その2
乗り換え駅を過ぎると恐ろしいラッシュにもまれた。関東一円から人間が集まるからか、車両は会社員や学生でもみくちゃにされる。俺はサツキを庇うように抱えて、空間を作ってやった。サツキも慣れた様子で俺の胴に入り込んで、足を踏ん張っている。
登校に適した最寄駅につくと、開いた扉から一斉に人が吐き出された。極限まで我慢比べをして、どうしても耐え切れず呼吸してしまったような勢いだった。
列をなす人々が狭い改札口を進んでゆく。通勤や通学時は誰もが急いでいるのに、自然と譲ったり譲られたりして、システムに順応しており、人を押しのけて列を乱す者はほとんどいない。形式が砂時計に似ているな、と思う。溢れるほどの容量なのに、つまることなく砂がこぼれてゆくところがそっくりだ。
サツキの背中にはりつく。
以前俺が先に改札口を抜けた時、人に溺れたサツキを見失ったことがある。そういう失敗がないよう、サツキの姿を視界にいれておくことにしていた。
サツキに続いて通学定期を改札機に押し当てる。
しかし――通行防止音が鳴り、扉が閉じて足止めを食らってしまった。読み取りが甘かったらしい。俺はもう一度、今度は丁寧に定期を押し当てた。
しかし、なかなか許可が下りない。
背後の会社員がチと舌打ちした。すみませんすみません、けど俺は悪くない。俺は内心焦りながら、ぺこぺこと頭を下げ続けた。
俺の姿がないことに気付いたサツキが雑踏で足をとめて振り返る。人の進行方向に抗って立ち止まるので、邪険にされ、罵られていた。
「どこです? 瀧矢?」
「ちょ、待て。すぐ行く」
何度試みても改札をくぐれない。すぐ後ろに控えた会社員が大声で駅員を呼んだ。駅員がそそくさと近寄ってきて、改札機をチェックする。
立ち往生する俺の耳元で駅員が囁いた。
「……受験生は一度お下がりなさい」
「え、受験? 受験なんてとっくに終わって……」
聞き間違いだろうか。聞き返そうにも駅員に肩を掴まれて改札口から遠ざけられた。呆気にとられた。俺のせいで停滞していた改札口が循環をはじめた。
「瀧矢、どこにいますです!」
サツキが改札を挟んだ向こうで右往左往しながら狼狽している。俺の姿が見えないらしく、声も届いていないらしかった。
どんな故障かはわからないが改札を通るのは諦めた。先ほど俺を物のように整理した駅員が立つ、端の通路で直接定期を見せて通過しよう。
駅員は俺の姿を知覚していなかった。定期券をチェックする気がないらしい。このまま無視して通ってもいいのか、と心配しながら前進したが、なぜか改札の向こう側に行くことができない。どういう仕組みかは説明できないが、確かに通過したはずなのに、俺は改札の内側に立っていた。
何度も挑戦したも先に進めない。時空が歪んだとしか思えないが、そんな馬鹿げた話が現実に起きるわけがないだろう。茫然としていると、サツキの苛々した声が届く。
「瀧矢! このままだと入学式に遅刻すると思う!」
「サツキ! 俺はここにいる。こっち見ろ」
「どこで擦れ違ったんです。外で待ってたり、先に学校に行ってるならいいと思う……」
サツキが困惑した顔で階段を駆け上ってゆく。本気で俺の声が届かないらしい。表情から察するに、演技で遊んでいるわけでもなく心から動揺していた。
何が起きたんだ?
さっと全身の血が引き、背筋がひやりと凍りつく。
俺は駅員に怒鳴りながら詰め寄った。
「なんで改札が通れないんだ! なんでこっちに戻ってくんだよ!」
駅員はサツキの後姿を見送ったあと、ひとつ頷いて、小窓をぴしゃりと閉めた。俺に対する返事はない。駅員にも俺の声が届いていない。俺の姿が見えていない。
「ふざけんなよ!」
俺は通路壁の銀縁を殴りつけた。
無視する気ならこっちにも考えがある。こうなったら改札を飛び越えてやる。どうせ一メートルに満たない脆弱な防犯扉だ。やる気になれば小学生にだって超えられる。
俺は軽い助走をつけて改札口を跨いだ。
跨いで機械の向こうに着地したはずなのに、なぜか改札口の内側に戻されている。何度繰り返してみても同じ現象が起きるだけだった。
線路を挟んだ反対側の改札でも結果は変わらない。数分おきに電車が到着するので線路を伝って脱出するのは無理だ。俺はトイレに逃げ込んで、手を洗いながら、落ち着け落ち着けと口腔で呪文を唱えた。そうだ。携帯電話はどうだろう。
時間表示によると、サツキと離れてから二十分以上が経過している。俺の姿を見失って困惑しているだろうし、あとできつく怒鳴られるだろう。
とにかく――一刻も早く現状打破しないと入学式に間に合わない。
俺はアドレス帳からサツキの番号を選んだ。通話音にさえ届かず、圏外通知を受ける。再試行する。だが繋がらない。自宅にかけてみても同じだ。
焦燥する。汗が噴きだす。
よく考えろ。整理しよう。俺は改札から出られず、どんな因果関係が働いているかは不明だが、駅に閉じ込められた。駅員にも声が届かない。携帯も繋がらない。
乗車を待つ人々がちらほらと溜まってゆき、電車が滑り込んできては降車客を生み出してゆく。そこで閃いた。駅を移動するのは可能だろうか。次の駅なら外に出られるかもしれない。もしこれがRPGゲームなら脱出ポイントが限られていたりする。
俺は苛々と身悶えながら電車の先頭部分に乗り込み、携帯を握りしめた。さっきは見落としていたが、携帯にメールが届いている。――メール!
サツキから送られてきた文面は、俺がいなくなって不審がっていることが綴られていた。慣れた手つきで返信を送る。
「悪い。まだ駅にいる。入学式にはいけないかもしれない、と」
ちょうど打ち終わった頃に隣の駅についた。メールは無事に送信できた。学校から親に連絡がいくと困るので母親にもメールしたが、なぜかそちらには送れなかった。
期待も虚しく、この駅でも改札から抜けられない。
通路に貼られた掲示板ポスターを貼りなおしている駅員と目が合った。反射的にぺこりと頭をさげると、駅員も目配せで挨拶を返してくる。反応があった!
「わ、あ、あの! 俺、改札を通りたいんですけど!」
「はい? あ、改札はこちらですよ」
穏やかに微笑む若い駅員が菩薩のように感じられた。
「どちらに向かうんですか? 目的地はわかります? それによっては出る改札の方向がありますから」
「はあ、あの」
学校に行きたいのだが、わざわざ遠い駅で降りることになった経緯を説明する話術がなかった。もごもごと言葉を濁していると、駅員がうんうんと頷く。
「ゆっくりでいいですよ。日本語も慣れると簡単ですし、ほら見てください。案内表示も英語や中国語がありますから。イングリッシュ、オーケイ?」
外国人に間違われてしまった。
レストラン店員に案内されるよう、先導する駅員の後ろをついてゆく。誰かと意志の疎通をはかれたことが、例えようもないほど嬉しかった。
「ここが改札……ってあれ?」
駅員が振り返ったあと、キョロキョロと首を巡らせる。俺を探しているかのようだった。まるで――一メートルも離れていない俺の姿が見えていないみたいじゃないか。
「あれ、今だって確かに……話して……」
目を点にしたあと、駅員がぶるぶると全身を身震いさせ、首を傾げながら待機のために駅員室に戻ってゆく。俺は必死になって自分の存在を訴えた。
「ここにいるだろ。よく見て。いるから!」
声が届かない。俺は咄嗟に踵を返して駅員から距離をとった。まだ見えていない。彼に声をかけた掲示板ポスターの位置まで戻って、怒号を放つように腹から声を出す。
「すみません! こっちです! 聞こえますか!」
「へ?」
駅員室から出てきた駅員が俺の姿を認める。俺の存在を知覚させるためには距離が関係するのだろうか。俺がぶんぶんと手を振ると、駅員が肩を竦めて出てきた。
「改札はこちらですよ!」
そんなことはわかっている。俺は憤然とした足取りで床を踏みつけながら走り出した。改札まで辿り着くのに十秒もかからない。かからないはずだった。
距離が縮まった時、若い駅員が恐怖に満ち満ちた絶叫をあげた。
「う、うわあああああああああああああああああああああああああ」
そうして駅員室に逃げ込む。
恐怖に憑りつかれたような青い顔で、勢いよく扉を閉めた。
ガラス窓を叩いても大声を張り上げても伝わらない。仕方なく俺は掲示板ポスターまで戻ってやり直した。この場所からなら駅員とは話せる。だが改札近くだとそれが儘ならない。むしろ、俺の姿が忽然と消えてしまうような扱いだ。
もはや若い駅員が近寄ってくることはなかった。遠巻きに俺の姿を見つめるだけで近寄ってはこない。そのうち次の電車がやってきて、駅員が手を貸してくれることすらなくなった。まるで自分が幽霊になった錯覚さえ覚える。
「……幽霊?」
そう呟いてからぶんぶんと頭を振る。
幽霊なら改札くらい通れるだろう。まさか地下鉄から離れることができない地縛霊になったとでもいうのか。いつから? どうして俺が?
次の駅でも同じことを試したが事態は動かなかった。