〔1〕
島に渡る時に感じた心地よい風が、何故か今は、粘り着くような不快な湿り気をもって肌に絡みついてくる。
それは自分の気持ちから来るものなのか、大気の流れによるものなのか判断する気も起きない。
篠宮優樹はボートの舳先で、澄み渡る湖面を泡立てながら後ろに流れてゆく波を見つめ小さく溜息を吐いた。
なぜ、あんな言い方をしたのだろう? らしくないのは自分の方だ。
美月を疑う遼の発言に、今まで感じた事の無いほどの胸を圧迫する不快感が湧き上がった。
友人のために怒る事はあっても、自らに関わる理不尽な出来事には常に怒りを抑え込み、感情として表に出さないように勤めてきた。ましてや遼の言葉に対して不信感を露わにするなど考えられない……。
ちらりと、後部シートに杏子と並んで座る遼を盗み見た途端、いつになく険しい表情で見つめ返され優樹は慌てて顔を背けた。
この旅行に来る前から、遼が何か悩み事を抱えているような気がしていた。いつでも相談してくれればいいと思う、力になりたいと思う。
なぜ、何も言わないのだろう? 隠さなければ、ならない事なのか……?
そんな苛立ちから出た言葉かも知れず、子供のように拗ねている自分が厭でたまらなかった。
頭の回転が速く、常に冷静で分析力に長けている遼の、ある意味自己完結した雰囲気が羨ましいと思う。直感で行動し、強引に結末を導き出す自分とは違う人種だ。
単純思考の自分に話しても、無駄だと思っているのだろうか?
一瞬、浮かんだ考えを、優樹は慌てて否定した。
遼は、絶対そんなヤツじゃない。何かしら理由があると思いながらも、胸の内全てを明かしてくれない事が寂しかった。
岸辺が近付き、ボートは速度を落とした。
優樹は、まだかなり距離が開いているのをものともせず桟橋に飛び移り、美月から舫綱を受け取る。
「私は仕事があるから、これで失礼するわね。……遼君は本当に大丈夫? 部屋で休んだ方が良いと思うけど」
「いえ、お昼までは時間がありますから、暫くここでスケッチしています」
笑顔の美月に、感情を抑えて返答する遼を見ればなお、胸に苛立ちが湧き上がってくる。
「そう……空も晴れてきたし、きっと良い絵が描けるわ。優樹君は?」
「俺は……午後から冬也さんと林道に行くから、バイクの給油とメンテ、やっとくつもりです」
「それじゃあ、またお昼にね」
手を振る仕草で微笑むと、美月は背を向けた。
優樹は、そのまま立ち去る事が躊躇われて遼に向き直る。
何か言いたかった。だが、何を言えばいいのか解らない。
「あのさ、遼……島で言った事なんだけど……」
自分に隠している事があるのではないかと、問い質したかった。二人の間の空気を読んで、杏子が居心地悪そうに身動ぐ。
「あたし、ケーキが出来たか見てこよっと! じゃあ遼君、テニスの約束忘れないで……」
言いかけた言葉が、止まった。
「ねえ、ちょっと……何だか美月さんが困ってるみたいだよ」
杏子が指さした方に優樹が目を向けると、鳥羽山が嫌がる美月の腕を掴んで絡んでいるのが見えた。
「助けて! 優樹君!」
美月の声を聞いた刹那、優樹は駆けだしていた。
背後で遼が何かを叫んだ気がしたが、言葉として意識に届かない。
「その手を放せ!」
怒気を抑えた低い声に鳥羽山は、一瞬ひるんだそぶりを見せたが、すぐに優樹を睨め付けると鼻を鳴らして笑った。
「なんでぇ、昨日のガキじゃねぇか……てめぇの出る幕じゃねぇんだよっ! 俺はなぁ、このお嬢さんに島に渡りたいって頼んでるだけなんだ、引っこんでなっ!」
「美月さんは嫌がっている」
優樹が足を踏み出すと、鳥羽山は美月を掴んだ腕を放した。
「ははぁ、ヒーロー気取りか? こちとら客だぜ、宿主は客の希望に応えるモンだろっ? サービス業なんだしなぁ……。それでなくても、この湖は最近良くない噂があるって聞くじゃねぇか。これ以上、客足が遠のかないようにサービスしといた方が得だと思うぜ?」
「貴様には必要ない」
「生意気なガキだなぁ……昨夜のようにいくと、思うんじゃねえぞっ!」
「だめだっ! 優樹!」
遼の声が、遠くに聞こえた。
手を出すつもりはない。昨夜のように体裁きでかわし続け、相手の戦意を失わせるつもりでいた。
だが身体が無意識に動き、ずしりと、自分の拳が鳥羽山のみぞおちに食い込む重い感触。
「……っ、がっ!」
ヒキガエルのような押しつぶされた叫びを漏らし、目を剥いた鳥羽山は前のめりになって優樹に覆い被さった。
慌てて後ずさると、その身体は音を立てて地面に突っ伏す。
「俺は……」
なぜ? そんなつもりはなかった。
遼が止める声を、いらぬ世話だと聞き捨て鳥羽山が下から繰り出した拳を斜めに肩でかわした瞬間、意識が飛んだ。
そして、猛々しい感情の渦が波となって押し寄せてきたのだ。肉に食い込んだ拳の先から一瞬、脳裏をかすめた感覚は……。
まさか……そんなはず、無い……。
自分の拳を見つめ、優樹は呆然とする。
紛れもない、それは陶酔感だった。




