〔1〕
ノートと参考書、筆記用具に辞書。それらをベッドの上に放りだし、旅行鞄の底からA4版のスケッチブックと水彩鉛筆を取り出す。
美術部に在籍する遼は、旅行中に絵を描くことを楽しみにしていた。
エメラルド色の湖水をたたえる『秋月湖』、新緑の美しい山並み。涼やかなブナ林、白樺並木。どれをとっても描きたい気持ちを抑えられない。
昨夜、車で来た道を降りても湖に出ることが出来るのだが、『美月荘』の裏手にある細い坂道を下れば直接湖畔に降りることが出来ると聞いていた。
自然の丸太を滑り止めに使った階段を下り、低いクマザサの藪をかき分けていくと眼前に突然エメラルド色の湖面が目に入る。ひたひたと打ち寄せる水は透明で、波打ち際の玉砂利があまりにもはっきり見えるため、うっかりすると気付かず水に入ってしまいそうだ。
落ち着いてスケッチできる場所を探して辺りを見回すと、右手の少し広い砂地に手頃な大きさの岩があった。
遼はそこを居場所に定め、上が少し平らになった場所に腰を下ろす。足の来る位置には丁度良い石があり、これならば長く居ても疲れないですみそうだった。
ふと気が付けば、岩の周りに下草が少ない。もしや誰かの、お気に入りの場所なのかと思ったとき、湖から低いモーター音が聞こえた。
沖に目を凝らすと、白い波線を描いて小型のモーターボートが中島に向かっている。
朝食の席で轟木彪留に誘われ、その時は断ったものの遼も少し『秋月島』と呼ばれる中島に興味があった。湖の周りを散策し、時間があれば島に渡って題材を探してみたい気もする。
霧の中で見た、白い獣……。
遼は湖に向かって消えた、あの白い獣が気になっていた。
もしや中島からやってきて、また帰っていったのではなかろうか?
一人で林道に行ってしまった優樹のことが気に掛かる。獣は優樹に関わりがあるのか?
優樹を取り巻く、目に見えない力を遼は感じることが出来た。
風を読み、水の流れを読み、空を読む、野性的な勘の鋭さ。強靱な意志と決意を持ちながら、脆く危うく、そして優しい。
その全てが優樹だと受け入れながら、どこかに何か、知られざる一面がある気がするのだ。
遼と優樹の間にある、見えない壁……。
その向こうに、いったい何があるのか知るのが恐い。だが壁が取り払われる時を、遼は覚悟していた。
本当の優樹を知ったとき、遼の居場所はあるのだろうか……。
「あなたは島に渡らなかったの?」
背後からかけられた女性の声に、心臓が止まるほど驚いて振り向くと、そこには美月が微笑みながら立っていた。
「えっ? ああ、はい。僕は湖のスケッチをしたかったから……」
「そう? 素敵な絵を描くのね」
まだ真っ白なスケッチブックに目を落として、遼は顔を赤らめる。
「……考え事をしてたんです」
「冗談よ、私のお気に入りの場所を盗られたから、ちょっと意地悪言ってみただけ」
「あ、すみません!」
慌てて腰を上げた遼を、待って、という仕草で美月が止めた。
「いいの、私は直ぐにお昼の支度に行かなきゃいけないから、今は少し息抜きに来ただけ。ここ、良い場所でしょう? 私もトールの下絵を描いたり考え事したり、何時間も過ごすことがあるわ」
「部屋に掛かっていたトールペイント、美月さんが描いたんですか?」
興味深そうに遼が尋ねると美月は少し、はにかんだように笑った。
「ええ、そうよ」
壁に掛けられた数点のトールペイント。キヌガサソウ、タテヤマリンドウ、キバナノコマノツメ、ミズバショウ、キクザキイチゲ、そしてノイバラ。
「僕等の部屋にあった、ノイバラの絵がとても素敵でした」
黒く塗られたバックに、白く可憐な野のバラ。思い出せば美月のイメージと、どこか重なって見える。
「ありがとう、嬉しいわ。高原の植物に詳しいの?」
「いえ、ここに来る前に少し勉強しただけです。絵の題材にするのに、名前も知らないんじゃ仕方ないから。付け焼き刃ですけど……」
昨夜はそれほど言葉を交わすことがなかったが、こうして二人きりで向き合うと少し緊張する。
美人と言うよりも、蜻蛉のような儚さが魅力的な女性だった。
電灯の下で見たときより。白く透けるような肌。薄い色の唇。日本的な面立ちと、すんなり長い襟足は、さぞや和服が似合うことだろう。
「勉強熱心なのね、私でお役に立てることがあったら何でも聞いて下さいな。絵も、見せていただけたら嬉しいわ」
「はい、喜んで」
返事の声が少しうわずってしまい、遼の顔に血が上る。
「じゃあ、ごゆっくり。良い絵が描けるといいわね」
その様子に気付いて美月はまた少し微笑むと、邪魔をしては悪いと思ったのか、手を振り立ち去ろうとした。
「あっ、あのっ!」
が、呼び止めた遼に、意想外な表情で振り向く。
「何かしら?」
聞き返されて、遼は言葉に詰まった。
自分は何が聞きたいのだろう? 聞いても無駄なことだと解っている。それでも聞かずにはいられなかった。
「あの島には……何があるんですか?」
「『秋月島』のこと?」
美月は美しく弧を描いた眉を僅かにひそめる。
「小さな鳥居と祠、それだけよ。以前は年に何回か、近くの村の宮司さんが来て荒らされていないか管理していたようだけど、その方が亡くなってしまってからは誰も行かないわね。父が役場に頼まれたときだけ様子を見に行っているわ」
「動物は、いないんですか?」
馬鹿な質問だと、口に出した後から気が付いた。案の定、美月は困惑の笑みで答える。
「とても小さな島だし、岩場だからウサギも居ないと思うわ。渡り鳥ならいるかも知れないけど」
「そうですか……」
体裁悪そうに俯いた遼を気の毒に思ったのか、美月は水際に歩み寄り島を指さした。
「あの島には、山城から落ち延びた姫君が一匹の獣と住んでいたという伝説があるのよ」
えっ、と、遼は顔を上げる。
「白い、獣ですか?」
「白い獣? ええ、その通りよ。黄金の鬣を持つ白い獣だと言い伝えられているわ、何故知っているの?」
「昨日の夕方、湖畔のパーキングで島を見たとき湖面を渡る霧が生き物のように見えたんです。まるで白い獣のように見えました」
小さな嘘だった。しかし見た事を、そのまま話しても信じて貰えるわけがない。
「戦国の昔、京の都に夜な夜な現れては人を喰らう『魄王丸』と言う獣がいて、それを退治するために一人の若武者が山城の山中に向かったそうよ。ところが無惨にも、喰い殺されてしまった。若武者には将来を誓った姫君がいて、嘆き悲しんだ姫君は我が身も喰われんと獣の元に参じたが、そのあまりの美しさに獣は心を奪われ共に暮らしてくれと姫に願った。姫は二度と人を喰らわないことを約束させて獣と暮らすことを承知し、都の人に知られるのを避けて遠い、この地で獣と暮らした……。そんな謂われが残っているわ」
「恋人を殺した獣と、その姫は暮らしたんですか?」
「伝説ではそうね。でも、機会が在れば寝首を掻くつもりだったのかも知れない。女は恨みを晴らすためなら何年でも待てるのよ」
言葉を失った遼に、美月はいたずらっぽく笑った。
「高校生に、女は怖いと教えるなんてひどいオバサンね」
「そっ、そんなことありません! 美月さん、綺麗だし、歳だって僕等とそれほど離れてないし……」
ああ、と、美月は微笑んだ。
「優樹くん…と言ったかしら。あの子に聞いたのね?」
「……はい」
「単刀直入に歳を聞いてくるなんて、随分はっきりした子で楽しいわ。そう言えば、あなたのお名前をまだ伺っていなかったかしら?」
「秋本遼、です」
「遼くん、と呼んでもいい?」
「えっ、あ、はい」
「それじゃあ遼くん、私はもう行かなくちゃ。いい絵が描けると良いわね」
立ち去りかけて、ふと、美月は足を止めた。
「そうね、湖面を渡る霧は確かに獣の姿に見えるかも知れない。でもあの島にはもう一つ、伝説があるの」
「もう一つの伝説?」
「私より父さんの方が詳しいから、興味があったら聞いてみてね。あの島の別名に関する伝説よ、『秋月島』は……」
足下の小枝を手に取り砂地に字を書こうとしたのを見て、遼はスケッチブックと鉛筆を手渡した。白いスケッチブックに別名を書き記し、遼と目線を合わせたその瞳に一瞬、影が揺らめく。
それがなんだったのか、考える間も与えず踵を返した美月は、ブナ林の向こうに姿を消した。
暫く空白になった思考が戻り、手にしたスケッチブックに目を落とすと、そこには……。
『蜻蛉鬼島』?
『蜻蛉』がトンボの古名だと、遼は知っていた。しかしその下に付いた『鬼』の文字。いったいどんな意味があるのだろうか?
この別名と、白い獣の関わりがどうしても繋がらない。
悩んでも仕方のないことだ、と、諦めてスケッチブックに向かう。しかし気が付けば、ぼんやりと中島を見つめているばかりで、一向に絵は進まなかった。
腕時計を見れば、昼時に近い。昼食の後で緒永さんに『蜻蛉鬼島』の伝説について聞いてみようと、遼はスケッチブックを閉じ立ち上がった。
その瞬間、背筋にざわざわとした悪寒が這い上がる。
全身の体毛が総毛立ち、ぴりぴりとした頭痛が遼を襲った。
遼は次に訪れるであろう、戦慄の映像を恐れ身を固くした。
無駄と知りながらも、顔を覆い目をきつく閉じる。口の中に砂が入ったようなざらざらとした感触。嘔吐感が込み上げ、息が詰まる。
そして、目の前に現れたものは……。
鮮やかに、朱く染まった湖だった。
血の色、と言うにはあまりにも美しくキラキラと煌めき、細波立ちが黄金色の波線を描いている。だが澄んだ朱い水の下には、まるでタールを流したような黒い固まりが蠢きあい、ざわりざわりと波打ち際に這い上がろうとしていた。
よく見れば、それはとても小さな蟲だ。
幾節にも別れた長い身体をくねらせ、鋭い顎を持つ鎌首を持ち上げ近付いてくる。足下から這い上がり、着衣の下に潜り込み、皮膚を喰い破る。
現実……じゃない!
心で叫ぶ、が、刺すような痛みと身体中を這い回る蟲の、うぞうぞとした感覚がリアルに脳を刺激した。
生臭い異臭が鼻をつき、抑えていた吐き気が堪えきれなくなって、込み上げたものを外に吐き出した。
湖底にあるタール状の塊から、白い物が浮かび上がってくる。細く、白い、枝のようなそれは……人骨?
「やめろっ!」
声に出して叫んだ、つもりだった。
誰に向かって言ったのか、解らない。
遠のく意識の中で、遼は助けを求めた。