〔5〕
苔むして、所どころに地下水が滲みだす石段は、風雨に浸食され足場の悪いところも多かった。
滑りやすさに気を付け、最上段まで登り切ると湖を一望できる平らな場所になる。
そこには古めかしいが小綺麗な祠が、墓石のような石碑と並んで建っていた。
「この祠に、昨日話してくれた姫君が祀ってあるんですか?」
遼が美月に尋ねると、杏子が興味深そうに祠を覗き込んだ。
「あたしもちょっと聞いたよ、『魄王丸』と姫君の話でしょう?」
「……『はくおうまる』?」
あの白い獣を連想したのだろう、高台で湖を眺めていた優樹が怪訝そうな顔で祠に近付き、素早く遼に目配せした。
「そうよ……祠には姫君の遺髪と菩薩像が祀ってあるわ。菩薩像は数年前まで近くの村で宮司さんが管理してたんだけど、その方が亡くなってから湖で立て続けに事故があったの……。そうしたら祟りだとか呪いだとか大騒ぎになって、結局、湖に祀った方が良いという事になったのよ。まあ今時、迷信を引き合いに出して大騒ぎするのも可笑しいわよね。でも不思議な事に菩薩像を返してから事故はなくなり、『美月荘』が役場に管理を頼まれる事になったの。何でも有名な仏師が制作した物らしくて、国宝級という噂もあるぐらいよ」
「えっ、じゃあ、こんな所に置いといて盗まれたら?」
謂われよりも菩薩像に興味を引かれた優樹が、感心の様子で祠を眺めると美月が笑った。
「大丈夫よ、扉には頑丈な鍵が掛かっていて簡単には壊れないし、祠ごと持ち去るのは起重機がなければ無理。それにボートがなければ此処までこられないわ。国宝級の噂も、真偽の程は定かではないようね」
「なぁんだ、それほどたいした物じゃないのか」
一喜一憂する優樹の単純さに呆れて、遼は苦笑した。
「この石碑は? 何か書いてあるようですね?」
「これは『魄王丸』を祀ってあるのよ。何が書いてあったかは、役場の資料室に行けば記録があるかも知れないけど……私には解らないわ」
美月は手にした小箒で祠の埃や蜘蛛の巣を払い、ポリタンクの水を石碑に掛けてブラシで苔をそぎ落とす。
「『魄王丸』って、悪い妖怪だったんでしょう? 事故の原因は、『魄王丸』の祟りだったんですか?」
いつの間にか杏子が手伝って、祠の周りの草を抜いていた。
「あら、ありがとう杏子ちゃん。……そうね、どちらの『魄王丸』が本当の姿か今となっては解らないんだけど、良い妖怪だったという説もあるのよ」
「……もう一つの、伝説ですか?」
遼がスケッチブックを開くと、美月は手を止めた。
「父さんから話が聞けた?」
「いえ、昨夜は色々あったから……」
緒永満彦から詳しい話を聞くつもりが、招かれざる客の為に時間がとれなかった。
横倒しに近い格好で車道を十メートルほど滑り落ちた日下部のステップワゴンから、相当の大きさがある骨董品を運び出すのに結局、冬也だけでなく満彦も駆り出されたからだ。
遅くまで荷物運びに手こずる姿を見かねてアキラや佐野が手伝いを申し出たが、満彦にはもちろん、日下部からも丁重に断られた。
「他人を見掛けで判断するなって、おまえはよく俺の事を怒るけどさ……あの日下部ってヤツは嫌いだな」
遠慮がちな呟きを聞き取って遼が向き直ると、優樹は決まり悪そうな顔をした。
「いいんだ、僕も彼等は嫌いだよ」
「えっ? あっ、そう、そうか?」
らしくない返答に戸惑っている優樹を無視して遼は、スケッチブックに書かれた『蜻蛉鬼島』の文字を美月に示す。
「聞かせてくれませんか? この意味を」
「……私が知っている事で良かったら。」
美月は掃除用具をまとめると、石段を上りしなに摘んだ花を祠に飾り柏手を打った。
「昔……一四六七年、年号では応仁の時代に京都で大乱があったそうよ」
「『応仁の乱』ですね、足利将軍家管領、畠山・斯波両家の相続問題が切っ掛けで東軍細川勝元と西軍山名宗全が諸大名を巻き込み起こした戦乱……」
頷いて美月は、その時代に思いを馳せ言葉を探すかのように遠く視線を飛ばした。
「西軍・山名宗全に味方する大名、園部実光という領主は武勇誉れ高い二人の息子と美しい五人の娘を持ち、特に末の姫君、美那様は三国一の美しさと謳われ求婚する殿方が引きも切らず訪れたとか。……だけど美那様は心に決めた殿方がいらしたの。それが園部の家老衆で一番の力を持つ柏原正義の一人息子、柏原義時よ」
あっ、と、杏子が声を上げた。
「『魄王丸』退治に行って、死んじゃった人ですよね?」
「ええ、そうよ。『魄王丸』退治に行った義時は、半身を食いちぎられ人とは思えない無惨な姿で帰ってきたの。頭と左上半身しか残っていなかったのに、利き腕を噛み切られても尚かつ戦いを挑もうとしたらしく、数珠を巻き付けた左手は槍を握りしめていたんですって。弔いのために法師たちが引きはがそうとしたけれど、決して義時は槍を手放さなかった。その時、美那様が念珠を唱えて数珠を外すと、嘘のように指が開き槍が離れたと言われているわ……」
「……可愛そう」
涙もろい杏子が鼻を啜ると、美月は微笑んでハンカチを手渡した。
「それで、そのお姫様が敵討ちに行ったんだろ? 俺は以前、緒永さんから聞いたけど遼は知ってたか?」
「僕は昨日、美月さんから聞いたよ。……だけど結局、敵は討てなかったんですよね?」
優樹の言葉を受けて、遼は美月に返す。
「村役場の資料や、この地域の昔話ではそうなっているわ。仇討ちに行った姫は、しかし力及ばずに『我が身も愛しき人と同じように喰らうがいい』と叫んだが、獣はその美しさに心奪われ『そなたが我の物になるならば、二度と都は襲わない』と言った。心優しい美那様は悩んだ末に、自分と同じ悲劇を繰り返すまいと獣の申し出を受けることにしたと。そして仇と暮らす事を恥じ、遠く東の地に去っていった。この『秋月島』にある岩場の洞窟が、その場所だと言われているわ」
「信じられない! あたしなら絶対そんなヤツと一緒にいたくない!」
杏子が憤慨する姿に遼は少し驚いた。伝説としては確かに美しい話だが、生身の女性からすればあり得ない話なのだろうか?
『機会を見て寝首を掻くつもりだったのかも知れない』と言った美月の言葉を思いだし、今更ながら背筋に冷たいものが走った。
「厭な妖怪だな、弱みにつけ込んで女を……っと!」
その先を体裁悪そうに誤魔化した優樹を、美月が笑った。
「いま話したのが表向き言い伝えとされているけど、実は恐ろしい史実が隠されているとされるのが『蜻蛉鬼島』にまつわる、もう一つの伝説なの。こちらなら杏子ちゃんにも納得して貰えるかも知れないわね……」
『蜻蛉鬼島』にまつわる、もう一つの伝説。
呟いた美月の瞳に差した影を、遼は見逃さなかった。




