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私立叢雲学園怪奇事件簿【第二部 魄王丸編】  作者: 来栖らいか
【第三章 衝動】
21/42

〔8〕

「郷田君は元々この近くの出身なんだけど、自分の小さな洋食屋を持つのが夢だと言って高校を出てからすぐに東京の調理師専門学校に入ったわ。だけど学校を出て二年ほど大きな店で修行したら、結局、生まれ育った土地で働きたいって帰ってきちゃったの。それで『美月荘』のシェフとして働くようになったんだけど……」

 美月は、しめ縄を持ち上げると下を潜り、祠の前に屈んで両手を合わせた。

「郷田君が帰ってきて半年くらい経った頃、東京の同じレストランで働いていたという女の子が『美月荘』で働かせてくれって訪ねてきたの。その子は郷田君を好きになったから、追いかけてきたんだって。私とは正反対の、積極的で明るい、とても可愛い子だった……。最初は迷惑がっていた郷田君も、そのうち彼女に好意を寄せるようになって一年もしないうちに婚約する事になったわ」

 突然、話に聞き入る遼の背に、ざわりとした厭な感触が走る。

 その感触に、覚えがあった。

 美月から島の別名を聞き、揺らめく瞳の中に影を見た時、感じたものだ。しかし何故、今その感触を思い出したのか? 

 また、何かが見える前兆なのか……? 

 美月の細い肩から背にかけて、弱々しい女らしさとは別の強い気が感じられた。それは言葉にする事が、はばかられる気だった。

「……ところが婚約から数日後、突然彼女は姿を消してしまった。山で事故にあったか熊に襲われたのかもしれないと、近隣の村人総出で捜したけれど見つからず、警察に頼んで山狩りしても見つけられなかった。実家や友人の所にも連絡はなく、突然気が変わって婚約から逃げ出したという人もいたわ……でも一週間後、この洞窟の前で彼女は見つかったのよ。半身を食いちぎられたような無惨な姿で……」

「いやっ!」

 杏子が、口元を押さえて小さく叫ぶ。

「熊に襲われた後、どうかして湖に落ちた遺体がここに打ち上げられたのだろうと警察は結論を出したわ。だけど地元の猟友会で熊撃ちをしている人は、熊にやられたのではないと言うの。ではいったい、何があったのかしら?」

 ゆっくりと立ち上がり肩越しに振り返った美月の顔は、洞窟の暗闇を背景に白く冷たく浮かび上がって見えた。

 それはまるで生気のない蝋人形のような表情に思えたが、遼に向けられた瞳の中にはまた、妖しい影が揺らめいている。

「まさか『魄王丸』が? あ、でもさっきの話だと『蜻蛉鬼』に喰われちまったってことかな?」

 謎をかけられて、素直に答える優樹を美月が笑った。

 途端に影は姿を消し、優しい面差しの表情が戻る。

 優樹の言い方が気に入らないのか顔をしかめた杏子も、その変化に気が付いていないようだった。

「そう言う人もいたけど、伝説の獣に襲われたなんて誰も信じないわね。それに湖にはマゴタロウムシが沢山いるから、むしろマゴタロウムシのせいかもしれないと言う人もいたし……」

「マゴタロウムシ?」

 怪訝そうに遼が問い返すと、優樹が得意そうな顔で代わりに答えた。

「ヘビトンボの幼虫だよ。ヘビトンボはトンボじゃなくて蜻蛉の仲間なんだけど結構でかくてさ、丁度ヘビが、くっと鎌首もたげたみたいな頭の形をしてるんだ。マゴタロウムシも水棲昆虫の中では王様と呼ばれるくらいで、あの顎でガップリやられたら痛てぇのなんのって。肉食だから多分……」

「お願い、やめてっ!」

 杏子の悲鳴に吃驚して、優樹は口を噤んだ。

「ひどいよ、そんなの……。ひどい……」

 顔を覆い、座り込んだ杏子は声を殺して泣き出してしまった。

「……悪ぃ杏子、俺はそんなつもりじゃ……」

 隣に屈み込んだ優樹があやすように杏子の頭を撫でると、胸が、ちくりと痛んだ。

 遼と張り合って知識をひけらかした結果、杏子を泣かしてしまい焦る優樹を、いつもなら庇うのだが今日はそんな気になれない。

「それで……郷田さんは、どうしたんですか?」

 マゴタロウムシの話に興味はひかれたが、これ以上杏子を泣かせる話は避けたい。

 遼は美月に先を促した。

「郷田君は、ここにいるのが辛いからってフランスへ料理の勉強に行ってしまったわ。出発の日、私は郷田君に何年かかってもいいから帰ってきて欲しいと言った……彼は解らないと答えたけれど、また帰ってきてくれたわ。そして再び『美月荘』で働いてくれる事になった。嬉しかった……」

 寂しげに微笑んだ美月は、もしや郷田を愛しているのかも知れないと遼は思った。

 それならば、あの影の正体も納得できる。叶わぬ思慕の念が、妖しい影となって美月を取り巻いているだけなのだろう。

 今までも何度か邪念や情念を持つ人間の、黒い霞のような影を見た事があった。しかし、大抵それらは害のないもので心配には及ばない。

 遼は内心ホッとしていた。

 危うく疑うところだったのだ、美月の影に邪気が潜んでいるのではないかと……。

「その話、今の彼女は知ってるんですか?」

「優樹、これ以上立ち入った話は……」

 相変わらずの遠慮無い質問をする優樹に遼は慌てたが、意外にも美月は待っていたかのように笑みを浮かべた。

「及川さんの事ね? 彼女は大学のテニスサークルで『美月荘』に来てから、すっかりこの湖が気に入って夏休み事にアルバイトに来てくれるようになったの。だから当然、噂話は耳に入ったわ。郷田君が帰ってきてからは同情心で色々世話を焼いていたらしいけど、いつしか彼は及川さんを心の支えにするようになった……」

 美月が言葉を切った途端、ざわりと、湖の波立つ気配がした。

「なぜ……私ではダメだったのかしら? 私なら、彼のために何でも出来るのに……私が一番、彼の事を解っているのに。彼に必要なのは……あの女じゃない」 

 美月は質問をした優樹ではなく、真っ直ぐ遼を見つめている。

 目を逸らすことが出来ず身を固くした遼の足下に、ザワザワと何かが集まってくる。

 息を飲み、下を見たが何も見えなかった。

 しかしそれは、ふくらはぎから膝へ、腿から腰へ、背中から項へと、細い糸のように絡まり合いながら肌を這い登ってくるのだ。

 ちりちりと、皮膚が焼けるような感覚。

 目に見えない数多の蟲が表皮を食い破り、身体の奥深くへ入り込もうとしている。

 意識が擦れ、指一本動かす事も出来なかった。

 助けを求めようにも喉がざらつき、声も出ない……。

「遼!」

 鋭い声が発せられた瞬間。邪気は霧散し、掻き消えた。

「優……樹」

「遼、大丈夫か? 急に人形みたいに固まって、見る間に顔が真っ青になっちまったから……何か、見えたのか?」

 気付けば、優樹の腕が遼の身体を抱きとめていた。つい先ほどまで感じていたおぞましさは微塵もなく、暖かな安堵感が全身を浄化していく。

「違う……んだ……優樹」

 やはり、あれは邪気だ。

 しかも得体の知れない、強い力を持っている……。

「ごめんなさい、やはりここに来るべきじゃなかったわ。遼君、体調が悪そうだったのに……」

「いえ、僕が来たいと言ったんです。お気遣い、いりません」

 疑念の意思を込めた睨む様な視線を、美月はするりと外して優樹に向き直った。

「もうお昼になるわ、そろそろ帰りましょう。下りる時は簡単だけど、この崖を登るのは少し大変なの……優樹君、手を貸してくれないかしら?」

「あっ、はい!」

 踵を返し下りてきた岩場に向かう美月に先立つため、優樹が走り出そうとした。

 が、その腕を遼が掴む。

「あの人に……近付いたらダメだ、優樹。美月さんには、何かが取り憑いている」

 優樹は怪訝そうな顔で振り返り、掴まれた腕を振りほどいた。

「さっきの言い方もそうだけど、なんか、らしくねぇよ……遼。おまえ、やっぱり疲れてるんだよ昨日の事で。美月さんを、そんな風に言うのは厭だな」

「……優樹」

 全身に、冷水を浴びたような衝撃が走った。

 信じてくれないのか? 僕の言う事を?

 目に見える証拠は何もなく、説明する事は難しい。それでも優樹は、遼の言葉を迷うことなく信じてくれると思っていた。

 先に崖を登り、美月の腕を取って引き上げる優樹を霞のような邪気が取り巻いている。

 今はまだ、優樹の気に弾かれ遠巻きに漂っているが、付け入る隙を狙っているのが解った。

 崖を登り切り、美月が遼を見て微笑んだ。

 湧き上がる怒りにも似た気持ちで唇を噛む。

「あたし達も行こっ! 遼くん……遼くん?」

 杏子の声が、遠くから聞こえるような気がした。

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