〔3〕
黙したまま優樹の手当をしていた冬也は、一通り済んだところで大きく息をついた。
服の上からは見えない随所に、おびただしい内出血の跡。思いの外、多くのダメージを受けている。
「よくこれで、桟橋から歩いて来られたものだ。骨に異常はないが、内臓にかなりきてるはずだぞ……。まあ、若い時は色々と無茶をするものだが、私が付いていながら君に怪我をさせては田村氏に申し訳が立たない」
「……すみません」
冬也には隠さず経緯を話したが、やはり警察沙汰は避ける判断をしてくれた。
消え入りそうな声で詫びた優樹は、俯けた顔を上げようとはしない。
「田村氏には電話で、よく説明しておくよ。おまえは生来頑丈な身体をしているから明日には動けるだろうが、大事を取って残りの日程二日は安静にしていろ。熱が出たらすぐに言え、その時は病院に放り込んでやる」
穏やかな口調に込められた怒りが、優樹の無茶に対してなのか日下部に対してなのか判断つきかねた。
冬也はそれ以上何も言わずに救急箱を片付けると、優樹に一瞥を投げ部屋を出て行った。
「悪いが、遥斗と宙も席を外してくれ」
アキラに言われて異論を唱えようとした遥斗の背中を、佐野が押すようにしてドアの外に出す。
遼の使っているベッドに腰掛けたアキラの隣に、戻ってきた佐野も座った。
轟木は窓際で腕を組み、遼を見つめている。
ライティングデスクの椅子を引き、遼は優樹が横になっているベッドサイドに座った。
「秋本の能力は知っているが……」
言い掛けて、アキラは轟木に目を向ける。
遼もまた、不思議な気持ちで轟木を窺い見た。
無表情な顔からは、何も読み取ることが出来ない。轟木は、誰も知らない何かを知っているのだろうか?
改めてアキラは遼に向き直った。
「篠宮に冷静さを失わせた邪気か……。例の噂、湖の怪事件が関係しているのかも知れないなぁ。おまえが湖で倒れたのは気味悪いモノを見たからだと、ゆうべ篠宮から聞いてはいたが……」
アキラを押しのけるように佐野が、身を乗り出した。
「あれっ、俺は聞いてないぜ? なんだ、寝不足のせいで倒れたわけじゃないのか……轟木もいる事だし俺たちにも話してくれよ、厭なら別にいいけど……」
本棟で遼が日下部と口論した時にも居合わせた佐野は、自分も関係あると言わんばかりに鼻息を荒くする。
「大丈夫です、実は……」
遼は蘇る不快感に耐えながら、紅く波立つ湖の底に黒いタールのような蟲の塊が蠢き、その中から白い骨の浮かび上がる様を語った。
しかし白い獣を見た事と、美月が関係しているかも知れない事実は伏せておいた。
話し終えると、腕を組んだアキラが佐野の前に立つ。
「そもそも俺たちがここに来る事になった経緯は、『美月荘』にキャンセルが出て冬也さんが安く泊めてくれると言ったからだ。キャンセルが出た理由……冬也さんが気にならなければと前もって念を押した時、誰も反対はしなかった」
杏子に口止めし、鳥羽山が意味ありげに言った良くない噂。
「『人喰い湖』の噂、秋本のヴィジョンが裏付ける事になったようだな……それに、この騒ぎだ」
「素材として、面白そうだと言ったのは須刈だぜ? っと、俺も賛成したけどさ」
きまり悪そうに佐野が苦笑すると、アキラが肩をすくめた。
「ここ数年の間に『秋月湖』で四人の死体が上がり、それら全てが見るも無惨な姿をしていた事から『秋月湖』は『人喰い湖』の噂を立てられるようになった。観光客は減り、犠牲者が立て続けに出た近くの小さな村は住民が気味悪がって移住し、廃村……。冬也さんの話を聞いた時点では、そんな曰く付きの場所が興味深くもあったし、はたから信じちゃいない妖怪やら化け物やら噂の真相を確かめたくもあったが……考えを改めるべきかなぁ。秋本の見た蟲の塊とやらが、例の伝説の妖怪『魄王丸』なんだろうか?」
「それは、違います」
確信を持って、きっぱり言い切った遼にアキラは意外そうな顔をした。
「えっと……じゃあ何だ?」
「人喰いの嫌疑を、『魄王丸』に掛けられてはかなわない。あれは『蜻蛉鬼』が仕業だと、秋本遼は既に気付いている」
低く静かな声が、明確な言葉となって頭に響いた。
「轟木……先輩?」
遼が目を向けた先で、轟木彪留が微笑む。
「邪気に囚われた篠宮優樹の肉体が、あの時、血に汚されずに済んだのは秋本のおかげだな。間に合わないかと思ったが、感謝せねばなるまい。危うく手遅れになるところだった」
「何を……言ってるんですか? 手遅れって、優樹がいったい……」
「あの強い『気』を持つ男、日下部との戦いで解っただろう? 篠宮の身中に在る破壊の衝動、そして底知れぬ力を。お前が止めていなければ篠宮は男を殺し、血に染まった心と身体は邪気に支配されていただろう。そうなれば既に人にあらず、猛り狂う悪鬼と化す」
「悪鬼……」
轟木の言葉に、遼は息を呑んだ。
「いずれ、このままでは済まない。篠宮が自らを制御できるようになるまで、他の力に振り回されないように気をつけろ。秋本遼、お前は篠宮の力を抑えられる……決して側を離れるな」
一方的に言い放つと轟木は窓際を離れ、部屋を出ようとした。
すると突然、アキラが行く手に立ち塞がった。
「待てよ彪留……お前、何か知ってるな? 思わせぶりな事を言ってないで、ちゃんと説明して貰えないかなぁ。返答次第じゃ……このままで済まないのは貴様の方だ」
アキラが怒っている。
感情を顕わにした姿を、遼は初めて見た。
飄々として捕らえどころが無く、しかし達観した物の見方で肝心な時には助け船を出してくれる。的を射た助言をして立ち入らず、常に距離を置いて見守っているような所があるアキラが、剥き出しの怒りを轟木に向けているのだ。
「須刈を怒らせるとヤバイぜ、轟木。こいつは陰険な性格だから、潰したい相手に対して裏から仕掛けてくるんだ。厭だぜ、俺は……二人が仲違いするのを見るのなんか。大事な友達だからさ、須刈も轟木も……」
ぽつりと佐野が呟き、気勢を削がれたアキラは収まらない表情ながらも轟木から一歩身を引いた。
微塵の動揺も見せず、轟木はアキラに目を向ける。
「己の目で見た物しか信じないのが人間だが、真実を知らねば疑念から妄想の怪物を生み出すも、また人間。いいだろう、『魄王丸』と『蜻蛉鬼』について私が知りうる事を話そう。『秋月島』の伝説は知っていると思うが、『蜻蛉鬼』という化け物について聞き及んでいるか?」
険悪な雰囲気になった三人の先輩を、ただ呆然と見ていた遼は我に返りスケッチブックを手に取った。
「『秋月島』の別名、謂われとなった伝説でしたら僕から話します」
スケッチブックを開き、美月から聞いたもう一つの伝説を語ると神妙に耳を傾けていたアキラが訝しそうに轟木を睨む。
「……ここに来る前から解っていたのか、彪留? お前が伝説や古い謂われに興味を持っていると知ってはいたが、調べたのか?」
「……まあ、そんなところだ」
「何故、黙っていた」
「面白い事を言う……得体の知れない化け物の存在を教え、気を付けろと警告すれば良かったか? 誰もが一笑するだろう、違うか? 現世の人間達は魑魅魍魎、妖怪変化の類など既に信じてはいない。神仏でさえ、形の上で敬えども信仰はない。森羅万象の霊力を蔑ろにし、意のままにならない物はないと思い上がっている……。ただし、秋本遼は別だ。妙な力を持っているために関わらずには、いられなかった」
思わず遼は、目を伏せた。奇妙な威圧感から、轟木を直視する事が出来ない。
「だからって、なんで篠宮があんな事になっちまうんだよ? 『蜻蛉鬼』って化け物は、俺たちに殺し合いでもさせようってつもりなのか?」
佐野の言葉に、優樹の身体がびくりと反応した。
自分がやろうとした事を思い出したのだろう、握りしめた両拳が小刻みに震えている。痛々しく包帯の巻かれたその手に、遼は自分の手を添えた。
「『魄王丸』に、もう少し時間があれば『蜻蛉鬼』を完全に滅する事が出来たのだ」
「時間……?」
落ち着きを取り戻したアキラは再びベッドに腰掛け、轟木を見上げた。
「この国に限らず、古来より多くの民が集い暮らし長く栄えている国は、聖獣に守られている。国によって呼び名や役割は様々だが、信仰の方向性は概ね同じだ。倭の国では大陸から伝来した方位学に倣い、『四獣』に例えているが」
眉をひそめ顔を見合わせたアキラと佐野のために、遼が説明を買って出た。
「風水方位学の、天上東西南北の四方位ですか? それぞれの守り神は……確か『青龍・白虎・玄武・朱雀』……」
「彪留は『魄王丸』ってヤツを、その有り難い守り神様だと言いたいのか?」
普段、茶化す物言いの多いアキラが、事の深刻さを認めたのか真面目な顔で問う。
遼は落ち着いて、記憶を巡らせた。
「実は……この場所に来る途中、優樹を探しに出たときに僕と優樹は白い獣を見たんです。轟木先輩の言葉を借りるなら、その獣は『白虎』と称するに相応しい姿をしていました。全身は銀白色の毛皮に覆われ、サーベルのような牙を持ち、双眼は赤みを帯びた焔色に輝いていた。頚から背中にかけ黄金の鬣をなびかせた、神々しいほどに美しい獣でした……」
「然り、『魄王丸』は『白虎』とも『雷獣』とも呼称されていたからな」
笑みを浮かべた轟木にアキラは、少し不愉快そうな顔になる。
「『魄王丸』が守護神『白虎』なら、なぜ『蜻蛉鬼』と戦って勝てなかったんだ? 轟木と秋本の話では、湖の底に封じられた妖怪は再び悪さを仕掛けているようだが、俺たちは守ってもらえないのかねぇ?」
「悪いが、それは出来ない相談だ……彼らは、およそ百年から二百年の周期で宿縁を持つ依代を介し現世に顕現する。そして人としての生を全うする間、災厄を見守り、時には民の手助けをするのだ。だが現世は『魄王丸』の時代にあらず……依代なき時代に存在は許されず、すなわち手を貸すことは出来ない。『蜻蛉鬼』と戦った時、京の戦乱を収めるため『魄王丸』は力尽き掛けていた。尚かつ依代たる者を失い、守りを替わる時を待っていたのだ。しかし、一人の女の命を賭けた願いが『魄王丸』を動かした」
「園部の姫君……美那様のことですね」
その時代を生きていたかのように語る轟木に疑問を抱きながらも遼は、この容易に信じ難い物語を受け入れ始めていた。
いつもと変わらない思慮深く穏やかな表情の轟木だった。だが、その言葉には逆らいがたい重さがある。
「美那の願いを聞き届け『魄王丸』は最後の力を貸したが、無念にも『蜻蛉鬼』を滅するに至らなかった。どうにか湖の底に封印したものの、永き時を抑えるには霊力の強い法師に頼み念を込めた像を祀るしかなかった」
「『魄王丸』に時間と力が不足していた理由はわかったけど……『秋月島』の祠には、ちゃんと仏像が祀ってあるじゃないか」
首を傾げた佐野に、遼が答える。
「管理を任されていた神社の宮司さんが亡くなって、盗難防止のため暫く村役場に置かれていたそうです」
「恐らくそれも必然に成されたのだ。宮司の死、仏像による結界の消失……そして『蜻蛉鬼』は、力の源たる怨念を得て甦ろうとしている。人肉を喰らい、力を蓄え、やがてその姿を現すだろう」
轟木が目を向けた窓の外は、どんよりとした暗い色の雲が重いカーテンのように垂れ込めている。
そよとも吹かない風に木々は沈黙し、小鳥のさえずりさえ聞こえてはこなかった。
重苦しい沈黙を破り、優樹が口を開いた。
「そいつは何をしようとしている? 怨念の源って、いったい何だ?」
途端、張りつめた空気が一気に部屋を満たした。肌が粟立つほどの、ぴりぴりとした緊張感が遼を襲う。
驚いて優樹に目を向けると、その身体を青白い焔が取り巻いているように見えた。
だが一瞬のうちにその焔は弾かれ、空気は元に戻る。
錯覚……か? それとも何かを意味する、ヴィジョンだろうか?
「我には言えぬ……ある意味、責は我にあるのだからな。秋本遼に、聞くがいい」
ドアに向かった轟木を、もう誰も止めることは出来なかった。




