〔2〕
「変な事を、言わないで欲しいな……じゃあ僕は、まだ仕事があるから」
動揺を隠すように郷田は、無理に笑顔を作り遼に背を向けた。
「待って下さい、美月さんが理由でないなら亡くなった恋人のためですか?」
「君は、何を言ってるんだ? 他人のプライベートに立ち入る権利は、ないだろう!」
怒りを顕わに向き直り、郷田は声を荒げる。
それから我に返った顔で、慌てて厨房を見た。及川には聞こえていないとわかり、少し安心した様に息を吐く。
「大きな声を出して、悪かったね。でも子供が詮索する事じゃないよ……もう、部屋に帰った方がいい」
しかし遼は、引き下がらなかった。
「僕には聞く権利があるんです、郷田さん。優樹が日下部さん達と暴力沙汰を起こした事、知ってますよね? その理由が何か、聞いていますか?」
「……美月さんが鳥羽山さんに絡まれていたのを助けたそうだが、僕に何の関係があるんだい? 君の友人が、勝手にした事だろう?」
「関係あるんです……美月さんは多分、貴方を愛している。報われない想いが憎悪に変わり、怨念となって湖に眠る怪物を呼び起こした。優樹は、そのせいで正気を失ったんです」
「怪物だとか、怨念だとか……馬鹿馬鹿しい! 友人を庇う気持ちは分かるが、どう考えても理不尽な言い分だ。君は、僕のせいで優樹君が暴力を奮ったと言いたいのか?」
「そうです」
遼が、きっぱり言い切ると郷田は言葉に詰まった。そして複雑に顔を歪め、蹌踉めくように椅子に座る。
「まさか……そんな。僕のせいなのか? 美月ちゃん……僕が君を追いつめた?」
一笑されると予想していた遼は、みるみる青ざめた郷田の様子に確信を持った。
「思い当たる事が……何かあったんですね?」
「君に……話す様な事じゃない」
「お願いします、郷田さん! 原因を突き止めなくては、また優樹は暴力の衝動に支配されてしまう。僕は優樹の力になりたい、彼を助けたいんです! 貴方は美月さんを、助けてあげようとは思わないんですか?」
「助ける?」
「このままでは、美月さんは救われない。何か……恐ろしい事が起きる」
轟木の残した言葉と、湖で見たヴィジョンが気に掛かっていた。それらは何を暗示しているのか?
『蜻蛉鬼は力の源たる怨念を得て甦ろうとしている。人肉を喰らい、力を蓄え、やがてその姿を現すだろう』
現代に、化け物まがいの現象が起きるとは考えられなかった。しかし放っておけば、取り返しが付かなくなる予感がした。
恋愛感情には人それぞれの理由があり、なぜ郷田が美月を選ばなかったか遼には知るよしもない。
だが今ほどの様子から、かつては美月に想いを寄せていたと伺い知れた。
湖の怪異は美月の仕業と郷田に信じさせれば、何か手が打てるかも知れないが……。
「美月ちゃんとは……小学校の頃から仲が良かった。優しくて可愛い子だったけど身体が弱くてね、いつも嫌々、マゴタロウを飲まされてたな。中学校に入るまでは、お兄ちゃん子で冬也さんがいないとすぐに泣き出す甘えん坊だった」
「付き合っていた事が、あったんですか?」
「いや……いつも三人一緒だったからね。オフロードレースで大怪我をした冬也さんがレーサーを諦めて上京した時、美月ちゃんも東京の学校に通うって随分言い張ったんだけど叶わなかった。冬也さんと入れ替わりに僕が帰郷して『美月荘』のシェフになり、冬也さんの代わりに、お兄ちゃんになれたらなって思ったんだ……」
郷田は、寂しそうな顔で笑った。
「結局、冬也さんには敵わなくて、辛さは募るばかりだった。それでも……傍にいたかったんだ。そんなとき、以前一緒の職場にいた片瀬由利菜という女の子が僕を慕って訪ねてきた。美月ちゃんの役に立てなくて落ち込んでいた僕は、由利菜に惹かれていった」
「湖で亡くなった女性ですね、洞窟の祠に生けてある花を見つけた時に美月さんから聞きました」
苦渋の表情で深く息を吐き、頭を抱える様に郷田は手を組む。
「由利菜は一人っ子で、地方都市で経営している実家のレストランを継がなくちゃならなかった。でも、まだ先の話だと思っていたら婚約する直前に母親が急死して……結婚の日取りは喪が明けてからと言う事になったけど、父親だけになったレストランを二人で手伝いに行く事にしたんだ。ところが同じ時期に僕が卒業した調理師専門学校からフランス留学の勧めがあってね、由利菜に相談したら五年も待てないと言われて諦めるつもりだった。そして……あの事件が起きたんだよ」
しばらく黙した郷田が、口を開くまで遼は待った。
辛い記憶は容易に他人に話せるものではないからだ。しかし、疑いを持ちながらも美月が関係していると言った遼の真剣な態度は、郷田に話す決意をさせたに違いなかった。
「悲しみや苦痛から逃れたかった……だから僕は留学を決めて逃げ出したんだ。その時になって初めて、帰ってきて欲しいと言った美月ちゃんが僕に好意を持っていると知った。美月ちゃんの気持ちは嬉しかった……だけど……次の言葉で僕の血は凍りついた」
「美月さんは、何と言ったんですか?」
遼の動悸は速くなる。
「美月ちゃんは……僕にこう言った『良かったわね郷田君、これで留学できるじゃない。私の望み通りになったわ』と……」
郷田の言葉に、全身が総毛立った。
愛情と憎悪、寂寥と苦痛、疑問と戸惑い……。郷田の、あらゆる感傷が綯い交ぜになり、うねりあい、形の無い圧となって遼を押し潰す。
気を落ち着かせるために、大きく息を吸い込んだ。
もはや、疑う余地はない。
「望み通りになったと……言ったんですね」
「ああ……だが待ってくれ、それだけで美月ちゃんが由利菜の死に関係してるとは言えないだろう? 君が湖に怪物がいるなんて話をするから混乱しただけだ、全くの偶然だよ」
「本当に、そう思いますか? たとえば……及川さんに危険が及ぶ事はないと言い切れるんですか? もし同じ悲劇が……」
「よしたまえ、そんなことあり得ない! 君は……どうかしている!」
そう叫んだ郷田が、否定しながらも気持ちのどこかで美月に疑いを持っているのは明らかだった。
しかし、これ以上問いつめても今日の所は無駄だろう。
「僕らは客にすぎませんから、明後日にはこの地を去ります。でも……関係ないと済ませる事は出来ない。『秋月湖』には何かが居ます……それを止められるのは郷田さんだけかも知れません。……帰ります、ミルクご馳走様でした」
顔を俯け無言のままの郷田に会釈すると、遼は冬也を探して傘を借りた。
玄関を出れば、さらに雨足は強くなり横殴りの風が傘を奪おうとする。
しかし遼は濡れるに任せ、コテージに向かって歩き出した。




