〔2〕
得体の知れ無い胸騒ぎで、気分が悪い。
篠宮優樹は未舗装の林道を走りながら、ライディングに集中することで苛立つ気持ちを紛らわそうとした。
サスを軋ませ、浮き上がる身体でバランスを取る。時折進路を塞ぐ倒木はアクセルワークで飛び越えた。ジャンプから着地して、砂利に滑りそうになるフロントを立て直す緊張感に胸が高鳴る。
だがやはり、集中しきれない……。
気持ちに見切りを付けて、優樹は一旦バイクを停めた。
バイクを停めても、エンジンは切るなと緒永に言われている。エンジン音がすれば熊や動物が近付かないからだ。
……あれは、いったい何だったのだろう?
昨日は緒永や友人達が止めるのも気かずに、我が儘を通してバイクで山中に入った。麓から奥に進むにつれ霧が濃くなり、見通しの悪さにヤバイかな、と、思い始めた頃。
何かが林の中を疾走する気配を感じた。
右に、左に、後ろに。しかしその姿は見えない。車やバイクではない、獣の気配だ。
恐怖心は無かった。
かえって、追い越せるものなら追い越してみろ、と、闘争心が沸きあがった。
緒永に指示された場所でバイクを停めたとき、その気配もまた、近くにあると解った。
正体を見極めたい、そう思い辺りを捜してみたのだが……。
白い獣と対峙したとき、遼に腕を掴まれ我に返るまで、自分が何をしようとしていたのか覚えていない。闘おうとしていたのだろうか? 追い払おうとしただけなのか? 遼を守ろうとしたのだろうか?
殺意はおろか、敵意さえ感じなかった。だから遼も自分を止めたのだ。
あの獣は、自分を知っている気がした。だが優樹には、それが何故なのか解らない。厭な、感じだった。
もう二度と、あの獣には会いたくない。
「ちぇっ、つまんねぇこと考えちまったな、らしくねぇや」
アクセルを開けてリアを取り回し、もと来た方向にバイクを向ける。一つ息を吸い込んで、クラッチを繋げようとしたとき、脳裏を何かが駆け抜けた。
いましがたまで感じていた、漠然とした不安ではない。
戦慄、だった。
優樹はアクセルを全開にすると、ギャップを飛び越え、帰路を急いだ。
一刻も早く、戻らなくてはならない。
助けを求める声が、確かに聞こえたからだ。
『美月荘』に戻った優樹は、バイクのスタンドを立てる事さえもどかしく本棟に駆け込んだ。昼少し前だ、誰か居るに違いない。
食堂で所在なさそうに雑誌を読んでいた遥斗が、直ぐに優樹の姿に気が付き立ち上がった。
「優樹先パイ、ひどいじゃないですか! 今日は俺をバイクに乗せてくれる約束なのに、一人で走りに行っちゃって……」
「遼は、何処だ」
聞いたことが無い強い声音に、遥斗はびくり、と、身を縮めた。
「秋本先輩なら、今朝スケッチに行くって湖に降りていきました」
「湖の何処だ!」
「んなこと、わかんないですよ。俺はずっと此処にいたんですから……」
「なあに、どうしたの?」
食堂のやり取りに気付いた美月が、厨房から顔を出した。
「優樹先パイが、秋本先輩を知らないかって……」
今にも掴み掛からんとする優樹に、遥斗はすっかり萎縮して半べそをかいている。
「秋本…遼くんなら、裏手の坂を下りたところでスケッチしていたわよ。まだ其処にいるかどうかは解らないけど……」
聞くなり優樹は表に走り出た。
「先パイ! 俺も行きます!」
只ならぬ様子を感じたのだろう、慌てて遥斗が追いかける。
優樹は裏手の坂道を、滑るように駆け下りた。急がなくてはならない。
気が急き、重なり合うように道から突きだした枝が覆う物のない頬や首、腕を掠り血が流れるのも構わなかった。
藪が開け湖面が目に入った途端、すぐに岩の影に俯せに倒れている遼を見つけた。
血の気のないその顔を見て、一瞬心臓が止まる。が、気を取り直して駆け寄ると、首に手を当て脈を診た。
動いている。
ほっ、として、襟元に付いた吐瀉物に気が付いた優樹は、遼の後ろに回り込んで右手で拳を作ると、みぞおちに当てた。その手首を左手で掴み、圧迫するように脇を引き絞って押し上げる。
「ぐっ、ふっ!」
喉に残った異物を吐きだし、遼が激しく咳き込んだ。その身体を横たえ、シャツのボタンを外して気道が確保される姿勢を保ち、優樹は後から来て呆然と立ちつくしている遥斗に向き直った。
「誰か二・三人呼んでこい、こいつを運ぶ」
「えっ? 誰かって……」
「誰でもいい、早くいけっ!」
「うわっ、はっ、はいっ!」
大慌てで坂を登る遥斗を確認し、優樹は自分のジャケットのポケットに、ハンカチを捜した。しかし普段から持ち歩かない物が在ろうはずもない。
小さく舌打ちして、ジャケットとその下に着ていたTシャツを脱ぐ。湖の水でシャツを濡らし顔をぬぐうと、冷たい感触に遼が薄目を開けた。
「優…樹? 何で君が……」
「黙ってろ、上に運んでから何があったか聞いてやる」
「うん……」
安心したのか、再び遼は目を閉じた。