかった。
ジリアンは大切な友人であり、家族であり、命の恩人だ。ナナの記憶には、いつもジリアンがそばにいた。親鳥が雛を育てるかのように、彼は獲物を捕らえて幼いナナに与え、言葉を教え、森の中で生き抜く術を教えたのだ。
ナナは興奮して話し始めた。
「本当に色々あったの、とくにこの三日間はね! 何から話せばいいかしら? 最初から順に説明するのがいいわね。あれは一昨日、わたしが水くみに行ったとき、向こう岸に〈小さな人たち〉がいたの。それも六人、武器と走る動物がいたわ。それで……」
「待て、なんだって?」
「〈小さな人たち〉よ。彼らは自分たちのことを人間と呼ぶって教えてもらったけれど」
ジリアンは、羽をばさばさとはばたかせた。
「やつらと口を利いたのか? なんてことだ! あれほど注意したというのに!」
「ジリアン、話が進んでないのに勝手に言わないで。それで、わたしは急いで逃げたのだけれど、転んでしまったの。そこに網が掛けられて……」
「ああ、なんてひどい」
「そんなに悲観しなくてもいいのよ、ジリアン。だって、わたしは生きてるんだから。ともかく、捕まえられて引っ張っていかれたのだけど、幸運にも〈小さい人たち〉は眠ってしまったの。きっと赤い飲み物のせいね。あれを飲み始めてみんな変になったのよ」
「酒だな。まったく人間の悪しき習慣だ! だがそのおかげで逃げられたなら、多少の善が中に残っていたに違いない」
「そんなことはどうでもいいの。まだ逃げたところまで話してないわ。それでね……」
話を最後までするには骨が折れた。ジリアンが毎回大げさに騒ぎ立てると、ナナはどこまで話したのか分からなくなってしまい、戻ったり、止まったり、先に進みすぎたりした。それでも、なんとかレイモンドとの出会いまで漕ぎつくことができた。
「その〈小さい人〉の男がお前を助けたんだと、お前は言うのか」
ジリアンは人間の話をすることを良いとは思っていなかった。以前にも、どれほど人間が悪いのか、『世界で一番厄介な生き物』だと何度もナナに言って聞かせていた。
「レイモンドよ。彼には名前があるわ」
ナナは口をはさんだ。彼女は〈二番目の友達〉がけなされるのは嫌だった。
もはや、彼女にとって〈小さい人たち〉は恐怖の対象ではなかった。一部は怖いかもしれないが、中にはレイモンドのように心優しい人もいる。
「名前があろうと気にするものか。〈小さい人〉はどんなやつも同じだ。森で捕らえ、無残に殺す。それにはナナ、お前も含まれているのだよ」
「でも、全員と会ったわけではないでしょう? だとしたら、そんな断言なんてできないわ。わたしは別に〈小さい人たち〉が良いとか悪いとか言っていない。あの〈小さい人たち〉の中には悪いやつもいたわ。でもレイモンドは違ったの。わたしが言いたいのはそれだけ」
ジリアンはため息をつくと、あきらめてそっぽを向いてしまった。
「何度言ってもダメか。まるでお前は恋に落ちた乙女のように聞き分けがない」
「恋に落ちた乙女?」ナナは聞き返した。
少しの間、ナナはこれまでのことを振りかえった。レイモンドの思い出は、ナナを甘美な気分にさせた。とくに、手の甲に落とされた別れの挨拶は、頬を赤くするのに十分だった。
「ジリアン、確かにそうかもしれない。これが恋ね」
ジリアンは茫然とした表情で固まった(鳥が茫然とするなんてと思われるかもしれないが、本当にそんな表情をしたのだ)。金色の目は大きく見開かれ、くちばしはだらりと下がり、もとの威厳など見る影もない。
「ナナ、我が娘よ」しばらくして口が利けるようになると、ジリアンは言った。「早まるな、よく考えろ。お前は男と親しくしたことがなかった上に、優しい男なんど知りもしなかった。初めて会った相手に特別な感情を抱いていると錯覚することはよくある。お前の場合もそうだろう……」
「絶対に錯覚なんかじゃない」
ナナは自信をもって言い切った。同時に、初めての恋という甘い気持ちにに浸っていた。この心地の良い気分は、絶対に嘘じゃない。
「あまりこれ以上は言いたくはない、ナナ。だがやつは〈小さい人〉だぞ。つまり……〈小さな人〉の男は〈小さな人〉の女を好むのだ。お前のように小さくない女子など、やつの目には入らない」
「きっとレイモンドは違うわ。すごく優しかったもの」
「やつが優しいことと、恋に落ちるかどうかは別問題だ。おれは昔聞いたことがあった。『〈小さな男〉は彼よりももっと小さい女を愛する』。庇護欲を掻き立てるとかなんとか、一生をかけてでも守りたいと思わせるようだ。レイモンドとかいうつまらない男はどれだけ時間をかけても、お前の愛らしさを見出すことはできないだろうよ」
「そんなわけない」
しかし、だんだんと自信がなくなってきた。
「ジリアン、これ以上わたしを困らせないで」
「困らせようなんていていない。これが事実だ。もしも気になるならば、その男に聞いてみるがいい」
しかし、ジリアンの言うことが正しいことはナナにも分かっていた。
あの騎士たちがナナを捕えようと思ったのは、ナナが彼らよりも大きいからだ。
もしもナナが小さければ、あんな不運には見舞われなかっただろう。
レイモンドは助けてくれたが、それは決してナナを好んでいたからではない。彼が『正しい騎士であるため』だ。
大きい小さいは、単なる体格の違いではない。もっと深いところで二つは分断されており、決して乗り越えることはできない。
わたしは愛されない、とナナは悲しく思った。自分が少しばかり大きいだけで、全てをあきらめなければいけない。
こんなのは嫌。大きいなんて、もう嫌だ。
「じゃあ、小さくなるわ。森の外のどこかには小さくなる方法があるはずよ、きっと」
「森の外! そんな危険を冒してまで、〈小さな人〉の望みをかなえる必要があるのか? 森の外に一歩でも出れば、獰猛な〈小さな人たち〉の国が何百、いや何千とある。毒草や病気がはびこっている。それにお前を虫か何かに変えてしまう魔法だってある」
「魔法!」ナナは突然叫んだ。「そう、魔法よ!」
「そうだ、危険がたくさんあるのだ」
ナナが納得したように見えたので、ジリアンは満足そうに頷いた。だが、ナナの心に湧き上がっていたものは全く違っていた。
「違うの、ジリアン。魔法よ。わたしを虫に変えてしまう魔法があるなら、小さくする魔法なんて簡単よ! そうと決まれば、明日にでも出発しないといけないわ」