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えきちゅう。  作者: 田中志摩貴
8/22

その8


 人目を避けられる場所は限られるので、仕方なく改札口にもたれかかって眠った。

サツキから渡されたフリース毛布一枚では寒すぎたせいか、起き抜けの頭が痛む。咽喉の痛みや発熱の心配はなさげなので風邪ではないと信じたい。

 ――昔の夢を見た。

 一日中メトロのことばかり考えていたのだから必然とも言える。

 トイレで身支度を終えるといつの間にか始発が運行していた。携帯と充電器をポケットに突っ込んで電車に飛び乗る。ほぼ始発なので驚くほど人が少ない。この車両には自分ひとりだけだし、両隣の車両は無人だった。

 登校時に訪れるサツキと合流するまで時間が余っている。さすがに朝早くから敵が動くとは思えない。敵は駅から出られるのかもしれないのだから――いや待て、もしかするとユウやギンも外に出る方法を知っているかもしれない。逆に、彼らも駅から出られないのならメトロ路線のどこかにいる可能性が高い。ユウと会ったのは赤坂見附付近、ギンとは銀座駅だった。そこから捜索を始めよう。何しろ、いつ始まるともしれない椅子取りゲームをする以外は何もできない。

 数駅ほど走るとようやく乗客がぽつりぽつりと現れ、安堵の息が漏れる。見知らぬ人間を頼もしく感じるなんてどうかしている。

 昨日から腹が減らない。食事していないから体温が低いのだろうか。それとも寝冷えがたたったのか、時折ぞくりと寒気に襲われる。そして――何故だか右の脇腹が痛む。手で押さえつけてみるが効果はない。右にあるのは肝臓だ。不摂生やストレスが内臓に影響を及ぼすことはありえるのか。

 脇腹を押さえてふらふらと彷徨い歩いたが、血族は見つからなかった。拠点に戻り、俺の傍にいると駄々をこねるサツキを説得して学園の最寄駅まで送り届けた。

 午前九時二十分、例の曲が頭に流れて緊張が走る。

 俺は着席していた。焦った。座席は埋まっている。慌てて立ち上がると、出張中らしき男が華麗なターンで身を翻して着席する。落ち着け。落ち着け。心で呟きながら隣の車両へ移動する。音楽が止まった時、空席がないと困る。しかし奥に進めば進むほど人の密集度が高くなる。俺は苛立った。方向が逆だったか。それとも次の駅で降りて別の電車に乗り換えるべきか。

 乗降の多い巨大ターミナルに滑り込むまでしばらくかかる。二駅は様子を見よう。席が空きそうなら留まる。動きがなければ乗り換える。しかし判断つきかねる微妙な流れだった。俺は電車を降りなかった。それが失敗だった。座席どころか車両の密集度が徐々に高まった。俺は人を掻き分けて車両を移動した。僅かな差でもいい。人の少ない車両にいる方が無難だろう。降りろ降りろ。とっとと席を空けろ。呪いのように頭で反芻する。もしくは、この忌々しい音楽が永遠に流れていればいい。

 無情にも音楽が止まった。

 まだ停車していないのに音楽が止まった。背筋が凍った。初めての事態だ。駅についてもいないのに乗客が立つわけがない。早く駅につけ。誰か降りろ。誰でもいいから席を空けろと、拳銃を振り回して絶叫したい気持ちだった。

 駅についた。こんな時に限って、誰も降りないのに乗り込んでくる人間が多い。

 懸命に空席を探す。降りそうな客を探す。走りたいのに乗客が邪魔で走れない。いや迷惑をかけているのは、じたばたと動き回る自分なのはわかっている。

 席がない。どうすればいい。

 指定された椅子が光るはずなのに、その目印さえ見えない。

 俺は高校生らしき同年代の男に早口で頼み込んだ。

「あ、あの、席を譲ってもらえませんか」

 俺を一瞥したあと、彼は聞こえなかったという顔で俯き、無視を決め込んだ。隣にいた厳めしい顔つきの老人が皺の深い目元でぎろりと睨みつけてくる。

 わかってる。

 図々しい要求をしているのはわかっている。

 それから数人に声をかけた。誰も譲ってくれなかった。それどころか正義感溢れる顔をした男に正論で叱られた。わかってる。俺がおかしいことはわかっている!

 地団駄を踏みたい気分だ。

 次の駅で降りよう。だが、他の電車がもっと混雑していたらどうだ? 事態が好転する保障はどこにもない。ただの逃避だ。不確定な未来に頼る状況は好ましくない。

「……うっ」

 ずきりと肋骨が痛んだ。鉱物の杭で突かれたような痛みが走り、耐え切れず屈みこむ。

席を譲ってくれとせがむ頭のおかしい高校生が下手な演技をしている。車両内でひそひそ声が聞こえる。空耳かもしれない。だがそんな視線を感じるのは確かだった。

「あの、ここどうぞ」

 控えめな少女の声が降り注いだ。天使の声に思えた。小学高学年だろうか。学級委員でもやっていそうな理知的な面持ちをしていた。

 ありがとうと言いかけて咽喉が詰まる。

 ――子供と関わるな。

 今は緊急事態だ。席を譲ってもらうだけなら関わったとは言えない。大丈夫だ。大丈夫と自分に言い聞かせる。心から感謝をして席を代わってもらおう。

 立ち上がりながら、俺は絶望を味わった。せっかく譲ってくれたというのに、彼女の席が光っていない。ううと呻き、ぺこりと会釈して車両を移る。

 どうしよう。どうすればいい。焦燥が増すばかりで僅かな知恵も出てこない。

 ――もし椅子取りゲームを失敗したらどうなるのか。

 ギンは何と言っていた?

 業に失敗したら即時脱落の可能性がある――脱落は死を意味する、らしい。

 死? どうやって死ぬんだ。心臓麻痺か?

ここまで必死になっても、そもそも何故自分が強制参加させられているのかすら把握していない。くくと息が漏れる。無様で滑稽な自分を嘲笑いたかった。

 何が死だ。今、俺が生きていると言えるのか?

「ふ、ざけてる」

 車両の連結部分に凭れ、俺はドンと拳で叩いた。我ながら身勝手だ。無人の始発に恐れを抱き、他人の存在に安寧を見出した。なのに今は乗客たちを睨みつけてしまう。片っ端から乗客を椅子から引き剥がしてやろうか。抵抗されて殴られるかもしれないが、どちらにしろ失敗したら人生がアウトなのだし、それはそれで構わない。

 脇腹がじくじく痛む。

 まるで俺を急かすようなリズムだ。

 音楽が停止してからどれだけの時間が経過しただろう。何駅を通過した? 狙うべき光る座席は残っているのか。理屈はわからないが、無自覚にでも誰かが座ってしまえば光が途絶えるのは経験で学んだ。おそらく――光る座席がすべてなくなった時点で、一ゲームが完結するのだろう。

 次の電車に移ろう。そうだ。諦めるな。詳しい規則は知らないが、音楽が鳴った時点で走行している電車すべてがゲームの対象ならばまだ望みはある。

 電車が止まった。

 息を呑む。降りろ。誰か席を立て。目を血走らせて隈なく確認するが、空席があっても光っていない。やっぱりダメだ。次の電車を待つしかない。奥歯を噛みしめて外界に足を踏み出そうとした瞬間、後ろから腕を引っ張られた。前のめりで移動していたので身体の重心がずれてバランスを崩し、後ろに引きずられる不恰好な姿で転んだ。

「うあ!」

 これまでにない激痛が脇腹を貫く。空気が抜ける音と共に扉が閉まる。しばらく蹲っていると電車が発車したので、俺は脱力して、床にへたりこんだまま座席の縁に身体を預けた。身体を支えるために左手を床についていると、硬めの細く短い棒のようなものが指先に触れた。さわさわと虫が這いずる動きに思えて、俺は反射的に手を引っ込めた。そして脇腹に再び痛みが走る。

「う、くそ……」

 顔をしかめて力んだものの、半瞬後には、その感情さえ忘れていた。声も出せない。世界から音が消失したように感じた。信じられない光景だった。

 先ほどまで座席に並んでいた乗客がすべて消えた。吊革につかまる乗客もいない。

 音がない。天井に設置された電飾は点灯しているが、どす黒い靄が立ち込めるように空気が淀んでいる。まるで黒い湯気に視界を奪われたみたいだ。火事を連想して咄嗟に口元を押さえたが酸素は満ちているらしかった。

 どくりと心臓が脈打つ。

 またか。またしても何かが進行した。それとも、この現象がゲーム脱落の証拠なのか。

 苛立ちと後悔と逃走本能と痛みと悔しさが混じりあって感情が定まらない。目の前を手で煽いで靄を払い、目を凝らすと、車内には黒い物体がわさわさと蠢いていた。

 巨大な獣――ではなく、個別の動きをする何かが集まり、不気味な塊になっている。

 それは蜘蛛だった。

 先ほど俺の手を這ったのも蜘蛛だろう。

全身の表皮が泡立つ。絶望色の気配が膨らむ。蜘蛛の足が擦れる音がする。かさりかさり。かさりかさり。千……万……いやもっといる。

 手摺に掴まって立ち上がり、扉と背を合わせる。

 周囲を凝視する。逃げ場はない。戦う術もない。

 俺に攻撃する意図などないのか、蜘蛛は座席の上下左右を忙しなく移動するだけだ。行動範囲が狭いし、知能があるようには見えない。何がしたいのか。まさか俺を拘束するために、蜘蛛の糸を使って罠を巡らせているのか。

 訝しげに目を細めた刹那、一陣の風が車内を縦に切り裂いた。

 鋭い圧力のあとに鱗粉のような光の粒が空を舞う。風が通過したあとは蜘蛛の姿がきれいに失われた。 俺から見て車両の右半分を占める蜘蛛が消えた。鱗粉の光によって、残りの群れが鮮明に映る。蜘蛛は茶と紫と黒と赤が混じった色をしていた。一匹の大きさは一センチの身体とそこから生える長い八本の足。半分に減ったとはいえ、まだ何億もの蜘蛛がひしめいている。汗ですべる手摺を持ち直すと、後ろからポンと背中を叩かれた。

 びくりと身をよじると、華奢な少年が指に摘まんだ何かを食べていた。ぽりぽりと咀嚼しながら優麗に微笑んでいる。

「ふふ。びっくりしてるね? まさかとは思うけど、蜘蛛が怖い?」

「そんな問題じゃ……」

 今まで感知できなかった存在に戦慄し、情けない声を漏らす。

 蜘蛛なんて好きでも嫌いでもない。子供の頃から蜘蛛を見つけて泣き出す同級生はいたし、女子のほとんどは嫌悪に近い感情で蜘蛛を毛嫌いする。確かに、けして好ましい姿ではないが、自分が被害を被っていないので過剰に恐れる女子たちに同調できなかった。

 口唇を震わせていると、少年が俺の手に赤い扇子を握らせた。

「こうして、こう。ラケットを振るみたいに後ろに引いてから、勢いよく、振る」

「振る、だけ?」

「そう。勢いをつけてね」

 思考停止した俺は、洗脳された人間のように指令のまま動いた。右肩を絞り、左肩あたりからやや下に薙ぐ。夏祭りに無料で配られる団扇と同じ大きさの扇子が、ぶいんと音を立てて、想像を絶する風圧を生み出し、空気摩擦か何かが中央付近で渦を巻いた。

「もう一度。うん。いいね」

 少年が満足げに頷く。蜘蛛は風と鱗粉と共に混じって空気に溶けた。まるで箒で掃き掃除をしたかのようだった。彼は俺から扇子を奪ってぱちんと閉じ、それを俺の胸ポケットに突っ込んだ。停車駅についたらしく、トンと背中を押される。

「ほら行こう。説明してあげるから」

 困惑で痙攣する顎を押さえながら、恐る恐る横目で車内を窺う。蜘蛛のみならず靄が消え、座席や吊革にも乗客が戻っていた。誰ひとりとして異常事態に気付いていなかった。



 ここはどこの駅だろう。どこでもいい。考えたくない。少し脳を休ませて、背筋の緊張を解きたい。俺は少年に促されるまま、赤いベンチに座って肩を落とした。

「落ち着いたら話を始めよう。ね、受験生?」

「なっ」

 咄嗟に首を振り上げた。受験生。その呼び名を使うということは――。

 逃げ場のないベンチに腿を振り上げ、膝を抱える形で身を固める。我ながら最悪だ。こんな防御で何から身を守れるというのか。敵かもしれないと考えただけで冷や汗が出た。逃げることもできず、相手を凝視することしかできない。

 少年は白く細やかな頬を緩めてくすくすと笑う。

「僕は仲間だよ。敵じゃない。ほらリラックスリラックス。ちゃんと呼吸して」

「仲間……」

「うん。何もしない。ほら」

 少年がゆっくり差し出してきた掌には何かが乗っている。色は濁っているし、形も歪だ。壊れた金平糖のように見えた。

「何も食べてないでしょ。これおいしいよ?」

 俺は拒否を示して首を振った。少年がくすりと笑って、安全を証明するかのように一粒を自分の口に放り込む。

「ほらどうぞ。嫌なら無理に食べなくていいけど、持ってて。あとでお腹が空いた時には必要だから。というか、君、どこか痛んでるところはないの?」

 俺は更に目を開いて警戒心を強めた。

「痛むところがあるんだね。どこ? 脇腹あたりかな?」

「……どうして!」

「仲間だって言ったでしょ。ほら受け取って。それ食べると痛みも和らぐから」

「じゃあ後で……食べる……かも」

 俺が金平糖もどきをポケットに突っ込むと、少年が満足したように頷いた。




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