例え偽りだとしても
10月のお題、「水」より!
(どこが水なんだ!!! という苦情は全力で受け付けます!)
クリスマスの匂いがする——熱湯から沸き立つ湯気を顔に受け、唐突にそう思った。ビニル製の袋が熱せられた時の、独特の香りが原因だろうか。
真っ白な皿に乗った米とカレールー、添えられたお惣菜のコロッケ。
母は毎年、クリスマスの日だけはそうして「ご馳走」を作ってくれていた。……一緒に食べることは、一度として無かったのだけれど。
お札が変身した底の浅いお弁当じゃなくても、1人で食べるご飯は、全然美味しくはなかった。せっかくお母さんが作ってくれたものさえ美味しく食べられないなんて、と自分を責めたこともある。
鼻の奥をツンと刺激するものが寂しさだったなんて、当時の私は知る由もない。
コンロの火を止め、カレーのパックを箸で摘まみ上げる。
安売りの、5食パックのカレー。……今の私にも、十分ご馳走だ。
「茜ちゃん、学生なんだっけ?」
ズボンを履き、カッターシャツを羽織り直した彼は、煙草をくゆらせながら問う。
「はいっ、学生として世に貢献してます」
ベッドに転がったまま、隣に片膝を立てて座っている彼を見上げて笑みを送る。
ホテル特有の篭った部屋の臭いから逃れるため、薄いシーツを鼻の辺りまで引き寄せた。肌に直接触れるシーツは生温くて、僅かに嫌悪感を覚える。口元を覆い隠して表情を誤魔化した。
「貢献?」
問いつつも、私の視線から逃げるように目を逸らした彼は、やっぱりどこか純粋な部分があるのだろう。
「学費という貢物を携えて、有り余る時間とお金で謳歌してるんですよ」
こういう仕事が最も効率良く稼げる——そう気付いた時、私に迷いはなかった。
元より嘘をつくことに苦手意識はなかった。
身分を隠して人と接することには、むしろ心地良さすら感じていた。
「はっ、言ってやるな。というか、贅沢な唯一の時間だろう。こんなことしてていいのか?」
「いいの。会いたかったから」
そっと彼の頬に手を伸ばす。
一瞬驚いたように目を見開いた彼も、柔らかい表情になって口付けを落としてくれる。
ふわっと香る煙草の匂い。
彼は、煙草の匂いが好きだなんて変わっていると言うけれど、同じように感じる女性は案外多いと思う。
絶対的な大人の存在。安心出来る異性の存在。それらの分かりやすい象徴なのだから。
「ったく、お前はおかしいよ」
「知ってる。おじさんもね」
悪戯っぽく笑うと、彼は少しバツが悪そうに頭を掻いた。
「あー、それでさ、ひとつ提案なんだが……」
「なに?」
嫌な予感がした。
張り詰めた、それでいて縋るような空気。これらの後にくるものを知っていたから。
待ち焦がれていたような、そんな気さえするその言葉。
「一緒に……暮らさないか?」
不安そうな彼の手は、固く握りしめられていた。
私が彼に初めて会ったのは、土砂降りの日だった。
家までの道程が、果てしなく遠く感じてうんざりしていた頃。
知らない人に抱かれ続けて何もかもが灰色に見えていたあの日、彼は、人通りの馬鹿に多いあの駅前で、傘を差して忙しなく歩く人たちの誰の目にも留まらず、しゃがんで煙草を吸っていた。
「ねぇ、おじさん」
気付いたら、声を掛けていた。
迷惑そうにこっちを見上げたその人は、冷めた目のまま私から顔を背けた。
「そんな屋根じゃあ、雨も風も凌げないでしょ」
「……関係ねぇよ」
「しゃがんでちゃ、飛沫がかかるでしょ」
「知らねぇよ」
世の中を諦めきった顔だった。
雑に切ったようなぼさぼさの黒髪は、湿気を含んで広がっていた。
くたびれたジャケットははだけており、薄汚れたカッターシャツが見えていた。ベージュのパンツは、艶を失ったローファーに裾を踏まれ、黒ずんでいた。
「ねぇ、」
この汚い成りのおじさんに、情が移った訳でも何でもなかった。
実際、自分が生きていくのに必死だった。くれてやる情けもない。
「屋根のあるところに行かない? ……私が出すから」
ただ、何故かこのしょぼくれた男に、無性に苛ついた。それだけだ。
ホテルに着いた私たちは、風呂に入った。
何を示し合わせたでもなく一緒に入ったのは、互いに雨に濡れていたことと、意識するような出会いの仕方じゃなかったからだろう。
冷え切った体を温めたくて、シャワーから流れるお湯を頭からかぶっていると、後ろからひったくるようにシャワーを奪われる。
「ちょ、」
「へっ、取られる方が悪いんだぃ」
不敵な笑みを浮かべた彼は、しかしよく見ると微かに震えていた。
ハッとした。
外に長くいたのは間違いなく彼なのに、自分のことしか考えていなかったなんて。
それでも、何となく謝りたくなくて、湯をかぶる彼に歩み寄り、手にシャンプーをとった。
背後に回って頭にそっと手を近付ける。
怖かった。人に自ら触れるのは、ほとんど経験がないから。
自分でいつもやるようにすればいいと理解していながら、傷つけてしまうのではないか、と思わず手が震えた。
「おわっ?!」
「ひゃっ!? ご、ごめんなさいっ」
鋭い視線が私を貫いた。
遠慮のない視線。自分だけで生きてこなきゃいけなかった人の持つ、視線。
固まった私に、深いため息がひとつ聞こえる。
「なんだお前か。……悪かったよ。一人がなげぇとこうなるんだ。他に誰かがいるってことを忘れちまう」
「……うん」
その気持ちは、痛いほどに分かった。
だからこそ、彼の身の上について訊くなんてことは出来なかった。想像するなんて無粋なことも。
彼の頭にそっと手を乗せる。
今度は何も言われなかった。
「痛かったら言ってね」
「どっちかっつうと、目の方が心配だな俺は」
「あっ、そっか」
「ま、ちょっと上向いときゃぁ大丈夫だろ」
シャワーを体にかけ流しつつ、彼は軽く上を向いた。
髪の間に指を滑り込ませ、私は口を開いた。
「ね、最後にお風呂入ったのっていつ?」
「ああん? いつだったかな。最後の女に捨てられて結構経つからなぁ」
「……なるほど。泡全然たたないわけだ」
シャワーを奪い取り、頭から無造作にかけて泡を一旦全て落とす。
色んなことを考えたくなってしまう自分を諫めようとしたばっかりに、やや上を向いている彼に頭からお湯を掛けるとどうなるのか、考えるのを全く失念していた。
「うあっ、お前何考えっ」
「あ、ごめ……」
「湯掛ける時ぐれぇ声掛けろってんだ!」
文句を言いながらも静かに頭を垂れた彼に、思わず口元が緩む。
「……お前もなんか訳ありか?」
「訳あり? どーなんだろうね」
「訊かねぇでやるから、お前も深くは訊かないでくれよ」
「……分かってるよ」
こんなに近くにいても、ただの他人には変わりない。
当然のことだ。分かっていた。今までだって、色んな人とそういう風に接してきたはずだ。
それなのに、何故か寂しさを感じている自分がいて、とても滑稽だと思った。
何度目か分からないくらいシャンプーをし直して、自分で体も洗って浴槽に浸かって、備え付けの浴衣を羽織ってお風呂から上がると、少し先に上がった彼は、すっかりのぼせた様子でベッドに転がっていた。
「お帰り。服、洗濯出しといたぞ」
「えっ、ありがと」
髪にまとわりついた水分をタオルでふき取り、タオルを放って私もベッドにダイブした。
「あー、生き返った」
「お前、髪濡れてんぞ」
寝返りを打って私の方を向いた彼は、不可解そうに投げかける。
「へ、ダメ?」
「……っ、別に」
彼の過去が透けて見えたような気がして、布団に潜り込んだ。
無遠慮に人のことを邪推するなんて、あいつらとおんなじじゃないか。
自己嫌悪を追い出したくて、布団から顔を出し、彼にも布団に入るよう促す。
「なんだよ」
迷惑そうに私を見、結局私に倣った彼に体を寄せ、そっと手を絡ませた。
「お、おいおい、冗談じゃねぇぞ。俺は別にそういう目的でついてきたわけじゃ」
「分かってる。このまま、いさせて」
焦ったように身体を起こし、振り解こうとする彼の手を離すまいと、強く握った。
「だが、」
「お願い」
私の声から何かを感じ取ったのか、彼はまた布団に戻ってくれた。
彼から漂う石鹸の香りが、煙草の匂いが、ごつごつした手の感触が、何もかもが何故か懐かしかった。
零れてきた涙を隠すために、布団に頭を入れ、ぎゅっと手に力を入れる。
「高くつくぞ」
彼はそっと体を動かし、その大きな手のひらを私の頭に置いた。
「分かってる」
手のひらが、何も言わないその行動が、何もかもが温かくて、流れる涙もそのままに目を閉じた。
「一緒に……暮らさないか?」
彼からそんな言葉が飛び出したのは、惰性で逢瀬を重ねて1ヵ月のことだった。
嘘をつき続けるのも、ちょっと面倒に感じていた最中。
期待がないわけではなかった。あの日に感じた安心感も優しさも、私を惹きつけるには十分過ぎた。
それでも、彼の本意が分からない以上、安易に気持ちを認めてしまうのは嫌だった。傷付きたくなかった。今まで感じたことがないほどに、彼を大切に思っていたから。
「……冗談ならやめてよ? 笑えないから」
思わず起き上がってしまったのを誤魔化すために、もう一度寝転び、彼に背を向けた。
「ばぁか、本気だよ。……色々考えたんだ。俺は今まで女に依存して生きてきたが、今回ばっかりは違うってな。働いて稼いで家買って、立派な表札なんか付けてさ、一緒に暮らしてみてぇって思ったんだ。ま、好きな女も守れねぇような奴、男じゃねぇだろ?」
楽しそうに笑った彼は、しかし大きく息を吐いた。
「分かっちゃいるんだ。お前が俺と会ってくれるのは、生活のためだって。あの日に俺に優しくしてくれたのも、結局は生きるためだったのかも知れない。それでも俺は、お前に惹かれたんだ。恋愛なんざ、惚れたもんの負けだからな」
自分の気持ちとの兼ね合いからも、きっと彼の金銭的事情からも、このままの生活が続いて良い訳がなかった。
だから、彼の提案はすごく魅力的で、そりゃあもう、何も考えずに飛び付いてしまいたくなるくらいには。
「じゃあ、私の負けだ」
「え?」
だから、私は話さなきゃいけない。
もう、曖昧な逃げは許されないなら。
起き上がり、彼の方を向く。
「私が、あんたのこといつから好きだと思ってんのさ。だから嬉しい。ありがとう。……でも、」
でも、だけど、私は、
「どうした?」
不安そうに私を見、窓の方に視線を逸らした彼は、やっぱり弱いと思う。
私とおんなじだ。
「私、ずっと嘘ついてた。だから、」
「どんな嘘だ?」
私の言葉を聞くなり、拍子抜けしたようにこっちを振り返った彼は、神妙な面持ちで問う。
「私、学生じゃないし」
「他には?」
「ほ……本当はフェラとか嫌いだし」
「ぷ」
ははははっ、と楽しそうに笑った彼は、そんくらいか? 目に涙を溜めて問う。
「な、なんで笑うのさ」
「ばぁか、そんくらいの嘘、もう見抜いてるってんだ。俺をいくつだと思ってやがる。それと……俺、そんなことしろなんて頼んだことあったっけか?」
申し訳なさそうに私を見た彼に、今度は私が噴き出した。
「ないよ、ないない。そういう話題になったことはあるけどね」
「なんだ、良かった。焦らせんなよったく」
ポリポリと頭を掻いた彼は、「そんで、茜ちゃんは……」と私を見上げた。
あの時と同じだ。でも、表情が明らかに違う。
「好きだよ」
「そしたら、」
「うん。一緒に暮らそう」
例え嘘をついていたとしても、気持ちを偽っていたとしても、時間を共にしてきたことだけは変わらないんだから。
久しぶりに本音で喋ったせいか、互いに羞恥を隠し切れず、話を纏めて早々とホテルを出た。
「レトルトカレーがご馳走の女の借家からスタートかな?」
「お前、いつもそんなもん食ってたのか?!」
「元気だし」
「バカ、お前ひとりの身体じゃないんだぞ」
ガッツポーズをして見せるが、早々と一蹴された。
どうやら本気で心配してくれているらしい。
「ごめん。これからはちゃんとやるから」
「当たり前だ。ま、子どもは落ち着くまでお預けだけどな」
ニヤッと笑う彼は、私の頭をくしゃくしゃと撫でた。
「うん。私も仕事探すね」
「すまないな、俺が不甲斐ないばっかりに」
「お互い様でしょ」
家までの道程は長い。
しばらく無言で歩いていたが、唐突に彼が口を開いた。
「あの日にお前がくれた金さ、どうしても使えなくてとってあるんだ」
「ほぇ、そうなの? ……実は私も」
「お前は使えよ?! 俺が何のために金持って会ってたと思ってんだ」
「だって、……野宿してたおじさんが、あんなにお金持ってるはずないから、相当頑張ってくれてるんだろうなって。そう思うと使えなくてさ」
「ち、バレてたのか」
苦笑して頭を掻いた彼は、思い立ったように言う。
「てことは、合わせたら結構な額になるんじゃね?」
「だね。私たち一気に小金持ち」
「小金とか言うんじゃねぇよ」
チッ、と小さく舌打ちが聞こえ、彼の顔を見上げると、楽しそうに笑っていた。
「これを元手にこれからたっぷり稼ぐんでしょ」
「当たり前だ! 俺の頭脳に期待しとけ」
「私だって」
もう雨は降らないし、寂しい味のご飯なんて食べなくていい。
だって、ふたりだから。
あの長い道程だって、あっという間。
ほら、もうそこに、家が見える。