不穏な来客
昼を回り、北風も落ち着いてきていた。
柔らかな陽の差すアパートの一角。〝松田孝規〟と書かれたくすんだ表札を確認する。ここで合っているはずだ。
以前から交流はあったものの、部屋を訪れるとなるとこれは初めてのことで、抑えきれない高揚感がインターホンを押す指先を震わせた。
チャイムが軽快に鳴る。応答は、ない。しばらく置いて、また鳴らす。数回繰り返してみたが、結果は変わらずだった。
「あれ…留守…?」
無理もなかった。本人に許可もなく、ちょっと驚かせてやろうと気まぐれに訪ねてみただけなのだから。
とはいえ、日曜日のこの時間はいつも、隣町にあるファミレスでのバイトも、彼の通う高校のサッカー部の練習もないはずだった。
不審に思いつつドアノブに手をかけると、それはたやすく回った。
「…コウキくん?」
いないのか?
恐る恐る一歩踏み入れると、ツンとした刺激臭が鼻を突いた。
高校生の一人暮らしにしてはかなり広めに思われる。右手に襖があるところからすると、もう一部屋あるようだ。部屋の中は真っ暗で、引かれたカーテンの僅かな隙間から差し込む夕陽が荒れ散らかった床を映し出していた。床一面に散らかる物の主はビンで、足元の一つを拾い上げてみると、色褪せたながらもホルマリンという文字が見て取れた。あぁ、臭いの正体はこれか、と一人合点する。
しかし、そんなことよりもっと大きな違和感に襲われていた。…果たしてこれが十七歳の男子高校生の部屋として〝ふつう〟なのだろうか――と。今どきはみんなこんなものなのか?何かの薬品と思しきビンが無数に部屋中に転がっているのも、流行りか何かで?
自嘲気味に己に問いかけてみるが答えは端から見えている。NOだ。
だとしたらコウキくんは一体何者なのだというのか。一体…この部屋で何を…?これでもまだ知らないコウキくんの側面があるのか…?
頭に立て続けに浮かんでくる疑問符の解決の糸口を探るように、一歩、また一歩と進む。
すると、脛に何かが当たった。
荒れたこの部屋には不似合いなガラスのローテーブル。机上にはコウキくんの大好物である某社のクリームパンの空き袋。脚には小洒落た装飾が施されていたようだが、その色も剥げるほどに脇は乱雑に積まれた本で溢れかえっていた。
続いて襖の前に歩み寄る。泥棒でもないのに、この部屋の異様な雰囲気に呑まれて自然と足音を忍ばせてしまう。
そろそろと襖を引くと、そこに広がった光景は想像とはかけ離れていた。
まず床は元からのフローリングではなく――恐らくはレイフラットタイルのような素材になっていた。置かれた腰あたりまでの高さの大きな机に対し、椅子は見当たらない。学校の理科室を思い起こさせる真白なそれらは、異様な心地をさらに煽った。これではまるで実験するべくして備えられた台だ。台の上には、本が数冊と、ペンがいくつか無造作に転がっている。
その中の薄い冊子に目が引かれた。
「臓器のない死体」
表紙に書かれた文字を読み上げて、先ほどのホルマリンンのビンを思い浮かべ、悪寒が走る。小説のタイトルやなんかなら何ら不思議でないのだが、いかんせん、そうではないようだった。イラストではあるものの、パックの中に浸けられた肝臓が実にリアルに描かれている。部屋の雰囲気も助長してか、気味が悪くてたまらない。
表紙を捲ってみると、意外なことに、それは英書だった。なんて書いてあるのかわかるはずもなく、仕方なくそれを元に戻す。
ふと、台を挟んだ反対側からカバンが覗いているのが視界に入った。持ち手にはサッカーボールのストラップがつけられている。間違いない、あれは、コウキくんが通学に使っている学校指定のカバンだ。
それを見て自分のカバンに手をやる。揺れるストラップ、デザインはサッカーボール。コウキくんと、同じ――いわゆる、おそろい、のものだった。少し和んで、わずかに緊張の糸が緩む。
そうだ、なにかいたずらでもしかけてみようか、と自分のそれとコウキくんのとをすり替えてみる。果たして、コウキくんは気づくだろうか、と思うと今からにやけてしまう。
そのだらしなく緩みきったであろう顔をカバンから上げる。
そこに飛び込んできた光景に、血の気が引いていくのが自分ではっきりとわかった。
真白であるはずの床が、赤かった。
いや、黒いのだろうか。
真白な床は、そんななんともいえぬ色に染まっていた。それが何かは言われずとも容易に想像できた。見たことないわけでもないのに、怖い、と感じた。
その赤一面のすぐ横、台の引き出しがそこだけしっかりとしまっていないことに気づく。
見ないほうがいい。すぐに引き返したほうがいい。ここは、常人の住むところではない。
本能はひたすらに警鐘を鳴らし続けるが、どこからか湧き出る好奇心がさらに手を動かす。
そっと重く冷たいそれを引き、息をのんだ。
チェーンソーの刃がしまわれていた。それもひとつやふたつじゃない。しかも、中には、赤く、刃こぼれしたものもあった。
自分の中で疑いが確信に変わっていく。震える膝が言うことをきかない。一瞬でも気を抜いたら、倒れてしまいそうだった。
コウキくんは、一体ここで、何を。想像は増々残虐な方向へと広がる。
逃げ出さねば。早く。今すぐ。何度もそう思ったが、片足でさえ思うようにならない。
そのときだった。
――ガチャリ。
焦りに拍車をかけるように静かな部屋に響いたドアノブを回す音。
「あれ…誰か…いる」
控えめではあるが低く放たれた彼の声は有無を言わさぬ雰囲気をまとい、それはもはや疑問形ではなかった。
彼に聞こえてしまうのではないかというくらい心臓が大きく跳ねる。それは数十分前、この部屋へ足を向けたときに願っていた再会の喜びからではもちろん、ない。
近づいてくる足音と気配。台の陰で姿勢を低くする。
転がったビンのぶつかり合う音が耳をつんざく。
そしてそれらは丁度背後でぴたりと止まった。
「だ…れ…?」
掠れた彼の声は、この部屋を見られた怒りからだろう、震えていた。
気配が動く。
すっと伸びてきた指を視界の端にとらえ、それが肩に触れるか触れないか、その手を力の限りで振り払い、一目散に駆けた。床に転がるものにも、持っていたカバンの閉め忘れた口からあれこれが振りまかれるのにも構わずに。必死に。
自分が殺されるだなんて…考えたくもない。
ほとんど体当たりの要領でドアを押し開け、あとはただただ月明かりの下、帰路を走った。立ち止まったら今度こそ肩を掴まれそうで。恐ろしくて。
いつもと何ら変わらぬ街の中、いつもとは違う状況の自分。
翻った黒いコートの裾はしっかりと闇に溶け込めていただろうか。
「なぁ、今日の英語、あれ提出だよな」
「あぁ、あの気持ち悪い冊子な。話自体はサスペンス調で面白かったけどな」
「え?うん、まぁ」
適当に相槌をうつと、盛大なため息がかえってきた。
「やっぱり。どうせやってないんだろ?写させてくれ、とか言うんだろ?」
「よくお分かりで…」
二年二組、一番陽が当たりやすく、先生に当たりにくい、教室の隅の席。
弁当を広げつつ俺はうなだれる。だって英語の長文なんて読む気にもなんないもん。ましてタイトルからして面白くなさそうだったんだもん。なんだよ、〝臓器のない死体〟って。火曜サスペンスかよ。
呆れ声の主、ハルマは、俺の弁当箱からひょいとウインナーをつまみ、口に放り込むと、向かいの机に腰かけた。
「…あ、そういえばさ」
我ながら唐突すぎるか、とも思ったけれど、昨日のことなんだけど、と構わず続ける。目に関心の色を浮かべてハルマが頷く。
「空き巣と鉢合わせた」
まじかよ、とハルマが何故だか興奮気味に声をあげる。
「あれ、お前のとこ二世帯だから、いつもばあちゃんいるんじゃなかったっけ?」
「あぁ、それが自分の家じゃなくて。父さんの家…というか、もはや倉庫だけど」
「あそこのアパートか。お前の親父さん…タカノリさん、たしか建設関係の仕事してるんだったよな」
「そうだよ。大工?左官?塗装屋?俺にもよくわかんねぇけど」
言って、苦笑いしてみせる。
ハルマの言った通り、俺の親父は自営で建設関係の仕事をしている、ようだ。そのアパートの建設にも関わっていたらしく、管理人となった親父の昔からの友人が、事務所兼倉庫となるようなところを探していた親父に部屋を譲ってくれたんだ。まぁ、今回みたいに遠くの現場へ行くときは、単身赴任の如く長らく留守にするもんだから、たいてい俺が入り浸らせてもらっている。
そうそう、そこがあまりに汚いものだからついに片づけ始めることにしたんだ。その結果ペンキをぶちまけてしまったことは内緒である。父が帰ってくるまでには何とかしないと。
って話ってのはこれじゃなくて。
「そんで、もう一か月近く留守番してんの。そしたらさ」
「空き巣に会っちゃったのね」
ハルマはいいね、面白そう、と笑うと、手にしていたクリームパンの封を切って、ほおばった。しかし、すぐに俺の羨望のまなざしに気づき、一口だけだぞ、と念を押してから、こちらに差し出す。一口、そして迷わずもう一口食べた俺に、予想通りだとでも言わんばかりの呆れ顔を向けるハルマ。
俺はこのクリームパンが大好きで、部活が終わると食べながら帰るのが日課なのだが、それに気づいているのは長い付き合いのこいつくらいだ。登下校は小学生のころから、ずっと二人でしている。お互いの誕生日にはおそろいのものを買いあったりするほどの中で、自分らのことだが、改めて考えてみると中々気持ち悪い。
「なぁ」
ぼんやりと回想を始めた俺にハルマがにやつきながら、「その空き巣、顔見れたの?男前だったか?」と愉快そうに聞いてくる。お前とどっちがイケメンなのー、なんて茶化すのも忘れない。
「それがさぁ」
「おうおう、どーなの」
「女だったんだよ」
はぁ?とハルマは大声をあげて、顔をしかめる。
奇妙だろ。もっとも、空き巣=男ってのも偏見なのかもしれないが。
めげずに「可愛かったか?」と聞いてきたのには「なんか頬痩けてたし。つり目だし」と正直に答えた。なんだよー、とハルマがあからさまに落胆する。いや、俺に言われても。
「あ、それでさ、何が一番ビビったかっていうとさ…」
俺はこの話の山場ってことで、たっぷりと間をおいてから、空き巣が落としていったそれを突き出そうとしたが、図ったように全く同じタイミングで、教室にいたほとんどの人の携帯電話が各々の音でメールの受信を知らせたもんだから、だしかけた手を止めた。これだけ一斉に鳴るとなると、市の防犯メールとかの類で間違いないだろう。
「お、お前、正解!今回はなんだってんだ…」
スマホを家に忘れた俺に代わり、ハルマが素早くスマホを取り出し、言った。
ぶつぶつと小声で読むようにしながら画面をスクロールしていくハルマ。その顔がみるみるうちに険しくなっていくのは気のせいではないだろう。
「お、おい!見てみろって!近所だぞ、これ」
興奮気味に突き付けられたそのページを何事かと目で追う。
「男子高校生が自宅で遺体で発見…ストーキングの末、殺害…死因は胸元に刺されたバタフライナイフによる出血死…!」
俺は体が硬直するのを感じた。隣町でのことのようで、教室内もざわつきをみせている。ハルマが続きを読み上げる。
「犯人とみられる三十代女性は現在も逃走中。昨日十一時頃、西駅南口の防犯カメラに、被害者宅から盗んだと思われる黒のロングコートを羽織った容疑者の姿が確認されています。特徴は黒の長髪、痩せ型の中背で、つり目がち…だって」
「そんなことより!犯行時刻は!」
脂汗が吹き出る。
「え、あ、えっと、午後二時頃、だって」
俺の勢いに気おされたハルマがおどおどと返す。
あの女が部屋を出て行ったのはいつだったか。俺が帰ってきたときだから、あたりはもう暗かった気がする。いつから潜んでいたのかは…わからない。ただ、俺が家を出たのが二時くらいだったはずだから、それより後なのは確実だ。
「うわっ、ストーカーで前科あるってよ。なんか、もう一人も殺したかったのに殺される、とかなんとか呟きながら逃走してるらしいって書き込みがあるぜ。精神障害でもあるんかな…」
「もういいよ」
やっと絞り出した言葉はうまく声にならなかった。
怖いねー、などと呑気な口調のクラスメイトの声がやけに遠くに感じる。
もしかしたら殺されていたのは自分だったかもしれないという恐怖は想像を絶していた。あのときかすかに声が震えてしまったのは、女の殺意を本能的に感じ取ったからかもしれない。
ハルマも俺の表情からして、話がつながったのだろう。恐怖の色を浮かべている。
「しかしなんで…その女はお前の家があのアパートだと勘違いしたんだろうな」
「…つけ始めたのが最近なんだろ。いくら留守番といえど、一か月近くあの部屋にしか帰ってないわけだし」
「あ、なるほど。…けどそうじゃないことくらい、表札見ればわかることなのにな。たしか親父さんの名前、書いてあったよな」
そう言われればそうだ。あの部屋にはちゃんと〝マツダタカノリ〟って漢字で父の名が記されている。
「…なぁ、タカノリさんって、どんな字で書くんだ?」
聞かれて、俺は、宙に〝孝規〟と書いて見せて、ハッとした。
「これ…これをコウキと読んだのか…!」
そうか。俺の名前は平仮名であることなんて、友達との会話を聞いているだけじゃ、わかることじゃない。先入観ってやつだな、とハルマも首を縦に振る。
「それじゃあ、家が違うって気づいて本当の家で昨日のことが起こっていたら…」
「最悪の場合、お前の家族まで…」
考えるとぞっとした。
恐怖という語彙でしか言い表すことのできない自分を妬ましく思うほどに入り乱れた感情が一気に湧き上がってきていた。
俺は大きく深呼吸した。そして、先ほど突き出すつもりだったそれを力なくハルマに手渡した。
「何だよ、これ」
それは掌から少しはみでるかくらいの小ささで、しかしその割に重たい鉄の塊。
「俺もよくわかんないんだけど…それこそ、バタフライナイフなんじゃないかって…」
俺は、そして恐らくはハルマも実物を目にするのは初めてだし、まして刃の出し方なんてわかるはずもなかったが、ほぼそうだとみて間違いなさそうだった。すぐに検索をかけたハルマが肯定する。
ハルマは小さく息をつくと、スマホを置き、俺の目をじっと見て、口を開いた。
「本当に、お前が無事でよかった」
ハルマの目にはうっすらと涙がたまっている。俺はもらいかけた涙を堪える。
まるで自分のことのように心配してくれる…俺は良き友を持ったなぁ、なんてぼんやり考える。
もし神様ってのが本当にいるのなら、この偶然の連鎖の中で俺を生かしてくれたことをありがたく思う。
そうそう、ありがたく思う、のなら。
殺人鬼かと思うようなあの部屋と。
表札を読み間違えた間抜けなあの女にも、ほんの少しだけ。
いつもと何ら変わらぬ昼休み、いつもより悟った心地を抱く自分。
「おう」と小突いた右手に込めた感謝はしっかりと友に届いていただろうか。
「全く…戸締まりとか、しっかりしろよ」
「わかったって。母さん心配だし、今日からは家、帰るわ」
「うん、そうしてくれると俺も安心だよ」
「ったく、誰目線で言ってんだか」
笑いあう男子二人。
最初に切り出したあの声。情が厚く、心配性な親友、ハルマ。
これは、どうでもいい。
それに続く男らしくも優しい、凛と響く声。
あぁ、なんでもっと早く盗聴器をしかけなかったんだろう。
声が漏れているとも気づかれず、あのキーホルダーは通学カバンでいつも通り揺れているのだろう。
母親のことを思いやる、素敵な子。本当の家に帰るとかなんとか。
大丈夫、わたしもすぐに会いに行くわ。
勘違いなんてしてごめんなさい。
やっぱり君に出会えてよかったわ。
...こうきくん。