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私立叢雲学園怪奇事件簿【第二部 魄王丸編】  作者: 来栖らいか
【第七章 激動】
38/42

〔1〕

 日が暮れるには、まだ早い……。

 緋紋が不気味に拡がる空を見上げ、日下部は小さく舌打ちした。

 去りゆくボートを見送った時、日下部の胸に去来したのは複雑な感情だった。それは自分が必要とされない情けなさ、悔しさに類似していると気付き苦笑する。

 一体、自分は何がしたかったのだろう。

 考えてみても、解らなかった。

 暫く湖面を見つめていた日下部は、湖水の色が徐々に変わりつつあるのを見て取った。

 それは、例えようもなく不快な赤銅色。

 同時に、鼻腔を突く饐えた腐臭が風に乗って漂ってきた。

 何が起こっているのだろう。焦燥感に駆られて『秋月島』を注視したが、対岸から様子が解ろうはずもない。

 改めて同行できなかった事を悔やみながら、為す術もなく警察の到着を待つしかないと諦めた。

 昨夜の雨で一番近い経路が部分的に陥没し、恐らく二時間ほど待つ事になると冬也から聞いていた。「美月荘」の誰かが連絡してくるまで、鳥羽山の側にいてやろうと桟橋の下に降りかけた時。

 突然、地の底から足下を揺るがす轟音が響いた。

 バランスを失い残橋から転げ落ちそうになった日下部は体勢を整え、音がした方向の湖に視線を投げる。

 日下部は見た、湖の底から起ち上がる黒い塊を。

 塊は水面を突き抜け空中に霧散すると、波状に拡がった。そして激しく波打つ湖面をたゆたうように、幾筋かに分かれて岸に向かって流れてくる。

 経験に培われた勘が、危険性を伝えた。

 間違いない、あれは鳥羽山を喰らった化け物だ……。

 見る間に岸に到達し、ざわりざわりと這い上がる黒い塊は岸辺のクマザサを茶褐色に染め上げていく。

 刹那、日下部は踵を返し走り出した。

 逃げるためではなかった。

 自らが出来ることを、見つけたからだ。

 急ぎ『美月荘』に辿り着いた日下部は、思っていたよりも遅いバケモノの進行速度に安堵の息を吐いた。

 本棟正面玄関の階段を上り掛け、ふと足を止める。

 何かが、おかしい。

 頭の端に小さな引っかかりを感じ、目にした記憶を探りながら本棟前の駐車場まで引き返す。

「……なんてこった!」

 駐車場には学生達の黒いステップワゴンと緒永冬也の青いバン、美月の白い軽乗用車が駐められている。

 しかし、どの車のタイヤも刃物で切り裂かれたようにズタズタになっていたのだ。

 これでは危険から遠ざかる手段が、無きに等しい……。

 鳥羽山を探すため、今朝早くから乗り回していた日下部の車は桟橋近くに置いたままだ。

 一刻も早く『美月荘』に戻り女性達を安全なところまで避難させるには、自車で車道を戻るよりも裏手の道を上って誰かの車を使った方が良いと思ったのだが、裏目に出てしまった……。

 車を取りに戻るのが早いか、化け物が『美月荘』に到達するのが早いか。

 とにかく中にいる人間に事情を説明し、なるべくこの場所から遠ざかってもらうより仕方がない。

 その後、無事かは解らないが車を取りに行こうと考えて、再び本棟に足を向けた時。

「へぇ……あんた、逃げたんじゃなかったのか?」

 背後に癇に障る声を聞き、日下部が眉根を寄せて振りかえると須刈とか言う大学生が湖に下りる小路を駆け上ってくるところだった。

「日下部さん、湖の怪異を見なかったんですか? 早く逃げないと、鳥羽山さんの二の舞になりますよ。それとも火事場泥棒でも、するつもりなのかなぁ?」

 相も変わらず小賢しい言動に苛ついたが今は、それどころでは無い。

「生憎だがね、須刈君。これでも私は、女子供を放って逃げ出すような真似を未だ嘗て一度もしたことがないんだよ。見損なわないでもらいたい」

 厳しく叱咤すると、須刈アキラの大人びた顔が赤らむ。

「言い過ぎました……すみません」

 素直に詫びる態度に頬を緩めた日下部は、他の学生の姿がないことに気付いて辺りを見回した。

「他の連中はどうした、まさか……」

「あっ、それは大丈夫です。あいつらは美月さんを……」

 言いかけて「しまった」と小さく呟いたアキラに、日下部は苦笑する。

「心配には及ばん、あの女の事は彼等に任せるよ。それよりも……見たかね、駐車場を」

 神妙な顔で頷いて、アキラが顔を曇らせた。

「俺も女の子達を、安全な所に避難させるつもりできたんですが……困ったな。昨夜の雨で山道は足場が悪いから、歩きでは黒い奴らに追いつかれてしまう。オーナーは、夕方まで帰らないと言っていたし……」

「須刈君に、頼みたい事がある」

「何ですか?」

 日下部に向けられたアキラの顔は、意外な事に協力的だった。難局を乗り切る為に、どうやら少し信頼を預けてくれたようだ。

「無事か解らないが……桟橋の傍に駐めておいた私の車を取りに行こうと思う。戻るまでの間、消化器や水を撒いて少しでもバケモノの進行を食い止めて欲しいのだが……出来るか?」

「ああ、それならガレージにガソリンがあるそうですから、撒いて火を点ければ進行を止められると思います。茶褐色に変色しているクマザサは、『蜻蛉鬼』の幼生が羽化の為に定位して枯れているから、よく燃えてくれるんじゃないかな?」

「そうか、その手があったな。よし、ガレージに急ごう!」

 本棟の裏手に回ると、鉄骨で組まれた頑丈そうなガレージがあった。

 重いシャッターを上げると、山間部の住民が長い冬を乗り越えるための資材が所狭しと並んでいる。

 大型の冷凍庫、備蓄用の穀類、除雪用の道具、小型除雪機、暖房器具、薪、練炭、灯油の入ったドラム缶。

「日下部さん、ガソリンがありました!」

 アキラに呼ばれて日下部がガレージの横手を覗くと、併設された小型物置に十本のポリタンクが並んでいた。その内の4本に、満タンのガソリンが入っている。

「須刈君、ポリタンクを駐車場まで運んでくれ。持てるかね?」

「見損なわないで下さい」

 アキラはニヤリと笑って、十八リットルのポリタンクを二本、軽々と持ち上げる。

 日下部はガレージに戻ると小型のスコップを選び、柄の下方部分を足で押さえつけて満身の力を込めた。

 ばきり、と音を立てて木製の柄が折れる。

 ガレージの片隅に積まれたウエスを折れた柄に巻き付け、ポリタンクのガソリンを染み込ませているとアキラが訝しそうな顔を向けた。

「途中、蟲どもを追い払うのに必要かと思ってね。ライターを持っているか?」

「いえ……タバコは吸わないので」

「ふむ……」

 日下部もタバコを止めてからライターを持ち歩かなくなったが、 ポケットを探るとスナックの電話番号の入った百円ライターが一つ見つかった。

 鳥羽山の、馴染みの女が働く店名。

 こんなところで助けられるとは……と、日下部は奥歯を噛みしめた。

 自分の方は何とかなるだろう、そう思ってライターを渡そうとするとアキラが首を振った。

「それは日下部さんが持って行って下さい。俺の方はまだ時間がある、本棟なら着火できる物が見つかるでしょう」

「しかし……」

「車、アテにしてますから。山道歩くの、苦手なんですよ」

 この期に及んでの軽口に、日下部は半ば呆れたように笑った。

 この男に限らず、何とも不思議な連中だ。

「頼んだよ」

「任せて下さい」

 日下部は無言で頷くと、桟橋までの最短距離を駆け下りていった。

 まだ終わってはいない。

 奇妙な満足感が、日下部の胸を満たしていた。

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