〔1〕
都を離れ、この里に来てもうどれほどになろうか。
庵の周りを、涼しげな美しい若葉で彩っていた楓、錦木、紙八手、柊、銀杏は、葉を落とし頼りげない幹を寒空に晒すようになり、代わりに燃えるように色づいた紅葉が恐ろしいほどの緋色で山々を覆い尽くす。
「この緋き色は我が心。燃えたぎる我が血潮。戦えぬ、この身を呪う我が焦り……」
園部兼光は傷まだ癒えぬ右足に血の滲むほど爪を立て、口惜しさに歯噛みした。
時は応仁元年。京の大飢饉の後に始まった大乱これを、応仁の乱という。兼光の父実光は東西に分かれて戦う両軍のうちの西軍、山名宋全に味方し東軍の細川勝元と戦う大名の一人であった。
そして六月八日の一条大宮の戦いに父に代わって赴いた兼光は、山名教之の下、赤松政則の勢に敗れ深手を負ってしまったのである。まだ二十三歳という若さ故、傷の治りは早い。
だがどうにもこの右足が思うように動かないのだ。
八月下旬になって周防の国の大内政弘が入京し、西軍は優勢になりつつある。今こそ総力を結集し、一気に東軍を攻め潰さねばならぬ時なのに。
「兄上、そろそろ風が冷たくなってまいりました。中にお入りにならないと」
「ああ、美那か」
柘植の垣根越しに顔を覗かせた妹が目に入ると、兼光は先ほどまでの厳しい顔を途端にほころばせた。
兼光の兄弟は七人。上に姉が一人、下には弟が一人と妹が四人いる。美那はその一番下の妹で、今年十五歳になったばかりであった。今は兄の身の回りの世話のため、この庵に一緒に住んでいる。
「そういえば今夜、柏原殿が戦局を報らせに来られるはずだな。どうりで美那も楽しげにしておるわ」
「いやですわ、兄上ったら」
からかうように言うと、美那は顔を赤らめ小走りに庵へと戻っていった。
その夜、暮六ツ半頃になってようやく義時がやって来た。
柏原義時は園部の家老衆の中でも一番の力を持つ柏原正義の一人息子で、兼光よりも一つ上の二十四歳。武勇誉れ高く目もと涼しき好青年であった。
正義が年老いてからの初めての男子で、その可愛がり方が尋常ではなかったため回りの者達は心配したが、主君である園部実光が幼き頃より自分の子のように可愛がり、文武ともに我が子兼光と競いあわせてきたために自分に厳しく実直な、下の者に慕われる人物に育った。
二人は兄弟のように仲がよく、又、深い信頼で結ばれているのだった。
その義時と美那が恋仲にある事など、兼光はとうに気付いていた。少し前に父、園部実光が見舞いに来た際そのことを話すと、実光も喜んで二人を夫婦にする約束をして帰ったのだ。
「山のはに いさよふ月を いつとかも 我が待ち居らむ 夜はふけにつつ」
「月待ち酒といったところですな、兼光どの」
義時は、そう言って笑うと盃を干す。
「近ごろ兄上は歌に凝りだして、事ある毎に万葉など引用するのです。それはいいのですけれど、ご自分では詠まれず私に詠めなどと……」
美那は義時の盃に酒をつぎながら困ったように笑った。
一通りの話を聞いてからのささやかな宴である。代わりばえのない戦局に話しはすぐに済んでしまい、帰ろうとする義時を引き留めて兼光は酒を勧めた。
退屈を紛らわすためでもあったが、つい先日、都より来た使いの者より聞いた噂話が気にかかり、事の次第をこの男ならば知っていようと思い立ったからである。
「されど、いくら歌を詠んだとて心は休まらぬわ。武士の性ともいうべきか、戦が恋しゅうてならぬ」
「いやですわお兄さま、戦は人が沢山亡くなります。わたくしはもう……」
「やれやれ又泣かせてしまったか、どうも美那は甘えん坊で困る。母上や姉上達ならば、どんどん戦をして出世なさいませとおっしゃられるのだが」
「美那殿はお優しいのです。御仏のように慈愛に満ち、美しくいらっしゃる」
義時の言葉に顔を赤らめながらも、目を反らさず見つめあう二人に兼光はすっかり毒気を抜かれてしまった。
「ところで、義時殿」
気を取り直すため兼光は盃を干す。
「都では昨今、良からぬ噂が横行しているようだが」
義時の顔色が、さっと変わったのに確信を持ち、さらに兼光は言葉を継いだ。
「黄金色の鬣を持つ恐ろしい化け物が、夜毎現れ人を喰らうと」
「そのような噂、いったい何処で耳にされましたか」
義時は一笑する。
「ただの噂にすぎませぬ。もし興味をお持ちならばお話ししますが、美那殿を恐がらせては……」
「ほう、それは面白そうだな。どうだ、美那。そなたも一緒に話を聞こうではないか」
「私、お酒を用意してまいります」
美那はみるみる蒼ざめると、逃げるように席を立った。
「ははは、あの様子では当分もどっては来ぬな。では聞かせてもらおうか。この噂、噂にあらず、なのであろう」
「……実はそのことについて、申し上げるべきか否か思い悩んでいる事がございますれば……」
「なんだ、申してみよ」
眉を曇らせ口ごもる義時を兼光は即す。
「その化け物、都では魄王丸と呼ばれ、その姿を目にした者はすべて恐ろしさのあまり石になると言われております。されど未だかつて姿を見た者はおらず、従って石と化した者もおりませぬ」
「では、ただの噂だと申すのか」
「大方、戦にて討ち死にし、打ち捨てられた雑兵の死体を野犬どもが食い荒らした後を見て、その余りの酷さに化け物の噂が立ったのに相違なく思われるのですが、ただ……」
義時がこの様に言葉を慎重に選ぶときは、決まっている。
「その事について、父上が何か申されたのだな」
「はい。度重なる戦で都は荒廃し、人々の心もすさんでおります。中には逆恨みから敵味方の区別なく一人になった兵を殴り殺す者まで現れる始末。そこでお館様はどうすれば我が方の兵がそのような不始末に遭わずに済むかお考えになり、化け物退治を家臣に御命じになったのでございます」
「ううむ、確かにその魄王丸とやらを仕留めたならば、人々の心はこちらに好意的になり都合も良い。しかし……ただの噂話とあっては、いい笑い者となりかねんな」
「噂の真意を確かめずに討伐を命じられるのは如何な物かと、父上共々御諌め申し上げたのですが……倉田殿が是非にと話しを勧められて」
「倉田が、か……」
倉田秀剛は柏原正義に次いで園部実光が信頼する家臣である。しかし兼光は幼き頃より倉田を信用できぬ者と嫌っていた。
それは倉田の必要以上に媚びへつらう態度や彼の母に対するなれなれしさと、そんな時の嬉しそうな母の顔を見てきたことに起因する。
「あの狢めが、きゃつは表の顔で正論を論じ、裏の顔で奸計を弄する」
苦々しげに兼光は吐き捨てた。だが真正直な戦い方しか知らない父、実光の危機を、その知恵で救っていることも確かである。
「して、その化け物退治を任された運のない御仁とは」
「わたくしめに、ごさいます」
「な、なんと」
兼光は驚きの余り腰を浮かしかけたが、事なげな義時の様子に気を取り直し、居ずまいを正すと深くため息をついた。
「父上もいったい何を御考えなのか……今、戦局が落ち着いているとはいえども、近く戦が始まらないとは限るまい。その様な時に……」
重要な戦力の義時を、戦線から外すなどとは考えられない事である。
「御館様の御決めになった事で御座います、喜んで化け物退治にまいりましょう。ただ、私の不在の間、くれぐれも倉田殿の動向に御気を付け下さいませ。私を討伐隊長にと御館様に御進言なされたのは、倉田殿なのです。杞憂で済めば良いのですが、どうもいやな予感がしてなりません」
「あいわかった……しかし、そなたはどうするつもりなのだ。居もしない化け物退治などに行って、まさか手ぶらで帰るわけにもいくまい」
「私はせいぜい山の主のような大狢を捕らえて、倉田殿に献上いたしましょうぞ」
「おお、それは良い考えだ」
二人は顔を見合わせ笑った。その笑い声を耳にしてか、奥から美那が恐る恐る顔を出す。
「恐い御話しはもうおしまいですの?」
その様子にまた、二人は明るい笑い声を立てた。
義時の討伐隊が化け物の棲む山と噂される近江の山中に向かったのは、それから十日ほど後の事である。
その途中、義時は道のりにある兼光の庵に立ち寄った。
「さても心許ない一行ではあるが……」
兼光は、庭の紅葉が美しい池のほとりに敷物を敷き、義時を頭にわずか十人ばかりの討伐隊に酒を振舞った。晩秋の珍しく暖かな陽光と涼やかな風は、気持ち良く酔いをまわらせる。
一行の顔ぶれに不満を隠しきれない兼光をよそに、義時は上機嫌で杯を重ねていた。
「私の刀と槍の腕、その上に弓の名手の佐々木が居れば、山賊など恐るるに足りません」
「しかし、後の連中は金で雇われた足軽ではないか。これから向かう鈴鹿方面は確かに我が軍の勢力ではあるが、敵の斥候にでも出会ったら当てにはならぬぞ」
「御心配召されるな。あの辺りの土地は、私が幼き頃より父上と共に狩をしたところ……いわば庭のようなものですから、どんなに細い獣道さえ知っております。かなわぬ相手とあらば、見つからぬよう避けて通りますゆえ」
「されど……」
「それにあの者どもは、罠を仕掛ける名人ばかり」
どうやら義時は、本気で狢狩をしてくるつもりらしかった。
いずれにせよ戦いが始まれば、実光はすぐに義時を呼び戻す事になろう。兼光が案ずるまでもないのかも知れない。
「まあ良い、くれぐれも気を付けて行くのだぞ。だがしかし、随分と嬉しげにして居るのはどういう訳か」
「は、いやこれは………」
義時はさっと顔を赤らめると、酌をしている美那をちらりと見た。
「ほう、なるほどそうか。父上よりお許しがでたな」
「はい、化け物退治は切りよく引き上げ、祝言をあげるようにと」
どうやら実光も、このもくろみを体面のためと見ているにすぎないらしい。兼光は安堵した。
「それはめでたい事よ。では今宵は前祝いといくか」
秋の日は早々に落ちようとしていた。
翌朝早く、まだ夜の明けきらぬうちに義時一行は兼光のもとを発っていった。その日は朝靄と言うには余りに濃い霧が立ちこめ、隣に立つ者の顔さえはっきりとしないほどであった。
「せめて霧が晴れてからお出かけになればよろしいのに」
「なんだ、美那。そなたそれほどに名残惜しいのか」
兼光は瞬く間に霧にまぎれ見えなくなった義時を、この可愛い妹は何時までも見送っていたかったのだろうと解釈した。しかし翳りのある美那の表情は、ふと不安を抱かせる。
人は幸せの中にあると、悲観的に物を考えることで我が身を守ろうとする。万が一の心構えと考えれば仕方のない事であろうが、危険を伴う事態が起こりうるとは思えない……。
(されど……愛しき者に関しては、女は格別感が働くと言う……)
この霧が晴れれば、不安な気持ちも共に拭い去られるだろう。兼光は、朝霧にぬれた美那の肩を優しく抱くと、庵に足を向けた。
しかし、期待を裏切るかのように霧は真綿のような帳をあげる事なく、濡れて漆のように輝く紅葉が色あせる頃……。
義時が、人とは思えぬ無惨な姿となって還ってきたのだった。