〔1〕
秋本遼は、吐き気と頭痛が治まるのを待って、ようやく身体を起こした。
まだ気分が悪いのか、不機嫌な顔でベッドに寄りかかったアキラは、こめかみを手で押さえている。
優樹が轟木をベッドに抑え込んだ途端、金縛りにあっていた身体が解放された。
人知を越えた体験は紛れもなく、轟木と優樹の対抗し合う力が原因だ。だが、未だに神懸かりな話を信じることが出来なかった。
暴力を使わず、轟木を抑えた青い焔……。
優樹は、無意識にそれを操ったのか。
ゆっくりと立ち上がったアキラが優樹に近づき、その背を叩いた。優樹はようやく、抑え込んでいた轟木から手を離す。
「まったく……酷い目にあった。おまえが何者なのかは知らないけどさぁ、一発ぶん殴ってやりたいところだよ。まぁ、それは轟木に悪いから堪えるとして、なぜ篠宮が必要なんだ?」
二人に見下ろされた轟木は身体を起こし、汗で貼りついたシャツのボタンを一つ外した。
「驚いたな……この数日で覚醒と制御を体得するとは。どうやら貴様らがこの地に来たのは、事を納めるために篠宮優樹を我と邂逅させる必要があったからだろう。覚醒は、必然だったのだ」
「それは、どういう意味です?」
まだ何かを知っていそうな轟木に、用心深く遼は尋ねた。
「確信は持てないが……この件は来るべき大局に備えての前哨かもしれない。偶然の要因はなく、必然に成された出来事の全てが、一つの目的に向かい動いている。いま我に出来ることは篠宮優樹と共に『蜻蛉鬼』を封じることだが、その事に何の意味があるかは解らない」
眉根を寄せた轟木は、全てを知っているわけでは無さそうだ。
「いま、やらなくちゃならない事さえ解れば俺のことなんかどうでもいい。グズグズしてたら、間に合わないだろう!」
苛ついた口調の優樹を、なだめるようにしてアキラが肩に手を回した。
「どうでもよくは無いけどねぇ……まあ、篠宮の言うことはもっともだな。ややこしいのは面倒だから、とりあえずアンタの事は轟木と呼ぶことにするよ。それじゃあ轟木、俺たちは何をすれば良いんだ?」
轟木は意を得て頷いた。
「湖に再び結界を張るためには、『蜻蛉鬼』の邪気より強い『気』が必要だ。我の力が及ばぬが為に、緒永の末裔に頼んで結界を絶やさぬようにしてきたが……昨今になって、いらぬ者どもが御神体をあるべき場より持ち出してしまった。本来、あの木像は美那姫が居られた洞窟の奥に祀られていたのだ。洞窟の祠に残る姫の遺髪と想いがあってこそ、木像に込められた念が活かされる……。『蜻蛉鬼』の力がここまで増した今となっては、普通の人間が洞窟に足を踏み入れることは出来ない。我も仮の依代の身では、近付くことさえままならん……島に渡ったとき、試みてはみたが……」
口惜しいと言わんばかりに、轟木は唇を固く結んだ。
「では丘の上に奉られた御神体を洞窟に戻せば、『蜻蛉鬼』を封じることが出来るんですね?」
轟木の表情は気になったが、思いの外に容易そうだと遼は安堵の息を吐く。
優樹の暴力を見せつけられ、もしや死を懸けるほどの危険な事態が起きるかと案じていたからだ。
しかし遼に向けられた轟木の言葉は、一瞬に期待を打ち砕く険しいものだった。
「いや、それだけでは済まない。問題は『蜻蛉鬼』を現世に呼び起こした……美月だ。あの女が死なねば、完全に封じることは無理であろう」
「死……? 美月さんを、殺せとでも言うつもりか?」
アキラの手を振り払い、優樹が轟木に詰め寄る。
「そうだ、篠宮優樹……貴様なら直接手を下さずとも、あの女を死に至らしめることが出来る。既に貴様は、力を御していたではないか」
「あれが、俺の力だって? 俺はただ、轟木先輩を還せと言っただけだ!」
「願いを心に思い描き、言霊とすることにより力は発露する。女の心の臓を思い描き、握り潰せ」
「……そんなこと、出来るわけねぇだろっ!」
「やらねば多くの、犠牲者が出る」
「いい加減にしやがれっ!」
満身の怒りを込め、優樹が叫んだ。
ピシリ、と音を立てて窓ガラスが砕け散る。
「俺は、誰も殺さない……誰も傷つけない! 化け物だけ、ぶっ潰す! 俺に力があるなら、出来るはずだっ!」
「貴様が死ぬぞ」
「今更……それが何だ? もともと俺は、生きているはずの無い人間だ……」
言葉の意味を計りかね、遼は戸惑いの目を優樹に向けた。
遼の瞳を真っ直ぐに受け止めた優樹は、ゆっくり深呼吸をすると決意の顔つきに変わる。
「俺の母さんに……二人目の子供が出来たと知った横浜の本家は、すぐに始末しろと言ったそうだ。二人目を産んではいけない、それが男なら尚のことだと言われて親父と母さんは横浜の家を出た。伯父さんの田村さんが色々助けてくれて俺が産まれたんだけど、三歳になった時、とうとう本家に見つかっちまって……。結局、産まれたからには仕方ないが日本で生活されては困ると言って、本家の祖父さんは俺と母さんだけ海外に移住するように手配した……」
表情も変えず淡々と話す優樹が、努めて感情を殺そうとしているのが解った。
優樹は自分の中にある怒りや憎しみと、今まさに対峙している。
言葉にして話すことが、抑え込むことではなく自分自身と戦うことなのだ。
「移住の話を聞かされた翌日、館山の岬にある村雲神社に母さんの身を隠して親父は本家を訪ねた。本家の意向は親父だけ日本に残れというものだったから、一緒に暮らせるように頼みに行ったんだ。姉さんは産まれてすぐに本家が連れて行ってしまったから、帰してもらって親子四人で暮らしたいって……。でも親父の留守に本家の使いがやってきて、母さんと俺を連れ出そうとした。本家の言うことを信じずに、俺が殺されると思い込んだ母さんは逃げようとして境内に追いつめられ、俺を抱いたまま……海に身を投げた」
心臓を鷲掴みにされ、遼は息苦しさに顔を歪める。
膝が震え、立っているのがやっとだった。
優樹が語りたがらなかった真実、それはあまりに重く、辛い記憶だったのだ。
「崖の上に張り出した境内から見下ろす海は怖かった、恐ろしかった……。岩に波飛沫が散って、雷みたいな音が下から響いていた。水平線には叢雲がかって太陽は見えなかったけど、恐ろしいくらい真っ赤に染まった空を覚えている。俺に向かって母さんが寂しそうに笑ったとき、オレンジ色に染まった顔はすごく奇麗で……その時、俺はもう怖くない、どうなってもいいと思って目をつむった。そしたらふわっと、身体が浮いた気がしたんだ。その後のことは覚えていない……だけど、すぐに助けられた俺は奇跡的に怪我一つ無かったそうだ」
そこまで話して、初めて優樹の顔が苦渋を湛えた。
蒼白になった唇から、絞り出す声が震える。
「……なぜ俺は、あのとき死ななかった? 俺のために母さんは、今も意識のないままだ。俺がいなければ……俺さえ産まれてこなければ……だから俺は……誰かに必要とされていたかった……そうじゃなかったら俺が生きてる意味なんか、無い……」
自らの生を否定されながらも、母親を犠牲にして生きている。
優樹の辛く悲しい波動に包まれた遼の胸は軋み、堪えきれずに涙があふれた。
遼が受けた差別や偏見、虐めの辛さは優樹がいつも理解し受け止め助けてくれた。
不仲の両親に寂しさを感じたときもあったが、父も母も身近に生きている。
だが優樹は生きること自体に畏れを持ち、たった一人で不安や寂しさを押し隠してきたのだ。そして恐怖から感情が制御できなくなり、人を傷つけ見捨てられて孤独になることが怖かったのだ。
母親が身を投げるまでの経緯を、優樹はいつ、誰から聞いたのだろう?
優樹は幼少の頃から素直で真っ直ぐで正義感が強く、自分に厳しく他人に優しかった。
時に理解できないほどの善人ぶりが、煩わしく感じる事さえあった。
不自然なほどの誠実さが、過去の出来事上に成り立っているとしたら悲しすぎる。
遼と優樹を隔てていた高く冷たい壁の入り口を見つけ、扉は開かれた。
だが果たして、その向こうにある虚空を満たすことが自分に出来るのだろうか。あまりに暗く深い闇の深淵に嵌り、抜け出せなくなりそうだ。
とどまることなく流れ落ちる涙を拭うことも忘れ、呆然とする遼に優樹がタオルを手渡した。
「ばぁか……なんて顔してんだよ、俺の為に泣いてんのか? 相変わらず泣き虫だな……ガキの頃と変わらねぇや……」
「……僕は君とは違うからね。だって君は……」
受け取ったタオルを顔に当て、嗚咽を抑えた。
情けないと思いながらも、止めることが出来ない。今まで優樹が遼に向かってしてくれたように大丈夫だと言ってあげたかった……不安を忘れさせるような明るい笑顔で言ってあげたかった。
だが今の自分には、何も出来なかった。
「篠宮優樹の父親は禁忌を犯した……よって自らの死で償わねばならなかった。しかし、貴様の生は必然に適っている、その役割を果たすまではな」
諭すように重い口調で語った轟木を、アキラの視線が刺す。
「俺は普段、短気は起こさないんだけどねぇ……今日は機嫌が悪いんだ。頼むから、これ以上余計な事を言わないでもらえるかな」
肩を竦め、轟木はドアに向かった。
「ならば貴様がどれだけやれるか、しかと見せて貰おう……篠宮優樹」
その背中を睨んで優樹が足を踏み出した時、バタバタと階段を駆け上る音がしたかと思うと勢いよくドアが開いた。
「大変だ、湖で鳥羽山さんの死体がみつかった!」
部屋に飛び込んできた佐野が叫び、三人は言葉を失った。




