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えきちゅう。  作者: 田中志摩貴
7/22

その7


 *


 新しく開通するという地下鉄の式典に招待された日を覚えている。

 日時は平成十二年十二月十二日。

 母が早朝から念入りに服装と化粧を整えていたこと、満面の笑顔で「すごい倍率」と「抽選」と「ラッキー」を連呼してはしゃいでいたことも鮮明に思い出せる。

 俺とサツキは、うちの母親に連れられて東京都庁に出向いた。階段を昇るだけでも母親の腕にぶら下がって遊ぶような幼齢だった。

 十二時十二分、地下鉄の開通式が始まった。

 関係者に混じって、都庁前からぐるりと円環を描くようにぐるりと都内を巡り、国立競技場までの二十五・七キロの走行を楽しむ。俺とサツキは真新しい座席に昇ったり下りたり、他にも大勢招待された子供たちの隙間を縫って走り回り、母親に叱られた。サツキは大人しくなったものの、本気で怒っていない母の心を見抜いた俺は何度も席を立った。

 停車駅を好機と判断し、車両の端まで走った。だが走りきれなかった。道半ばにて、俺を遮るように大きな影が立ち塞がったからだ。

「席に戻れ。戻らないと殴る」

 見るからに年上の男だった。子供ではあるが自分より年上なのは確実で、俺は謝ることもできずその場で凍りついた。威圧されたことが悔しいとか、遊びを邪魔されて面白くないとか、そういう腹いせではなく――単純に彼が恐ろしくて泣けてきた。

 俺の泣き声を聞いた母が短距離走選手さながらの瞬発力で寄ってきて、俺の前で屈みこんだ。俺に怪我がないことを確認すると、母は毅然と立ち上がり、対峙する少年を見下ろした。母が代理で叩き潰してくれることを期待し、俺は薄目を開けた。

 しかし母親は俺の後頭部を鷲掴みにし、強引に謝罪させた。

「ほら瀧矢。お兄ちゃんにごめんなさいは? ごめんなさいしなさい」

「ご、ごめんなさい」

 消え入りそうな声で従うと、少年は応答なく踵を返して人ごみに消えた。俺は一瞬だけぽかんとし、何が起きたかわからないままわんわんと泣き出した。悔しかった。少年に刃向えない自分の無力さも、母親に説明できない語彙の少なさも、何もできずに自分が悪者にされてしまった口惜しさが胸を埋め尽くした。味方を失った気分だった。

 俺は座席に戻ってからもわんわんと声を上げて泣いた。脇に座るサツキが頭を撫でてくれるが気分が晴れない。涙はすでに収まったが、泣き止むタイミングを逸してしまい、声だけで泣き真似を続ける。周囲を窺うためにこっそり片目をあけると、正面の女の子がじっと俺の顔を見つめていた。俺は再び泣き真似を始めた。

 諦めたように溜息を吐いた母が、俺を抱え上げて、よしよしと囁きながら背中を撫でてくれる。しゃくりあげすぎて吐き気がしてきたので、母の優しさが身に染みた。

 泣きつかれたせいか、はしゃぎ疲れたからか、はたまた昼寝の時間だったからか、俺は母親の腕の中で眠りに落ちた。



 広い会場の壁際に並んだ椅子で、俺は目が覚めた。紙容器のジュースを両手に挟み、ストローを吸うサツキが並んでいる。目が喜びに光らせたサツキが口を開いたが、ちょうどマイクが起こしたハウリングによって掻き消された。

「続きまして、都知事から挨拶を申し上げます」

 無秩序に入り乱れる大人たちが、雑談をやめて首を檀上へ向けた。都知事という名前は聞いたことがある。偉い人のはずだ。

 俺は大人たちの足元をすいすいと抜けて、都知事の挨拶が行われる前方まで進んだ。制止を求める母の小さな懇願が聞こえたが、俺は無視した。

 即席で作られたような木箱のステージに赤い絨毯が敷かれている。銀色のポールに繋がれたマイクが立てられ、都知事がそこで軽く会釈した。当然、俺に挨拶したわけじゃない。

都知事が頭をあげた瞬間、会場全体に向けて放射状の光線が広がった気がした。

「どうも、都知事のクボでございます」

 挨拶した男性は見るからに老人だった。声は掠れているし、髪も白い。なのに全身から立ち上る、野心に満ちた覇気は子供ながらに感じ取れた。

「古く昭和から始まったこの東京十二号線工事も無事に開通式を迎えました。日本としては二番目のリニアインダクションモーターです。循環型にほど近い、この東京の地形に相応しい六の字型の経路をしており、今日の走行距離は二十五・七キロですが、完成される路線総距離は日本最長の四十・七キロにも及び……」

 数字は耳に留まるものの、話の中身はまったく理解できない。

 都知事のクボが目線を下げたせいで、ばっちり目が合ってしまった。

「本日は都内在住の子供たち百五十人を招き、試乗していただきました」

 怒られるのではないかと本能で察知して身を固くしたが、クボは俺の手を柔らかく握って檀上に引っ張り上げた。

「こうしてですね、将来ある子供たちに素晴らしい財産を引き渡せたことは、現職の知事としては非常に喜ばしいことであります」

 クボが喋りながら俺の頭をわしわしと撫でる。すると前方でカメラを構えていた男が厳しい目をしてフラッシュを浴びせてきた。写真を撮られていることがわかり、俺は得意げにピースサインして胸を張る。家族写真を撮る時、母親からこう指示されていたからだ。

 気づくと、大勢の子供が檀上に押しかけてきた。

 都知事がわははと豪快に笑い、都庁職員らしき男たちが騒ぐ子供たちを整列させた。再びカメラのシャッタ音が鳴り響く。

「すでに皆さんご承知のこととは思いますが、改めて正式名称を発表させていただきます。東京十二号線の名称は『大江戸線』でございます」

 昨日も今朝もニュースで何度も耳にした言葉。

 地下鉄が好きだ。目的地に行くための移動手段としては、なぜか――JRや他私鉄より地下鉄で移動する方が昂揚する。

「おおえどせん?」

 拙い口調でサツキが話しかけてくる。俺は自分が都知事より偉くなった気持ちになり、先ほど、自分がクボにされたようにサツキの手首を掴んだ。正確には掴もうとした。それより早く、誰かが俺の手首を強く握った。びくりと驚いて振り返ると、地下鉄で乗り合わせた時に自分を咎めてきた、むかつく男が正面を見据えている。

「次こそ……むんざしだ」

 男の顔は無表情で、子供のそれとは思えないほど冷たい声だった。


*




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