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私立叢雲学園怪奇事件簿【第二部 魄王丸編】  作者: 来栖らいか
【第七章 激動】
39/42

〔2〕

 恐怖の浸食は湖を巡る遊歩道を越え、その上の車道に到達していた。

 下草のないコンクリ上で茶褐色の波は幾筋もの細い線となり、ザワザワと列を成す不気味な蟲の姿が現れる。

 跡切れることなく湖から湧き上がる蟲は、どれだけの領域を侵せば絶えるだろうか。

 蟲を避けながら湖の畔に到達した秋本遼は、岩の上に立つ美月の美しさに一瞬、意識を奪われそうになった。

 普段と変わらない白いカッターシャツと若草色のスカート姿。しかし肩までの明るく染めた髪は腰ほどもある漆黒の色に変わり、透き通るように白い足は裸足だ。

 左手には頸を断たれた像を持ち、右手には鈍く光る鉈を握りしめている。

「どうかなさったの? 皆さん」

 美月は夢見るように微笑むと、小首を傾げた。

 その言葉を合図に、蟲の動きが変わった。

 陸を目指していた幾筋もの蟲たちが収束を始めたのだ。

 背を合わせ一カ所に固まった遼と優樹、冬也と轟木の四人を、ざわりざわりと黒い塊が取り囲む。だが足下まで一メートルほどの距離を置き、その動きが止まった。

「雑魚共を寄せ付けぬくらいには、我も力がある」

 低く呟き睨めあげた轟木を意にも介さず、美月はゆっくりと『秋月島』に身体をむけた。

 黒く長い髪が湖からの風にふわりと持ち上げられ、絹糸のように宙に舞った時……。

 激しい雨音を耳にして、思わず遼は空を見上げた。だが緋色に染まった空に雨の気配はない。

「島を見ろ、遼」

 優樹の声で『秋月島』に目を向けると、上空に黒い霧が起ち上がっていた。

 雨音と思われたのは、何百羽、何千羽……いや、何万羽とも知れないヘビトンボの羽音だったのだ。

「羽化が始まったんだ……! あの黒い霧が全て、『蜻蛉鬼』なのか?」

「あれは化身にすぎん……本体は別にある」

 遼の疑問に、素早く轟木が応じた。

「生ある物を喰らい妖気を蓄えた時、本来の姿が形を成す。現世にあってはならぬ事だ……」

 轟木の双眼が黄金色に揺らめくと、遼の皮膚をちりちりと焼ける様な痛みがはしった。

 それは『魄王丸』の憤怒に違いない。

 ざわつき蠢く蟲たちが、その怒りの勢いに後退した。

「止めるんだ、美月! 自分が何をしているのか解っているのかっ!」

 蟲との境まで踏み込んで冬也が叫ぶと、美月は顔だけをこちらに向けた。

「もちろんよ、兄さん。子供の頃から私はみんなの邪魔者だった……みんな、私の事が嫌いなの。父さんは私が可愛がっていたウサギを殺して、食べろと言ったわ。暗い山に置き去りにされた時は、怖くて、不安で、悲しくて……いくら呼んでも、呼んでも、誰も助けに来てはくれなかった……。郷田さんには愛してもらえず、信じていた兄さんは遠くに行ってしまった。大切にしているモノは全部、無くなってしまうの。私は死んでしまいたかった!」

「悪かった、美月。もっと、傍にいてやるべきだった。お前を辛い記憶から遠ざけるために私は、遠く離れた気候の良い土地に呼び寄せようと思って……」

「嘘よ!」

「嘘じゃない!」

「二度と、兄者に騙されようか……」

 黒い霞が、美月の身体を覆った。

 怨念、悲嘆、未練、苦渋、憎悪、嫉み……様々な負の感情が入り交じり、空気を重く圧縮する。

 息苦しさを感じながら遼は、その中に恐怖と怯えの感情が混じっている事に気が付いた。

 美月にはまだ、自我があるのか?

 困惑の表情で、美月に近付こうとした冬也の腕を轟木が掴んだ。

「あの女の話を、最後まで聞け」

 物言いたげな顔で振り向いた冬也は、しかし黙って頷くと美月に向きなおった。

「私が……何をした? 騙したとは、どういう意味だ?」

「兄者は義時殿を死に追いやり、復讐を果たさんとした我を幽閉したではないか!」

 美月の美しい面が、鬼気迫る羅刹に変わる。

「近江の山中に赴いた我は仇を討つ事が出来ずとも、義時殿を殺めた獣に喰われるならば幸せとさえ思った。そして『魄王丸』に出会い、真実を知ったのだ。倉田秀剛が陰陽師に頼み呼び出した化け物に、義時殿は喰われたのだと……」

 顔を俯け拳を震わせる轟木を、美月の憎悪に充ちた目が見据えた。

「兄者が傷を負わねば、倉田秀剛が父上を見切り裏切る事はなかった。さすれば、義時殿を邪魔に思わなかったはず……。我を憐れんだ『魄王丸』は、願いを聞き入れ倉田の屋敷を焼き払ってくれた。しかし兄者は、我に矢を放ったではないか!」

 美月の叫びが、地を揺らし大気を震わせた。

 同時に目の前に、断続的な映像が浮かび上がる。

 炎に包まれた屋敷、逃げ惑う人々の悲鳴と怒号。

 紅く染まった空を背景に立つ、黒い瓦屋根上の美奈姫と黄金の鬣を持つ白い獣。

 矢が雨のように降り注ぎ、白き獣は我が身を盾にして美奈姫を庇い倒れた。

 その途端、土塀から湧き出した黒い蟲が美奈姫の身体を覆い尽くし、天高く持ち上げる。

 片足を引き摺り、一人の武将が黒い塊となった美奈姫に追い縋り手を伸ばした。しかし届かないまま、塊は散り散りになり消え去ってしまう。

 全身に矢を刺した姿で白き獣が蹌踉めき立ち上がり、悲鳴にも似た咆吼をあげた……。

 映像は唐突に途切れ、続くように低く沈んだ声が重なった。  

「復讐の念を『蜻蛉鬼』に付け入られ、邪念に取り込まれた愛しき妹……。倉田秀剛を仕留めるまで手を貸した『魄王丸』は、おまえが罪なき者や女子供に至るまで見境なく殺める姿に我が身を責め、『蜻蛉鬼』を封じるための力を貸してくれたのだ。おまえを救うには他に、術がなかった……」

 我に返った遼が声の主を探すと、冬也が沈痛な面持ちで美月に手を差し伸べていた。

 いったい、何が起きているのだろう?

 過去を映し出したのは、美月か? それとも、『魄王丸』なのか?

 優樹にも、映像が観えたらしい。厳しい顔つきで頷き、美月に目を向けた。

「今さら、戯れ言をっ! 兄者に裏切られ、暗く湿った洞窟の中で我が、どれほど世を恨んだか知るまい! 我が心の闇、思い知るがいい!」

 つい、と顔を上げ天を仰いだ美月が両腕を高く掲げると、地の底が崩れ落ちていくような轟音が足下を揺るがした。

 激しい雨にも似た水音に湖を見れば、高く高く、赤い波が壁となって起ち上がる。

 波は直ぐにでも、陸に押し寄せてくるだろう。退く道は残されておらず、まともに被れば水中に没して『蜻蛉鬼』の餌となるしかない……。

 美月が口元を歪ませ、嗤った。

 予想を上回る、強大な力。

 やはり、自分達が太刀打ちできる相手ではないのだろうか……。

 逃げるには手遅れだ、轟木が言う「勝算」に賭けるしかない。脅威を目の当たりに遼は、優樹に目を向けた。

「魄王丸、あの波を止めることが出来るか?」

 美月には目も向けず、波を見上げた優樹の言葉に遼は我が耳を疑った。

 確かに今、優樹は轟木を『魄王丸』と呼んだのだ。

「生憎、蟲どもの相手で手一杯だ……貴様が止めれば良かろう、篠宮優樹」

「どうすればいい? どうやれば止められるんだ?」

 轟木は馬鹿にしたように鼻を鳴らすと、湖から迫り来る高波を指さした。

「あの女を殺せと言っても聞かぬなら……仕方があるまい。貴様の願いを心に思い描き、言霊とせよ」

「願い……?」

「おうよ、貴様に従い加勢する風が、水が、大気が力を貸してくれるだろう。全ての流れを読み、形を成して命じれば良い」

 優樹は湖に向かうと、ゆっくりと右手を前にかざし目を閉じた。轟木の静かな声が、語りかける。

「意識を飛ばせ、色彩となり流れ渡る力が視えるはずだ。それらは、おまえの意志に従う」

 皮膚が焼けるような、ちりちりとした痛みが遼の全身を襲った。だがそれは『魄王丸』のものではなかった。

 浅く静かな呼吸に同調して、帯電した空気が優樹を包み込み、渦巻く蒼白い焔となる。

「止まれ」

 目を見開き正面を見据えた優樹が、言葉を発した。

 すると岸に迫りつつあった高波の動きが緩やかになり、そのまま起ち上がった姿で静止する。

「散れ」

 果たして何が起きたのか? 緋色の斑模様となった曇り空に一条の閃光が駆けめぐり、「じり」とも、「びり」ともつかない音が鼓膜を叩いた。

 その瞬間、泡立つ高波の頂点が蒸発したかのようにかすみ、霧散していくではないか。

 優樹の瞳に赤い影が射し、揺らめき、燃え上がるのを遼は見た。

 これが、優樹の力なのか? 

 高波のエネルーギー値は莫大なものだ……それを瞬時に無力化したならば、恐ろしい力だ。

 呆然とする遼の背を、風が通り抜けた。

 美月の立つ岩の元に一足で跳躍した優樹は、蟲が喰らい付く間を与えず岩に片手を突くと、鮮やかに上に飛び移った。

 優樹の着地と同時に足払いを受けた美月は、舞うように後退して首を掻ききろうと鉈をふるう。

 間髪、紙一重で避けて優樹は、鉈を持つ手を掴み捻り上げながら後ろに回り込もうとした。優樹に抑え込まれれば、女性の力で振り払うことは無理だ。

 これで美月を止められたと、遼が安堵の息を吐いた時。

「油断するな、篠宮優樹!」

 気の緩みを砕く轟木の鋭い声が、注意を喚起した。

 だが言い終わるや否や、美月は屈み込むように身体を捻り、左肘で優樹のみぞおちを打つ。

 そしてわずかに緩んだ手から、するりと逃れ湖に跳ぶと、浅瀬に立ち挑む目付きで笑った。

「この者を信ずるは無駄なこと……何人たりとも我を止めることは出来ぬのだ。己の無力を知り絶望の闇に沈むがいい! この世の理を呪い、全てを滅ぼしてくれようぞ!」

 湖がうねり、先ほどとは比べものにならない大きな高波が二つ、三つと起ち上がった。

 さらに幾重にも幾重にも重なり、大きく天を突かんばかりの壁となる。

 波音は雷鳴のように響き地を共振させ、対峙する者に圧倒的な恐怖を叩きつけた。

「ずたずたに、引き裂いてくれる!」

 美月が、狂喜の声で叫んだ。

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