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私立叢雲学園怪奇事件簿【第二部 魄王丸編】  作者: 来栖らいか
【第三章 衝動】
15/42

〔2〕

 翌朝。

 遼は湖に赴くため、朝食後に部屋まで画材を取りに戻り、リビングで杏子がくるのを待っていた。

 雨が降る様子はないが、空を覆った灰色の雲はテラスの向こうに見える湖面を暗く重い色に変えている。

 今日は晴れそうにないな、と、空を見上げ溜息をつく。

 どんよりとした薄ねず色の空そのままに気が晴れないのは、おそらく自分だけではないはずだ。大気中に、ぴりぴりと張りつめた空気を感じる。

 その原因を、遼は知っていた。

 いつもそうだ、優樹の心が不安定な時、風が、水が、空気が、不安定になる。

 杏子が、楽しい気分とは言い難い不満そうな顔をして自室のある二階からリビングに降りてきた。

「あぁー、もう! せっかく来たのに、このお天気じゃつまんない。雨にならないと、いいなぁ……」

「雨は多分、降らないと思うよ。でも少し風が冷たいから上着があった方が、いいかもしれないね」

 窓から空を見上げていた杏子は、遼に向き直った。

「そうだ、あたし達、午後からテニスの予定なんだけど遼くんも一緒にやろうよ。裏のブナ林の中に私設のテニスコートがあって、ラケットとシューズは貸して貰えるんだって。黎子さんは郷田さんの仕事が見たいって言ってたから、一人足りないんだ」

「テニスか……いいよ。少し身体を動かしたいし、佐野先輩に言われたように鍛えないとね」

 リビングの隅でカメラの準備をしていた佐野に向かって、わざと聞こえるように遼は軽口を叩いた。佐野は、ひらひらと手を振って返す。

「やった! でも、お手柔らかにね。あたしテニス・スクールに通い始めたばかりなんだもん。遼くんは、小学校からスクールに通ってるんでしょ?」

「その割に上達していないけどね。以前、球技大会で優樹と試合した時もボロ負けだったよ」

「テニス部のレギュラーでも、勝つのは難しいよ。優樹は運動神経だけは良いんだもの。一人三種目しか出られないはずなのに、ほとんど出場してたんじゃないかな?」

 二学期末のクラス対抗球技大会は、所属する部活の競技にレギュラーは出られないため、剣道部に所属し運動神経が良い優樹はいつも各競技で花形だった。

 昨年の大会ではテニスで対戦する事になったが、小学校三年からスクールに通っている遼さえも優樹に勝つ事が出来ないのだ。

「さすがに、あの時は悔しかったな。テニスくらい、勝ちたかった」

「勉強じゃ優樹なんか遼くんの足元にも及ばないのに、スポーツでも負けたくないんだ?」

「そうだね、出来れば負けたくないな」

 遼の言葉に杏子が不思議そうな顔をすると、そばで聞いていた佐野が助け船を出した。

「男同志ってやつは、あらゆる面で対等か、それ以上になりたいものなのさ。秋本も男の子だからな」

 それでもまだ、杏子は首を傾げている。

「ふうん……男の子ってそういうものなんだ。女の子同志だと、すごいなって思っても、あんまり競ったりしないなぁ……」

「意外だった?」

「うん……あっ、ううん、そんな事無いけど! そうだ、上着取ってこなくちゃ! 待っててねっ!」

 慌てて部屋に戻っていく杏子に、了解の笑顔で遼は応えた。

 入れ替わりにリビングに現れた日下部が、マガジンラックから数日分の新聞を手に取ると思いついたように顔を向けた。

 ゴールデンウィークという事もあり、一番早くに来られる業者でも翌日の昼になるという理由から、『美月荘』に一夜の宿を取ったのだ。

「やあ、おはよう。昨夜はすまなかったね……ところで君の名は? 差し支えなければ教えてくれるかな?」

「おはようございます……日下部さん、僕は秋本遼といいます。昨夜の事でしたら僕ではなく、優樹に謝って下さい」

 ほう、と、日下部は一瞬眉根を寄せた。が、すぐに笑顔に戻る。

「あの少年は優樹くんというのかい? 確かに君の言うとおりだ、謝っておこう。彼は今どこに?」

 日下部が辺りを見回したが、その姿はない。

「多分ロードワークか、素振りだと思います」

「素振りを? ああ剣道をやっているんだね、道理で良い動きをしていたな」

 感慨深く頷いた様子に、遼は昨夜の優樹の言葉を思い出した。

『あの、日下部というヤツ。連れが手を出すのを、わかっていて止めなかった』

 日下部と鳥羽山の関係が一朝一夕で無い事は、昨夜からのやり取りで推察できた。

 ならばあの時、すぐ後にいた日下部には鳥羽山の行動が読めたはずである。しかし、止めようとはしなかった。

「鳥羽山さんが手を出しそうだと知っていて、何故、見ていたんですか?」

 一瞬、驚いたように目を見開き、真顔になった日下部の口元からは既に親しげな笑みは消えていた。

 かわりに浮かべた冷笑は、ぞっと、背筋を凍らせるような凄みがあった。

「君は見かけによらず、はっきりと物を言うんだね。あの少年、優樹くんといい、なかなか興味深い」

 臆する様子もなく見返す遼に、日下部はまた柔和な表情に戻る。

「結果として土が付いたのは鳥羽山の方だが、君の友人が怪我をしかねない状況を私が止めなかった事に、怒っているのだね。だが、優樹くんを一目見ただけで鳥羽山の敵う相手ではないと、わかっていた」

 確かに痩せぎすで、ひょろりと背が高いだけの鳥羽山に対して優樹に分があることは、見た目から歴然としている。

「……たとえ体格で優樹の方が勝っていたとしても、大人が黙って見過ごして良いことでは無いでしょう?」

「体格?」

 遼の抗議に、くっ、と、咽を鳴らして低く呟いた日下部の口調が、いきなり変わった。

「そんな事じゃねぇよ。おまえ、つるんでいるくせに気が付いちゃいねぇのか? 鳥羽山はなぁ、確かに喧嘩っ早いが、誰かれ無く手を出しゃしねぇんだよ。窮鼠猫を噛むって諺、知ってるか? 優樹ってヤツに睨まれた途端、鳥羽山は本能で脅えちまったのさ」

「……鳥羽山さんが脅えた? いったい何に、脅えたと言うんですか?」

 不快な表情を浮かべた遼を、日下部は嘲るように笑った。

「ふむ……まあ、おまえのような上品な坊やには、解らないだろうな」

「どういう、意味ですか?」

 日下部の態度に怒りが込み上げ、遼は拳を握りしめた。

 背後で事態を案じた佐野が立ち上がると、その方向に視線を投げた日下部は歪んだ笑みを遼の耳元に寄せて囁いた。

「気を付けることだな、あの男の強さは諸刃の剣だ。使い方を間違えたら……破滅するぞ?」

 言い捨て、すっと脇を抜けて去った日下部に遼は何も言えず立ちつくす。

「……諸刃の、剣?」

 漠然とした不安が、徐々に形を成していった。

 そして新たに生じたモノは……恐怖?

「ふざける……なっ、貴男に何がわかるんだ!」

 肩越しに振り返ると、丸めた新聞を手にリビングを出ようとした日下部が一瞬、足を止めた。その、背中が笑っている。

 かっ、と、頭に血が上り、なおも異論を唱えようとする遼の手を佐野が掴んだ。

「よせ秋本、相手にするんじゃない。おまえらしくないぞ……冷静になれ」

 佐野の言葉に頷きながらも、からかうように頭上に新聞を掲げて立ち去る日下部の後ろ姿から、遼は目を離す事が出来なかった。

「僕が……一番良く優樹を知っている。あの男の言うことは……デタラメだ。あり得ない、彼は……優樹は……」

 優樹の危うさに、少し前から気が付いていた。

 優樹は何か、得体の知れないものを抑え込んでいると。

 昨日、優樹が話してくれた暗い衝動。そして轟木の発言から明らかになった家族の確執。

 片鱗を垣間見ることは出来たが、恐らく全てではないのだ。

 いったい日下部には、何が解るというのだろう。

「大丈夫か?」

 心配した佐野が、遼の顔を覗き込む。

「……すみません、もう大丈夫です」

「そうか? 顔色が悪いぞ。俺は叔父貴の仕事場で、あの手の人間を目にする事があるけど大抵は堅気じゃない。日下部さんがそうだと断言は出来ないが、関わらない方がよさそうだな」

 佐野の叔父は、千葉県警の報道カメラマンだ。大学でも写真部に所属する佐野とアキラが、事あるごとに報道部を訪れている事を遼も知っている。

「はい……」

 遼は、無理に笑顔をつくった。

「おおぃ、佐野。そろそろ出かけようぜ……って、どうかしたのか?」

 撮影に出かけるために佐野を呼びに来たアキラが、二人の様子に気が付き顔を曇らせた。

「遅いぞ、須刈。実は、日下部ってヤツが秋本に……」

「佐野先輩、今の事は……」

 えっ、と、佐野は目で問いかけたが、そのまま肩をすくめる。

「何か、あったのか?」

 アキラの鋭い視線を、遼は真っ直ぐに受け止めた。

「何もありません、ただ世間話をしていただけです」

 遼と佐野を交互に見比べ、アキラは笑顔になった。

「そっか、じゃあ問題なし。行こうぜ、佐野」

 そう言って目配せした先に、声を掛けにくそうに戸惑う杏子の姿がある。

「お邪魔虫は早々に退散。またな、秋本」

 からかうように笑ってアキラが佐野と出て行くと、少し頬を赤らめた杏子が怖ず怖ずと尋ねた。

「あのっ……どうかしたの?」

「どうも……しないよ。それじゃあ湖に行こうか、杏子ちゃん。裏手から降りる道を案内してあげるから」

「うんっ」

 いずれにせよ隠し事の出来ない佐野の口から、日下部とのやり取りはアキラに伝わる。

 しかし今は、詮索をせず素直に立ち去ってくれた事に遼は感謝した。

 なぜなら画材道具を手にしようとした時、自分の指が震えている事に気付いたからだった。



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