〔4〕
優樹が舫綱の結び目を解いて操船準備をしていると、近付いてきた日下部が自らの沈黙を破った。
「頼みがある、俺も島に連れてっちゃくれねぇか……」
遼と優樹が返答に窮していると、アキラが前に進み出る。
「日下部さん、悪いが貴方は信用できない。女人像は重要な役割を担っている、もしも貴方達が狙っていたのなら、同行させるわけにはいかない」
アキラの言葉に顔を歪めた日下部が、どのような思惑を抱いていたか遼には量れなかった。
鳥羽山の敵を討ちたいと思っているのか、それとも隙を狙って像を手に入れるつもりなのか……。
「待たせたね、優樹! すぐに出せるか?」
息せき切って冬也が戻ってくると、優樹は舫綱をボートに放り桟橋を蹴った。
冬也は、ちらりと日下部に目をやったが、そのままボートに飛び乗りエンジンを始動させる。
泡立つ湖水が大きく波打った。
島に舳先を向けたボートはスピードを増し、白い破線が美しい尾を引き桟橋に向かって細く消えてゆく。
その先に小さくなりつつある人影が、心許なく見えるのは気のせいだろうか……。
「美月さんは、もう帰ってきていましたか?」
美月は朝早く、麓の町まで医療品を調達に出かけた。
日下部と殴り合って怪我を負った優樹の為である。
コクピットのデジタル時計は昼近い時間を指していた。もう帰ってきてもおかしくないはずだ。
「それが……車はあるのに、姿が見えないんだ。急いだ方が良いと思って、探してはみなかったが」
遼の胸に、一抹の不安が去来する。
現在の美月は、美月としての人格なのだろうか。それとも山に取り残された幼い時から、既に別の人格に変わってしまったのか。
「美月さんが変わったのは、山に取り残された時からですか?」
「……いや、あの時は熱を出して入院したが、退院してからも変わった様子はなかった。相変わらず身体は弱かったし、気が優しくて控えめでね……。変わったなと、思ったのは……」
冬也は視線を落とすと、言葉を濁らせる。
「片瀬由利菜……郷田君の婚約者だった女性が、湖で亡くなった時からだよ」
半分、予想していた言葉だった。
幼い頃の美月には、憎しみを形にするほど力が無かったのかもしれない。しかし報われぬ愛が、美月を変えてしまったのだ。
『秋月島』が近付くにつれ、湖の色が変わり始めた。
空の碧さと木々の緑が混ざり合ったように、輝くエメラルド色をした湖水が徐々に濁る。
湖底から何かが湧き上がり、エメラルドの輝きを浸食しているのだ。
やがて完全な茶褐色に変化した湖水はボートのエンジンに巻き上げられ、泡の飛沫をブリッジに撒き散らした。
同時に饐えた腐臭が鼻腔を衝き、遼は気分が悪くなる。
「嫌な匂いだな……まるで……」
小さく呟いて、そのまま黙ったアキラは何を言おうとしたのか。
解らないままにも、遼は想像する事が出来た。
これは、死の匂いだ。
『秋月島』の桟橋にボートを係留し、コンクリートを打った歩道に降り立つと、胸の悪くなる悪臭が勢いを増す。
丘の頂の祠を目指し、先に立った優樹に遼も続いた。
並んで歩く冬也がふと足を止め、湖に目を移す。
「美月を救う事が、本当に出来るのだろうか……。あの子は言った、『兄さんの為に愛する者を失った、私の幸せを二度と奪わないで欲しい』と……」
「冬也さんの為に……? 何か思い当たる事があったんですか?」
謎かけのような美月の言葉に興味を持ち、遼も足を止めた。
「思い当たる事などないが……もしかしたら、この土地から逃げた私を責めているのかもしれない」
自責の念から冬也は、全てにおいて悪いのは自分だと思い込んでいる。
しかし美月の言葉は、何か別の意味があるのではないかと遼は思った。
美月の意図するものは、なんだろう?
絡まった糸を解きながら、最後の小さな結び目に苛つく。そんな気分だ。
「これ以上、時間を無駄には出来ん……往け」
促す轟木の声に、むっとして遼は振り返った。
優樹の力を当てにしながら、これ以上尊大な態度を取られるのは我慢がならない。ひとこと言い返そうとしたが、出来なかった。
悲愴の眼差しで、轟木は冬也を見つめていた。
瞳の奥に揺らめく黄金色の焔が、憐憫の色を湛えている。
……何故だ?
遼の胸に、新たな疑問が湧き上がった。




