かなし ~僕らがなくした未来のこと~
戻らないと知りながら、その時間を請う。
二人、手を握り歩いたあの夜を。
カナシイと泣いた貴方のその眼を。
どうか忘れないで。
私が貴方を思い、想うように。
際限無く美化されゆく記憶を辿り患うように。
どうか。
二人で過ごした時間を。
偽りの幸いの時を。
あの夏の日の泡沫を。
それは甘き新緑の夢。
――ああ、どうか。
どうか、私を忘れないで。
***
クーラーの無い部屋の中、夜だというのに真夏の空気はじわじわと全身に張り付くように蒸して、肌を蝕むようだった。
なんて嫌な暑さだ。言葉にする事無く唇だけで呟いて、久木は殆ど意味も無く己を仰いでいた手を止める。大きく呼吸すると、からからに渇いた喉が少し痛んだ。
目の前に少女が立っている。
いや、少女というには少し歳が上過ぎるだろうか。少女から女へと抜け出したばかりの、未だ初心な幼さを残す面立ち。だが、その表情に甘さは無い。彼女の顔を一度見上げて、直ぐに久木は目を逸らす。
「雅が死んだ」
もう一度、少女が――文が言った。多分、久木が聞こえない振りをしているように思ったのだろう。聞きたくなかったものを繰り返されて、久木は憂鬱に哂った。何か言わなければ、文がもう一度同じ言葉を繰り返しそうで、それを避けたいばっかりに何とか声を搾り出そうとした。
「そうか」
結局、口に出たのはそれだけだったが。それでも、文は久木が己の言葉を受け入れた事に満足したのか、それ以上を言う事は無かった。代わりに続ける。
「本当は、直ぐに貴方に知らせなきゃいけなかったんだけど。どうしても、私の口から伝えたくて」
「そうか。……うん……有難う」
「有難う?」
予想外の言葉だったのだろう。文は訝しげに眉根を寄せる。
「有難うって?」
「可笑しいかな。……素直に、君が来てくれた事が嬉しいよ。そうじゃなかったら」
「そうじゃなかったら……」
躊躇うかのような、小さな呼吸。
「後を追ってた?」
その言葉に、思わずと顔を上げる。久木の目に、笑う文が映った。場違いな程に楽しげな、悪戯な笑みだった。
「冗談だよ」
「……悪い冗談だ」
「でも、そうだったんでしょう?」
違う。と、久木は否定出来なかった。そうだったかもしれない、と苦い笑みを漏らした。
工藤 雅――今年二十歳になったばかりのその娘は、久木の婚約者だ。二人が出会ったのは一年前の夏の日。清廉潔白な彼女の聡明さを久木は愛し、雅もまた久木の穏やかな誠実さを愛した。それからゆっくりと穏やかに時間は流れ、今年の冬、久木の故郷で二人は結婚する予定だった。身内だけの小さな式を挙げ、二人で暮らすには少し広いこの家で新しい生活を始める。近い未来、雅の中に新しい家族の息吹きが芽生えるまで。
その準備の為に一足先に帰郷していた久木は、今日、初めてこの家に雅を迎え入れることになっていた。
障害など何も無い。何も無いはずだった。今日この時、文が訪れるまでは。
「かわいそうな久木」
まるで歌うように、文が囁く。
「かわいそうな、かわいそうな久木。置き去りの王子様」
「やめてくれ。不謹慎だ」
「私だったら良かったのにね」
「どうしてそんなことが言えるんだ……死んだのは君の姉なんだぞ」
どうして、そんな顔でそんな事が言えるんだ……搾り出すように、久木は問う。
文は一瞬、ん、と口を噤み。それから、やっぱりほんのりと微笑みを浮かべた。
久木にはその気持ちが解らなかった。
「久木、庭に出ようよ」
「そんな気分じゃ……」
「行こう」
無理矢理に手を取られ、久木は諦めたように細い息を吐くと立ち上がる。汗ばんだ掌に、文の妙に冷たく乾いた指が絡んだ。
二人は手を取り合ったまま、庭を歩いた。
久木の隣で口を噤んだままの文の横顔は、久木の知る雅と同じだ。少し前に会った時の文は、もう少し控えめで果敢無げな少女だったように思う。いつから彼女は、こんなに彼女に似た顔をするようになったのだろうか。それとも、久木が気付かなかっただけで、二人はもうずっと、内面まで瓜二つだったのかもしれない。
それともそう思うのは、雅がここにいないからか。
「……私だったら良かったのに」
零すように、また文が言った。
久木は責めるように文を見たが、文は久木を見ていなかった。文は、繋いでいた指を離し、ふらりと歩を進める。蒼い月の光に照らされて、少女の白く抜けるような足が青葉を踏み散らす。
さくり、さくり。静かな夜の下に、文の足音が響く。
「思い出を」
やがて、彼女が振り返った。
「思い出をつくろうよ」
「思い出?」
「あなたと雅の思い出。起こらなかった未来の思い出」
何を言っているのか解らない、といった表情で、久木は眉根を寄せる。文は笑った。
「聞かせてよ。ここで、雅としたかったこと」
それはもう、叶わない夢だ。
「私が叶えるよ。ここに、私がいるよ。さぁ」
手を差し伸べられた。久木は促されて口を開く。迷いながら、躊躇いながら、言葉を紡ぐ。掠れて強張った、小さな声で。
「彼女に見て欲しかったんだ」
「何を?」
「僕が生まれ、育った場所。
この夏の暑さも、冬の厳しさも、春の穏やかさも、秋の実りも。
特別な事なんて何も無いんだ。特別な事をするつもりも無い。
ただ、二人でいられる……その事だけが特別で、それだけで十分で……」
「どうして?」
「愛してた。
僕が愛した人と、僕が愛したこの場所で生きたかった。
――分かち合いたかった」
「こんな風に」
「ああ。手を繋いで、他愛無い事を話して、どこまでも歩いて、春も夏も秋も冬も、違う景色を眺めて、君と……――いや、雅と」
一瞬、何かを間違えそうになり、久木は首を振った。それは幻想だ。
ここにいるのが、もしかしたら文の皮を被っただけの彼女かもしれない、なんて。
久木はホラー漫画の主人公になど、なった覚えは無い。自嘲した。そして、その幻を振り払おうとするように、問いかける。彼女の名を呼んで。
「文、君は悲しくないのかい?」
文は軽く目を瞠った。不思議そうだった。
「カナシイ?」
「そう。……僕は悲しい」
「私だって……カナシイ」
久木の想像とは懸け離れた、まるで悲しみなど感じさせない表情を浮かべて、文は感情のあまり篭もらない声音でぽつりぽつりと語る。
「かなしい。でも、私が思うかなしさと、あなたの持つかなしさは、きっと違う」
「僕には、君が何を考えているのか解らない」
「解らなくていいよ」
「本当はそんな風に思っていないんだろう?」
「面白い事を言うんだね、久木」
「はぐらかさないでくれ」
僅かに不機嫌な声で返されて、文はふふ、と笑った。そして言う。
「そうだね、私は分け合いたいのかもしれない、貴方と」
「この、悲しさを?」
「ううん、永遠のことを」
え?と、久木は問い返した。
文はそっと笑って、繰り返した。
「私は今、永遠のことを考えてた」
意味が解らない、と久木は言う。それで良い、と文が言う。
彼女が歩き出したので、久木は後を追った。小さく頼りない背中が、今にも夜に掻き消されて失せてしまいそうだ。消え失せたのは彼女ではない、もう一人の少女なのに。文に宿る双子の娘の面影が、久木に要らぬ感傷を抱かせる。
「ねぇ、久木。永遠はどこにあるんだろうね?」
「そんなもの……無いよ。物は壊れるし、人は死ぬ。永遠に続くものなんて、この世には」
「本当にそうかな?」
その声がやけに強く響いたので、久木は驚いて顔を上げた。
文は、ただじっと久木を見詰めて、子供相手に間違いを諭すように、一言一言、はっきりと唇を動かす。
「永遠が未来に続く物だと思っていたとしたら、それは有り得ない。
だけど、こう考えてみてよ。
永遠とは過去から続く物。
私達の記憶、感情、起こった出来事……それ等がそこに【有った】という事実は決して変わらない。それこそが【永遠】……なんじゃないかな?
例え時が流れ、物は形を失い、感情は移り変わっても、そこにあったという事実だけは失われない。永遠に事実として残り続ける」
だから?と、久木は問えなかった。
急激に背筋が凍えていく。その一方で、どくどくと心臓が激しく音を立てるのが解った。唇を開こうとしたが、体がそれを拒んだように動けない。
代わりに、文が言った。
「未来への約束は消える。現在への期待は砕ける。思い出だけが、私達を裏切らない。
だから私は……」
「文……?」
「私はこの時間がかなしい」
すとん、と何かが落ちたように。
久木は不意に手を伸ばして彼女を抱き締めた。
どうしてそんな事をしたのか、自分にも解らなかったが、久木にはそれが正しい気がした。思い込もうとしていたのかも知れない。自分は何も失っていないのだと。ここにいるのは他の誰でもなく、【彼の最愛の少女】なのだと。
それから彼と彼女は、手を繋いで長い時間、庭を歩いた。
彼と彼女はたくさんの話をした。
その殆どが、未来の話だった。
まるでそれは恋人同士のように。
二人は想像した。
久木が生まれたこの場所に、新しい命が生まれて、育つことを。
その種を慈しみ、抱き守りながら過ごす二人を。
それは起こらなかった未来。
決して訪れないはずの未来の思い出。
「カナシイね」
文は繰り返す。
「ただ、カナシイ」
身を寄せ合い、凍えかけた小鳥のように震えて。
大きな眼を見開き、逸らさぬように久木を見詰めて。
「かなしくて……私はもうずっと、呼吸が止まってしまいそうだった」
「やめてくれ。僕は君まで失いたくない」
「本当にそう思う?」
「どうして疑うんだ」
「……ううん、なんでもない」
絡め合う腕、絡め合う足。心まで絡め合わせて。
この一夜、真夏の生温さを胸に吸い込みながら。
萌える新緑に眩暈を覚えながら。
ただ、たまらなく。
この時間がたまらなくカナシイだけで。
繋がれた指の冷たさが、二人を隔てるようで。
決して戻らないものだと、知っていたかのように。
カナシイ。
カナシイ。
カナシイ。
呼ぶような、君の声に、目を覚ました。
ふと気付くと、目の前に少女が立っている。
いや、少女というには少し歳が上過ぎるだろうか。少女から女へと抜け出したばかりの、未だ初心な幼さを残す面立ち。だが、その表情に甘さは無い。彼女の顔を一度見上げて、直ぐに久木は目を……目を、逸らさなかった。
「文が」
雅が言う。
「文が死んだの……」
そうか、と久木は答えた。すべて知っていたような気がした。
目を閉じるとそこに、彼女と過ごした時間がある。確かに、残っている。
無かったはずの現実。有り得ない、過ぎ去ったはずの未来。総ては幻想だ。幻想のはずだ。それなのに――それは、なんて鮮やかな。
文。
その瞬間、不意にかちりと、何かのピースが噛み合った気がした。気付いてしまう。
「ああ、僕は愚かだ」
気付いてしまった。彼女が幾度となく繰り返した、あの言葉の意味に。
『愛しいね、久木。この時間がたまらなく、愛しい』
それは甘き新緑の夢。
ああ、僕は。
僕は今、永遠に、君に囚われた。