〔1〕
昨日、陽が落ちる頃に霧はなかった。
しかし今夜は、異界へ迷い込んだ錯覚に囚われるほど濃い霧が、地を這うように流れている。
うっかり足を踏み入れれば、暗い闇から抜け出せなくなりそうだ。
さわさわとブナ林を鳴らす風音さえ、誘う声に聞こえて背を凍らせた。
その反面、空には冴え冴えとした月が輝き、降るように満天の星空が天と地の対局を強く印象付けている。
優樹を探して本棟の玄関脇に回った遼は、ハーブガーデンから直接テラスに続く階段に座っている姿を見つけると、その一段上に腰を下ろした。
「湖が近いせいで、霧が多いんだよ。今日は暖かだったから、水面との温度差が大きいんだ」
優樹は迷惑そうな顔で、遼を見上げる。
「なんだよ……おまえ、ちゃんと飯食ったのか?」
「食べたよ。デザートも食べないで席を立つなんて、君こそどうしたのさ? 甘いもの、好きだろう?」
「腹が一杯になったからだ」
「嘘だ」
「うるせぇな! ほっといてくれよ!」
声を荒げて、優樹は勢いよく立ち上がった。しかし驚いた様子もない遼の顔に、決まり悪そうに目を背ける。
「君に怒鳴られたのは三度目だ」
「悪ぃ、怒鳴るつもりは無かった」
すとん、と、優樹は再び腰を下ろした。
「一度目は、小学校の時。虐められて泣いてた僕に、泣くなって怒鳴った。二度目は中学の時だったかな? 僕が君に……」
「もう、いいよ。悪かったって言ってるだろ、やめてくれ」
遼は、くすり、と笑う。
「君はあまり話さないけど、横浜の本家の事は少し知ってるよ。お爺さんと、お姉さんの事も。良ければ僕に……」
深く抱え込んだ得体の知れない塊の正体を、突き止める手伝いがしたい。そう、言おうとした時だった。
「なんでぇ、よく見りゃ野郎が二人……しかもガキかよ! おい、おめぇら、ここのオーナーを呼んで来い! 急いでな!」
突然、大型の懐中電灯を振りかざした若い男が暗闇から姿を現し、声高に叫んだ。
趣味の悪いシャツに、だらしなく弛んで引きずったパンツ。足下はゴム草履といった今時見かけないチンピラスタイルだ。
すっ、と、立ち上がった優樹が男に向かい合う。
「いきなり、あんたに命令される筋合いはない。オーナーに用があるなら、自分で呼びに行けばいいだろう」
「ああぁ? なんだ、生意気なガキだなぁっ! ふざけんなよっ、ちっとばかりガタイがでけぇからって、俺が怯むと思ってんのか? ぶっ飛ばすぞ、おらぁ!」
胸の前で拳を構えた男に、優樹が目を細め一呼吸おく。
まずい、と、遼は思ったが、先に手を出したのは男の方だった。
ぶん、と、大降りに繰り出された拳を、僅かに肩を逸らして体裁きの要領でかわす。バランスを失って前のめりに蹌踉めき、多々良を踏んだ男が振り向き様に足を蹴り上げると、その足首を瞬時に掴み、優樹は軽くひねった。
男は激しく尻餅をつき、勢い余って背中を地面にしたたか打ち付けて蛙のようなうめきを漏らす。
「畜生っ! このガキァ……!」
「よさんかっ、馬鹿者!」
背後から一括した声に、若い男はビクリと身を縮めた。
「申し訳なかった、鳥羽山は口の利き方を知らないヤツでね……許してくれたまえ。実は下の道で車を脱輪させて、困ってるんだよ。携帯は圏外だし、近くに民家もない。観光ガイドを頼りに辿り着いたんだが『美月荘』は、ここでいいのかな?」
声のした方に、見たところ四十歳くらいの体格の良い男性が立っていた。
品の良いカジュアルジャケットとチノパン。外灯に照らし出された浅黒い顔には笑顔を浮かべていたが、目元に引きつった傷がある。
顔を見合わせ優樹と遼が頷くと、男性は地面に座り込んだままの鳥羽山を一瞥した。
「スンマセン、日下部さん。若いヤツを見るとつい……」
無言の威圧に、鳥羽山の言葉尻が霞んだ。
「貴様はそこにいろ」
凄みをきかせた低い声に、ますます縮こまり面白く無さそうに優樹をちらりと見て小さく舌打ちする。
その時、外の喧噪に気付いた満彦が表に出てきた。
「どうした? 何か騒がしいが……」
「お騒がせして申し訳ない。連れが、こちらの学生に絡んで迷惑を掛けてしまいました。幸い怪我をさせる事も無く良かったが、きつく注意しておくので、お許し願えませんか?」
満彦は、体裁悪そうに立ち上がった若い男と優樹を見比べた。
尻に付いた土を払い苦虫をかみつぶしたような顔で、あらぬ方向を向いた姿を見れば優樹とやり合った結果が手に取るようにわかる。
「結果がどうあれ、感心しませんね。私はここの主人ですが、何か御用があっていらしたんですか?」
男に詰め寄る満彦の声が、強ばった。
「私は日下部というものです。この霧でハンドルを切り損ないましてね、車を崖下に落としてしまったんですよ。事故処理業者を呼ぼうにも携帯は通じないし、近くに民家もなく途方に暮れていたのですが、幸い村役場で貰った観光ガイドでこちらが近くにあると知り歩いてきました。電話を貸して頂けませんか?」
事情を聞いて少し警戒を解いたのか、満彦は日下部が左肩を押さえている事に注意を向けた。
「怪我を……されていますね、簡単な手当なら出来ますから取り敢えず中にお入り下さい。電話と、よろしければ食事も用意できます。ですがくれぐれも……」
鳥羽山を警戒する言葉に、分かっていますという仕草で日下部は頷く。
「助かりました、こいつならもう逸った真似は絶対にさせません。気の小さい男で、事故と空腹で苛ついていたんですよ。私は東京で古物商をやっている者で、この近くの廃村に掘り出し物がないか探しに来ていました。……肩は車が落ちた時にぶつけただけで、大したことありません。食事は是非、お願いします」
「わかりました」
満彦が先に立ち、日下部は連れの若い男、鳥羽山と本棟に向かった。
不服そうに鳥羽山が振り向くと、戒めるように「おい」と声を掛け、日下部は優樹に目を向けた。
「良い動きをするな」
にやり、と、目元を引きつらせ踵を返す。
「古物商……には見えないね。古物商の中にも、山師みたいなのがいるから何とも言えないけど」
遼の言葉が聞こえていないのか、優樹は三人の後ろ姿を微動だにせず見つめていた。鳥羽山に絡まれた時、先に手を出すかと思ったが……。
「何か、感じた?」
重ねた問いかけに、やっと振り返る。
「あの、日下部というヤツ。連れが手を出すのをわかっていて、止めなかった」
「えっ?」
「気にいらねぇな」
低く呟いた声が、冷たく暗く遼の中に影を落とした。
しかし今時、二十四時間どこにでも事故処理業者が来てくれる。直ぐに立ち去るであろう好ましからぬ来客を、心配することもないだろう。
「あの人達は、車を引き上げたらすぐに帰るよ。それまで君は、なるべく鳥羽山とかいう人に近づかない方がいいかもしれないね。だけど……」
大きく溜息をついた遼に、優樹は「なんだ?」という顔を向けた。
「さっき君が使ったのは、もしかして……」
「ああ、アキラ先輩から習ってるんだ、合気道」
やっぱり、と、遼は呆れた顔になる。
「おまえも習えばいいのに」
「うるさい、ほっといてくれ」
すまして言い返すと、優樹は途端、しかめっ面になった。




