〔1〕
日暮れと同時に風が戻ったが、どうやら運んできたのは雨雲らしい。
突然の雷と共に大粒の雨が降り出したため、秋本遼はコテージ自室の窓を閉めカーテンを引いた。
激しい雨がガラス窓を叩き、時折、耳を覆いたくなるほどの雷鳴が鳴り響く。しかし優樹は身じろぎもせず、静かに寝息を立てていた。
「……さん」
小さく寝言が聞こえて、遼はベットに近付いた。
汗で額に張り付いた優樹の髪を掻き上げると、彫りの整った顔に紫色の痣が痛々しい。
背を丸め、膝を抱えるようにして眠る姿は、いつ見ても子供のようだと苦笑しながら夢見て呼んだのは母親だろうか? 父親だろうか? と考える。
どちらにせよ穏やかな寝顔に悪夢ではなさそうだと安心して、遼は郷田が優樹のために用意してくれた食事のトレーを手に部屋を出た。
階下のリビングでは部屋に引きこもった轟木彪留を除く全員が揃っていたが、楽しい雰囲気とはいかないようだ。
地図を広げ明日の撮影場所を相談する須刈アキラと佐野和紀も身の入らない様子で、時折考え込むように会話が止まる。
カードゲームをしている忠見遥斗と真崎宙も、ぼんやり手元を見つめているだけだった。
「俺、優樹先輩が怖くなった……。大人二人を半殺しにしたんだぜ? なんか、すげぇよな……」
遥斗が呟くと、佐野と宙が顔を上げた。
「俺はカッコイイと思ったけど? 強いくせに、それを隠してるなんて馬鹿馬鹿しいじゃないか。気取ってないで力に訴える方が先輩らしいのかも知れないぜ」
冷ややかに宙がそう言うと、テーブルの地図に目を落としたままアキラが上を指さした。
「口が過ぎるぞ、真崎」
上を見上げて遼に気付き、宙は真っ赤になる。
「えっと、あのっ、俺は別に……」
遥斗も宙も知らない。未知の力を持つ恐怖を。
他人が持たない力を持った者だけが、思い知るのだ。憧れるような、モノでは無いと。
大人げない態度と思いながらも、弁解しようとする宙を無視して、遼はコテージを出た。
『美月荘』本棟までは数十-メートルだが、雨合羽は役に立たなかった。
服に染み込むほど、ずぶ濡れになった遼は本棟に入るの躊躇い立ち尽くした。玄関先でビニール袋から出したトレーを渡し、引き返そうか?
雨の中、この時間に訪れたのは目的があった。
しかし、その件は日を改めようと思い直した時。車輪が水を弾く音が聞こえて振り向いた遼の目の前に車が急停車し、ドアが勢いよく開いた。
乱暴に閉められたドアの音で、中から緒永冬也が様子を見に出てくる。
「車の音がしたと思ったが……あっ、遼くん! ずぶ濡れじゃないか、風邪引くぞ! 早く中に入って! 美……いや、及川くん、タオルを持ってきてくれ!」
厨房で後片づけをしていた及川睦美が急いでタオルを取りに行き、何事かと顔を出した郷田が駆け寄ってきてトレーを受け取った。
「明日の朝取りに行くつもりで居たんだ、わざわざ有り難う。かなり濡れちゃったね……僕のトレーナーを貸してあげるから着替えたらどうだい?」
にこやかに微笑みかけられ、遼は申し出を受ける事にした。本棟を訪れた目的は、郷田から話が聞きたかったからだ。
暖かな食堂で待つように言われ、及川から受け取ったタオルで髪を拭いていると玄関から怒ったような冬也の声が聞こえてきた。
「帰ってくれと、言ったはずだ!」
「解っている、しかし……」
聞き覚えのある声に、車の音が戻ってきた日下部だと遼は知った。
「鳥羽山さんは来ていません、何かの間違いじゃないんですか? 連絡くらい取れるでしょう?」
遼と同じく、ずぶ濡れの日下部にタオルを差しだそうとした及川を、冬也は手で押しとどめる。
「日下部さんは直ぐにお帰りになる、必要ない」
ぞんざいな態度に苦笑して、日下部は水の滴る髪を後ろに撫でつけた。
「それが携帯も通じないんですよ……病院から最後に連絡があった時、手伝いに戻ると聞かなくてね。最終バスで近くまで来て後は歩くと言っていたのですが、この雨だ。所々、鉄砲水も出ているようだし心配なんですよ。無理を承知でお願いします、もう一晩だけここで鳥羽山を待たせちゃくれませんか? ご迷惑は掛けないと約束します」
「もう十分迷惑だ、そんなに心配なら探しに行かれたらいいでしょう?」
「いや、そうしたいのはやまやまですが……雨であちこちの路肩が崩れていましてね。沢が溢れたのか川のようになっている道もあるし、二人揃って遭難したくはないんですよ。雨が上がって水が引き、明るくなるまでは動かない方がいい」
日下部の言う事は正しかった。
いくら迷惑な客とはいえ悪天候の夜中に追い出すわけにはいかず、冬也は苦り切った顔で及川からタオルを取ると日下部に手渡した。
「具合でも悪くなられたら、なお迷惑だ。風呂に入って着替えたらいい、ロビーに毛布を用意しましょう」
「有り難う御座います」
深々と頭を下げた日下部が、ちらりと食堂に視線を投げた。
遼は不快な気分で顔をしかめたが、ふと疑問がわき上がる。日下部の言い分はもっともながら、何か不自然なものを感じるのだ。
落ち着かない様子は、本気で心配している様に思える。しかし、ここで待つより手がないといった切迫感があった。
及川が宿泊者用の部屋着を渡すと、日下部は申し訳なさそうに頭を下げ浴室に向かった。
その後、直ぐに着替えと温かいミルクを持ってきてくれた郷田に礼を言い、遼は服を着替えてミルクに口を付ける。
「あの……美月さんは?」
夕食の時から姿の見えなかった美月は、今も厨房の片づけを手伝っている様子がなかった。
「気分が悪いとかで……部屋で休んでいる様だよ。やあ、優樹君は残さず食べてくれたんだね、良かった。冬也さんから怪我の様子を聞いた時は、食事が出来る状態だなんて信じられなかったけど」
「とても美味しかったって言ってました。でも郷田さんはフランス料理が専門なんでしょう? 優樹に用意してくれたのは……」
人懐こい笑顔で、郷田が微笑む。
「和食、中華、エスニック、何でもござれだよ。ペンションのシェフをやるからには、お客さんの要望に応えられなくちゃ。以前、勤めていたレストランは味の分からない客は来るなって態度で嫌いだったんだ。誰にでも美味しいと言って貰えるのが、何より嬉しいよ」
郷田が用意してくれたのは、中華粥だ。残さず平らげ物足りなさそうな顔をした優樹を思い出し、遼は笑いを堪える。
「郷田さんは……これからもずっと『美月荘』のシェフを続けるんですか? それだけの腕があるんですから、もっと大きな町で独立したら成功すると思いますよ」
「いやぁ、そう言って貰えるのは嬉しいけど僕なんか、まだまだ……。でも、この土地は生まれ故郷だからね、離れたくないんだ」
今までの遼なら、他人に立ち入った事を聞いたりはしない。軽く反応を見るつもりの言葉だが、年の離れた学生に意見されても郷田は、不快そうな顔をしなかった。
遼は小さく深呼吸すると、意を決して言葉を継ぐ。
「それだけが理由なんですか? たとえば……美月さんの傍を離れたくないとか」
「えっ?」
郷田の顔色が、一気に変わった。




