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私立叢雲学園怪奇事件簿【第二部 魄王丸編】  作者: 来栖らいか
【第一章 秋月湖伝承】
3/42

〔1〕

 深く、濃い霧が行く手を閉ざしていた。

 オレンジ色のフォグランプが照らし出す、黒いアスファルト。センターラインのない狭い峠道は、路肩を外れた途端に傾斜する雑木林に嵌り、悪くすれば崖下に転落する危険がある。頼りとなる前方の車のテールライトが、曇ったフロントガラスに滲んで見えた。

 秋本遼は、フロントガラスをタオルで拭い小さく溜息を吐いた。すると運転席でハンドルを握っている青年が、からかうように笑う。

「この霧の中、アイツはどこまで先に行ったのかねぇ? 崖下に転がってても、これじゃわからないなぁ……霧が晴れなきゃ助けにもいけないぞ」

「……笑えない冗談はやめてください、アキラ先輩」

 少し癖のかかった栗色の前髪を掻き上げ、遼は須刈アキラに冷たい視線を投げた。

「失言でした……謝るからさ、そういう目で見ないでくれる? 優しい顔してるくせに、怒らせると恐いんだよなぁ秋本は」

「アキラ先輩に言われるのは、心外ですね」

 肩を竦めたアキラに苦笑して、遼は再び窓の外に目を向けた。

 風に流されていく霧はまるで乳白色の液体のように見え、その向こう影のように薄くぼんやりと見える雑木林の奥が、徐々に暗さを増していく。じき夕闇に閉ざされ、さらに視界が悪くなるだろう。

「地図を見た限りじゃ目的地まで一本道だし、林道に逸れる道は未舗装で立入禁止の柵があるそうだから迷うこともないだろうが……やはり、篠宮を止めるべきだったかな」

 そう言ったアキラの口調には、先ほどとは違い本気で心配する様子が伺えた。

「無駄ですよ、優樹は言い出したら誰にも止められない」

 呟いて遼は、霧に閉ざされた行く手を見据えた。

 私立叢雲学園高等部三年生、秋本遼は来春医大を受験するつもりだった。

 看護師である母から医療現場の現実や苦労、力が及ばず命を失う悲しみを聞いて育つうちに、いつしか医療に関わりたいと思うようになったからだ。

 しかし親友である篠宮優樹に誘われ、ゴールデンウィークは予備校の強化合宿を蹴って友人と過ごすことに決めた。

 目的地は、優樹がバイクで世話になっているオートショップ〈スティル・ウイング〉オーナー、緒永冬也の実家が経営する貸別荘である。

 学生達の溜まり場になっている写真部で話を切り出したところ、親しく付き合っている何人かが参加を希望し、この春卒業した先輩を含む男子七名、女子四名の旅行となった。

 アキラの運転するステップワゴンには、遼の他に四人の男子が乗っていた。

 案内がてら先頭を走る緒永冬也のバンはトランポに改造してあり、優樹のオフロードバイクが積んであったのだが……。

 上信越自動車道を山間のインターチェンジで降りてすぐに、優樹はバンから愛車の二五〇CCオフロードバイクを下ろした。

 山頂付近にかかる雲が風に乗って降りてくるのをサービスエリアで見た緒永が、今日は諦めろと忠告したのだが聞こうとはせず、霧で視界が悪くなったら停まって待つ事を約束して先に峠に向かったのだ。

「それにしても……こんなに視界の悪い峠道を運転することになるなら、館山から東京に抜けるまでを引き受けるんだったな。いったい、後どのくらい走ればいいのか皆目見当がつかない。霧がなければ湖が見えてくるそうだけど」

 大きく溜息をついたアキラの横で、遼は地図を広げた。

「アキラ先輩が朝は苦手だって言うから、先に佐野先輩が運転してくれたんですよ?」

「まあ、そうなんだけどさぁ……何だか後ろで寝てるあいつらを見てると面白くなくて。そう言えばおまえ、ずっと起きてたのか?」

「先輩が寝てる間も起きていました、ドライブは好きですから。速度と時間からすると湖までは後十五分くらいだと思いますよ、少し前に下りになりましたから突き当たったところに見えるはずです」

 房総半島の東部、館山を車で出発したのは夜が明けきらない時間だったが、途中渋滞に巻き込まれ関越自動車道から上信越自動車道に分岐した時点で既に午後二時を過ぎていた。

 朝からハンドルを握っていた佐野和紀をはじめ、他の三人も長距離の移動に疲れてしまったようだ。

「優秀なナビが起きててくれて助かった」

 アキラの言葉に、疲れた様子も見せず遼が笑った。

 予想したとおり十五分ほど曲がりくねった細い峠道を降りると、突き当たりが左右に分かれたT字路になっていた。

 そこには、ちょっとしたパーキングスペースがあり、おそらく天気の良い日には美しい湖を見ることが出来るのだろう。先導していた緒永の車が停まったのが見えて、アキラもその横に車を付けた。

「ここで待つように言ったんだが……優樹はどこに行ったんだ? バイクはあるな」

 車から降りた緒永が、遼に向かって苦笑する。

「仕方ない、私は向こうの側道を見てこよう。湖を観に行ったのかもしれない」 

「あ、じゃあ僕はこっちを探してみます」

 緒永と反対方向を見回し、遼も車から離れた。

 霧に閉ざされた向こうから、微かに水の気配がする。

 腰の高さほどしかない、自然木で作られた柵の下でクマザサが風にざわめき、ひたりひたりと水音が重なった。

 柵から離れると、方向が解らなくなるほど霧が深い。もしかしたら優樹も迷ってしまったのだろうか? 

 ふと、そんな不安が頭をかすめたとき、柵に引っかけられたヘルメットを見つけた。優樹の姿はない。

「優樹?」

 声は霧に吸い込まれる。

「優樹!」

 さらに大きな声で、遼は呼んでみた。すると白いカーテンの向こうから、人影が近付いてきた。

「……優樹?」

「よっ、遅かったな」

 姿を現した篠宮優樹の事も無げな言い方に、遼は眉をひそめた。

「皆が心配している」

「え? そうか? 霧ならじきに晴れるよ」

「霧の事じゃなくて、君が……」

 遼が言いかけたとき、湖から冷たい風が吹き渡った。幕が引かれていくように霧は左右に分かれ、エメラルド色をした湖水が眼前に広がってゆく。

「ほら、な?」

 まるで自然を味方に付けているような優樹の勘の良さを、遼は知っていた。だから心配などしていなかった。

 しかし他に心配をかけるような行動を、親友として見過ごすわけにはいかない。

「ほら、な、じゃないだろ? 緒永さんが探してる。ここから先は道が解りにくいそうだから、おとなしく付いて来ないと本当に迷うよ?」

「わかった」

 緒永の名を出され、優樹も従う気になったようだ。反対を押し切ってバイクに乗ったことを、少しは悪かったと思っているらしい。

 ヘルメットを柵から外し、遼の隣に並んで歩き出した。が、すぐに立ち止まると表情を強ばらせ辺りを見渡す。

「なに? どうかしたの?」

 先を歩いた遼は、優樹の所まで駆け戻った。

「なんか、いる」

「えっ?」

 言われて遼は、優樹の見つめる方向に目を凝らした。

 コンクリートで固められたパーキングの向こう、湖との間の藪が、ざわざわと動いている。

 まだ晴れきらない霧の中、その不気味な存在を感じ背筋を冷たいものが伝った。

「熊、かな?」

「わかんねぇ」

 優樹は、メットを手に身構えた。ウサギのような小さな動物ではないことが、がさり、がさりと、藪が揺れる大きさでわかる。

 もし冬眠から冷めて凶暴になっている熊だとすれば、一八二センチの長身と剣道で鍛えた身体を持つ優樹でも、メット一つで太刀打ちできるはずがない。ポケットには携帯電話があるが、峠に入ったときから圏外を表示していた。

「風は湖からこっちに吹いている。静かにしてれば気付かないで行っちまうと思うけど、もし……」

「了解」

 最後まで聞く必要はない。

 こちらに向かってくるようなら、優樹が相手をしている間に助けを呼べということだ。遼は息を潜め、身構えた。

 ざわめきは次第に近づいてくる。優樹は遼に目配せをすると、前に進み出た。

 突然、目の前に現れた獣の正体を咄嗟に判断することは出来なかった。

 熊だとすれば大きさは一般的成獣基準の優に倍はあり、そしてその形態は……。

「犬? ……まさかオオカミ?」

「馬鹿、あんなでかいオオカミが日本にいるわけねぇだろ?」

 獣の姿を見据えたまま、優樹が遼に応じる。

「どっちかってぇと……ライオンか?」

 それこそ馬鹿な話だと思ったが、言われてみればそう見えないこともない。

 しなやかに肩を揺らし、猫科とも犬科とも決めかねる獣は藪から姿を現すと鼻筋にしわを寄せ、まるで笑うかのように裂けた口を開いた。

 剥き出された牙はサーベルのように長く、濡れて光っている。双眼は赤みを帯びた金色に輝き、焔のごとく燃えているように見えた。全身は白い。しかし背中にかけて黄金色の鬣があった。

 優樹が息を飲み、呼吸を整えているのがわかる。この獣と闘うつもりなのか? 無茶だ。

 しかし遼は、獣からの殺意を感じなかった。

「待って」

 遼が腕を掴み声をかけると一瞬、優樹の緊張が解けた。

 すると獣は咆吼をあげ、踵を返して藪の奧へと戻っていく。優樹の身体から力が抜け、遼は手を離した。

「どういうことだ?」

 不思議そうに獣の消えて行った方向を見つめていた優樹は、遼に目を移した。

「わからない」

 他に答えようもなかった。

「俺が一人で走っているとき、何かが付いてきている気がした。霧で見えなかったけど、後ろになったり、併走したりしているのを確かに感じたんだ。だから緒永さんに言われたここでバイクを停めたとき、その正体がわかるかと思って探していた。今の奴だったのかな?」

「……わからない」

 困惑の表情で、遼も湖を見つめた。

 エメラルド色の湖面が、緑がかった深い藍色に変化しつつある。霧が晴れたかわりに風が強くなり、湖に映し出された白樺の美しい新緑が波に散った。

 まだ対岸が見えるほどの明るさはあり、改めて見渡せば緒永から聞いていたとおりの美しい景観だった。

「中島が、あるんだ」

 湖の丁度中程に、小さな島がある。そこには鳥居と祠らしき物が見て取れた。

「二人とも、やっと見つけたよ。優樹も無事で良かった」

 その声に遼が振り返ると、息を切らせた緒永が後ろに立っていた。

「すみません、優樹は直ぐに見付かったんですけど、戻る方向がわからなくなって」

「私も霧が晴れてからやっと、君達を見つけられたんだよ。ああ、湖の方はもうすっかり晴れて『秋月島』が見えるね」

「『秋月島』? あの祠のある小さな中島の事ですか?」

「うむ、この湖は『秋月湖』と言ってね、祠はここで悲運の死を遂げた戦国時代の姫君を祀ってあるらしい。詳しいことは良く知らないが」

「そうなんですか……」

 遼は、あの獣が湖を護っていたように感じていた。『秋月島』、白い獣、深い霧、美しい湖。

「緒永さん、この辺には白い熊が出るんですか?」

 敢えて言うまいと思った遼の気も知らず、優樹が緒永に聞いた。

「白い熊? この辺にいるのはツキノワグマで、動物園で見るようなシロクマ、ホッキョクグマなんかいるわけないだろう?」

「だけど……!」

 呆れたように笑う緒永に「むっ」とした顔になって、なお言い募ろうとする優樹の肩を遼がひいた。

「向こうの藪に何かいたみたいです。ウサギか何かじゃないかな?」

「ウサギなら、もう体毛は茶色になっている。白っぽく見えて熊と間違えるくらいの大きさならカモシカかも知れないね、背中の体毛が銀白色に見える奴もいるから……。時々この辺りまで下りてくるんだよ」

 優樹が何か言いたげな表情で顔を向けたが、遼は小さく首を振った。

 あれは熊でも、カモシカでもない。ではいったい、何だったのか?

「さあ、ここまで来ればもうすぐだ。高速を降りたときに電話してあるから親父が今頃イノシシ鍋を用意して待ってるよ」

「……イノシシ鍋?」

 複雑な顔をした遼に、優樹が笑う。

「おまえ、そういうのダメなんだよな。俺は緒永さんから美味いって聞いてるから、楽しみにしてたんだ。あ、それから妹さんが得意だって言うウサギのシチューに蜂の子の炊き込みご飯も」

「……ウサギ? 蜂の子?」

 緒永に悟られまいとしながらも、ざわつく肌を抑えられない。

「こら、遼君をからかうんじゃない。心配いらないよ、他に食べ物がないわけじゃないから」

「はあ……」

 面白がっている優樹を遼は睨んだ。




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