〔4〕
優樹と桟橋に赴いた遼は、緒永美月が一人でボートの用意をしているのを見て驚いた。
係留されている二〇フィートクラスのボートはフィッシングに利用する事もあると緒永満彦から聞いていたが、美月が操縦出来るとは思ってもみなかったからだ。
「あの……美月さんが操縦するんですか?」
遼の言葉に、美月が微笑む。
「あらそうよ? 私の操船では心配かしら?」
「あっ、いえっ、そうじゃなくて……冬也さんが操縦すると思ってたから……」
満彦が日下部の件で『美月荘』を離れられないと知っていたため、てっきり冬也がボートを出すのだと思っていた。それに美月は、ケーキ教室のアシスタントをしているはずである。
「安心していいわよ、ちゃんと二級小型船舶操縦士免許を持っているから。それに父さんや兄さんより、私の方が操船が上手いのよ? いつも社の管理に行くのは私なんだもの……ところで杏子ちゃんは、ケーキ教室に参加しなかったの?」
後ろで不機嫌顔の杏子に、美月は声を掛けた。
「……あたしはケーキ作りに興味ないんです。美月さんこそ、なんでここにいるんですか? ケーキ教室は、郷田さんと美月さんで教えてるんでしょう?」
「えっ? ええ……でも今は郷田君と及川さんに任せてあるの。私が二人の邪魔をしたら悪いものね」
そう言って微笑んだ美月が、心なしか寂しげに見えて遼は戸惑った。杏子の言い方に、気を悪くしたのだろうか?
「杏子ちゃん、そんな言い方したら……」
「だって……」
湖の散策を邪魔したのは優樹だが、もとはと言えば美月が中島に誘ったからだと八つ当たりしているのだろう。
あの時、杏子が言いかけた言葉を最後まで聞く事が出来なかったのは残念でもあり、しかし内心ほっとした気持ちもあった。
なぜなら自分は、物事を受け止めるのに時間が掛かりすぎる所があるのだ。考えすぎるうえに、覚悟が足りない。
「杏子ちゃんのご機嫌が悪いのは、きっとお天気のせいね? 晴れればもっと綺麗な景観を楽しんで貰えるんだけど……ごめんなさい」
「あっ、美月さんのせいじゃないんです……それに曇り空の風景、あたし好きです! そのっ、中島には行きたかったから楽しみだし……」
生意気な言い方を反省して杏子が取り繕うと、慣れた手つきで舫綱を纏めていた優樹が、からかった。
「なぁんだ、ふくれっ面してるから行きたくないのかと思ったよ」
杏子は上目使いで優樹を睨みつけ、大きく息を吸い込む。
「あ、の、ねえっ!」
「ちょっと待って!」
急いで遼は、間にはいった。
「頼むよ優樹。君はこれ以上、何も言わない方がいいと思う」
真剣な眼差しに何かを察し、優樹は怪訝そうに顔をしかめたが「わけ、わかんねぇや」と呟いて美月の後からボートに乗り込む。
ほっとして遼は、杏子に向き直った。
「杏子ちゃん……良かったら明日、またスケッチに付き合って貰えないかな? 明日なら晴れるかも知れないし」
「でも……あたしお喋りだから邪魔になっちゃうよ?」
「話し相手がいた方が、僕も楽しいから」
途端、杏子の顔が明るくなった。
「ホント? 嬉しい!」
遼は笑顔を返し、先にボートに乗り込んだ。だが杏子は、波に揺れるボートに乗り込むタイミングがつかめない。
「大丈夫? 僕に掴まって」
杏子は一瞬、躊躇ってから差し出された手を取った。
タイミングを計って引っぱると、ふわり、と飛び乗った女の子の軽さに驚く。髪が頬をかすめ、いつものシャンプーの香りがした。
今の遼には、やりたい事も、やらなければならない事も、心配事も数え切れないほどある。
その全てから逃げずに、覚悟を決める事が出来るか自信はなかった。それでも、杏子の気持ちは大切にしたいと思わずにいられない。
湖を渡る風は、若葉の香りがした。
普段の生活を海の近くで過ごしている遼にとって、異なる水の匂いを心地良く感じるのは初めての経験だ。
木々を揺らし湖を渡る風の匂いが、どこか懐かしく感じられるのは何故だろう?
生まれてこの方、高原に暮らした事など無いはずなのに、それは何か不思議な感覚を呼び起こした。
「ほら、『秋月島』の鳥居が見えてきたわ」
ボートは島の左に回り込んで、細く頼りなさそうな桟橋に向かっている。美月が指さす方向に目を向けると、岩場と林の間に赤い鳥居が現れた。
初めて見た『秋月島』は、黒くゴツゴツとした岩が集まった殺風景な場所に思えた。だが『美月荘』のある対岸から見れば木々が生い茂り、それなりに美しい場所である。
鳥居からは、頂の祠まで細い石段が続いていた。
慣れた操船で美月が桟橋にボートを寄せると、一足先に優樹が飛び降りて舫綱を結ぶ。
乗船時と同じように、遼は杏子に手を貸し桟橋に降り立った。
雲が少し切れて、薄日が穏やかに射し始めている。優樹を伺い見れば、やはり水場が落ち着くのか機嫌の良い様子で湖を眺めていた。
「風の匂いが違うけど、何だか懐かしい感じだと思わないか? すっげぇ気持ちいいや」
同じ事を感じていたのだと思うと、嬉しさと共に複雑な気持ちになった。
意味など特にはない。
同じ土地に暮らし、同じような生活をしていれば感じ方も似てくる。それだけの事だ。
感傷的になった自分を誤魔化し遼が微笑むと、明るく笑い返した優樹は掃除用具を抱えて石段へ向かう美月を追いかけた。
「私は祠の掃除と草むしりに行くけど、皆さんは島を探検してみたら? 岩場の方には洞窟もあるし、スケッチによい場所が見つかるかも知れないわ」
「洞窟は面白そうだけど……俺も上まで行ってみたいな。遼はどうする? 絵を描きに行くのか? それとも……」
振り向きざま尋ねた優樹の目は、明らかに「一緒に行こう」と言っている。
この島の謂われに興味を引かれていたし、もしや白い獣と黒い蟲に関する話が聞けるかも知れないと思った遼は、頷いて同行の意志を示した。




