〔3〕
人の話し声に気付いて、遼はゆっくり目を開けた。
カーテンが引かれているのか、それとも既に陽が落ちたのか?
薄暗い部屋のベッドに、自分は寝かされていた。コテージの部屋らしい。
「よかった、気が付いたようだね」
冬也が安心したように、身を起こした遼の顔を覗き込んだ。
「あの、すみません、迷惑かけたみたいで……」
改めて周りを見回せば、冬也の他に友人達が全員此処にいる。少し恥ずかしい思いで、遼は俯いた。
「気を失っていたようだが外傷もないし、脳や心臓に問題がある訳では無さそうだ。レース経験から容態を判断することに慣れているが、私の見たところ心配いらないだろう。優樹の応急手当が功を奏したようだしね」
優樹は何処にと姿を捜せば、一人離れて腕を組み壁にもたれかかっている。その怒ったような顔つきに、遼は苦笑した。
理由は、解っている。
「昨日の移動で疲れているのに、遅くまで机に向かっていたのが悪かったんだろう。みんなは昼食を食べてきなさい、ここは私が付いているから」
冬也の言葉で、やっと緊張から解放された顔になった遥斗と宙が、遼に軽く頭を下げてドアに向かう。
「優樹先パイ、お昼食べに行きましょう」
遥斗の誘いに優樹は壁から離れた、が、そのまま冬也の前に立つ。
「俺が付いてます」
「いや、しかし……」
保護者として責任を感じている冬也が申し出を断ろうとすると、アキラが声を掛けた。
「篠宮に、任せてやって下さい」
戸惑いながら冬也は、しかし含みがありそうなアキラの態度に了解してベッドを離れる。
アキラは遼に片目を瞑って見せると、遥斗と宙をドアの外に追い出した。冬也も続いて部屋を出る。
「優樹先パイ、何であんなに怒ってるんだ?」
「昼飯、食いっぱぐれたからだろ」
ドアの向こう、遥斗の疑問に応える宙の言葉が聞こえた。
アキラがドアを閉めると、優樹は先ほどまで冬也が座っていた椅子に腰掛けた。ベッドに肘を突いて組んだ指に顎を載せ、上目使いで遼を見ている。
居心地の悪さに身じろぎして、遼は肩をすくめた。
「有り難う、君のおかげで大事に至らなかったようだね」
優樹は黙ったままだ。
「僕なら平気だから、お昼食べておいでよ。ちょっと疲れてたんだと思う、今日は午後おとなしく寝ているから……」
「ふっ……ざけんな、平気なわけねぇだろ!」
優樹が怒っている理由は、遼を苦しめるこの能力の前で自分の無力さが腹立たしく、口惜しいからだ。
何も出来ない、助けてやれない憤り。
「ごめん、でもそんなに怒らなくても……」
「謝る必要なんか、ない」
「……ごめん」
「だからっ!」
思わず立ち上がった優樹は、遼が口元を緩めているのに気付いて呆れたように椅子に座り直した。
「おまえ、余裕あるじゃないか。俺のこと、からかうつもりか?」
「そんなつもりはないよ、本当に感謝してる」
笑顔の遼を、優樹はふて腐れて睨み返す。
「何が見えたか、俺にも教えろ。おまえの声が聞こえたんだ。また、あの白いヤツが出たのか?」
声が聞こえたと言われて、遼はたじろいだ。
なぜ、優樹に解ったのだろう……。
「……違う、あの獣じゃない。もっと、そうだな……禍々しい物だった」
「マガマガしい?」
言葉の意味が理解できていないらしい優樹に、遼は苦笑した。
「気持ち悪くて不気味な感じだよ。真っ赤に染まった、血溜まりのような湖から黒い塊が這い上がってきた。それは小さな蟲の集まりで、足下から服の中に入り込んでくるんだ。鋭い顎で皮膚を喰い破って……」
「きっ、気持ち悪ぃな」
「そうだね」
平静を装う遼を気遣い、優樹はその手を握った。
「無理すんな。だけど……いったい何だろう、その黒い蟲の塊は」
「僕にも、解らないことだらけだよ。でも、もしかしたら美月さんが蟲の正体を知っているかもしれない」
「美月さんが? なんか根拠があんのか?」
途端、優樹は不機嫌な顔になった。
「僕のスケッチブック、どこ?」
ライティング・デスクの上に置いてあったスケッチブックを手に取り、優樹は遼に手渡す。
「これを、美月さんが書いてくれたんだ」
開かれたページに書かれた『蜻蛉鬼島』の文字。
「……カゲロウオニシマ?」
「アキズキシマと、読むんだよ。アキズはトンボの昔の呼び名なんだ。あの島の、もう一つの名だそうだ」
「だから、なんだよ」
「僕の見た蟲は、トンボの幼虫に似ていたんだよ」
「トンボの幼虫? ああ、ヤゴのことか。よく川遊びで捕まえたけど、あいつに噛まれると痛ぇんだ。刺すんじゃなくて噛み切られるから、なかなか傷が治んねぇ」
はっ、として、優樹は遼を見た。
「あの湖に、人喰いヤゴがいるのか?」
「まったく君は、短絡的だね。そんなもの、いるわけないだろう? でも昔、あの湖で何かあったのかも知れない。後でオーナーに聞いてみようと思っているんだ」
「オーナーに? 美月さんに、じゃないのか?」
「美月さんが、オーナーの方が詳しいと言っていたからね」
「なんだ、じゃあ美月さんは関係ないじゃないか」
少し安心した表情になった優樹に、遼はそれ以上言うのをやめた。美月の影が、どうしても気に掛かる。それは遼にとって、とても身近な感覚だった。敢えて言葉にするなら……。
「なんか食いもん、貰ってきてやるよ。飲み物リクエストあるか?」
「うん、昨日の夕飯時に出たリンゴジュース、あれがあったら頼むよ。財布、バックのサイドポケットだ」
「オッケー!」
遼のバックから出した財布をポケットに突っ込み、優樹は「直ぐ戻る」と言って部屋を出た。
閉じられたドアに向かい、遼は呟く。
「関係、ある。あの人には、死の匂いがするんだ」
だが今は、胸の内にしまっておいた方がよさそうだった。




