sad paradise
それは明け方だった。太陽が海から顔を出したところだったとディーンは語った。ディーンは酔っ払っていた。どこからか来た若い旅人も一緒に聞いていた。しかしその話は俺にとってはもう何百回も、ひょっとしたら何千回も聞いたものだった。ディーンのために海を渡ってやってきた少女の話は、実際俺だけではなく、俺達みんなが聞き飽きていた。
「美しい少女は俺を捜していた。この俺を捜していた。贈り物があると。届け物があると」
ディーンはそこで深く息を吸い、グラスの中の酒を一息に片付けた。ドン。俺の前に置く。注げ、の意味だ。続きを聞きたきゃ注げ。別に続きなど聞きたくはなかったが酒を注いだ。
「海は俺の命だった。海に抱かれて生まれ、海に抱かれて育った」
ディーンは言った。注がれた酒を飲まずに持ち上げて天井の明かりにかざした。
「太陽だった。彼女は海に注がれた太陽だった」
「少女はお前に贈り物があったんだろう? それはどうした?」
わかっていたことをあえて聞く。ぐたぐた遊んでないで飲め、の意味を含めた。確か少女は海の女王からの使者で、ディーンが哀れんで(おそらく、酔っ払っていたんだろう)逃がした魚のうちに女王の娘がいたのだ。それを喜んだ海の女王はディーンに使いを寄越した。その使いこそ明け方ディーンの前に現れた海に注がれた太陽のような少女だったのだ。
「そうだ。だが俺は贈り物を受け取らなかった。受け取れば少女は帰ってしまうだろう。だから受け取らなかった。かわりに少女の衣服を奪った。少女を手放したくない一心で」
「ああ、それで?」
促すように、俺。
「俺は、永遠を手に入れた」
ディーンは酒を飲んだ。そうしてため息をつき、言った。
「決して手に入れてはならない永遠を」
「ああ」
俺は言った。まったくかわいそうなディーン。お前は海に背を向けて、こんなネブラスカの大平原で死ぬことなく、今も生き続けている。
「海など、もう百年は見ていない。この海で生まれ、海で育ったディーンがだ!」
話し終えるといつものことだがディーンはふさぎこみひどく不機嫌になった。唐突に酒場の隅から声が上がった。
「なあ、その服を脱がした女の子とはナニをしたのかい?」
「なんだと!」
からかうようにディーンに言ったのはディーンの話を聞いていたさっき若者だった。おそらく放浪者なのだろう。服装にもそれが如実に現れていた。
ディーンは反射的に立ち上がるとその旅人に詰め寄り無言のまま一撃の下に殴り飛ばした。若者はあっけなくのされ、ディーンは倒れたところを足で何度も踏みつける。俺はたまらず言った。
「やめろ! ディーン、ディーン!」
「でもよう!」
「金を払っている――。そいつも俺の客だ」
「ちくしょう! 潰れちまえ! こんな店!」
ディーンは頭を抱えてその場を回りながらわめいた。そうして次は酒場の隅に座り込み、身をカタカタ震わせて呟いた。
「そんなことできるわけ無いじゃないか……。そんなこと……」
「ディーン」
俺はうめくディーンに声をかける。しかしディーンはうつむいたままだった。
「あいつは海に恋人がいたんだ。俺はそれすら知らなかった!」
ディーンが小声でそんなことを言っている間に俺はディーンに殴られた若い放浪者の様子を見た。
「大丈夫か?」
「ああ、だが、あのクソ野郎、ぶっ殺してやる!」
そういって男は立ち上がると腰からオートマティックの拳銃を取り出した。ディーンに向けて構える。
「……後悔するぞ」
小声で警告はする。酔っ払いの相手はここまでだ。俺は身を引いて男に道を開けた。
「後悔だと? へん、知るかよ」
男は拳銃を発砲した。一発二発三発。へたくそめ、当たらない。旅人は焦れてディーンに近づく。四発目を発射しようとしたその時、若者の背後から、水のような影のようなものがせり出した。若者を包み込むように蠢く。
「なんだ? こりゃあ?」
「だから後悔するぞと言ったんだ」
俺は吹き出しそうになるのを堪え言った。若い旅人は間抜けな声を上げる。
「くそ、なんだこれ! 助けてくれ! 助けてくれーっ!」
影色の水の膜が若者をすっぽり包み込む。若者はもがくが、すぐに動かなくなった。それを確認するかのように膜は若者から離れる。そしてそれが消えた頃には水死体が一丁上がっているというわけだ。
「やれやれ……」
俺は頭をかいた。こんな海も見えない大地の果てで溺死する奴が、またひとり増えた。そうして今までのことなど知りもしないで、ディーンは一人カタカタ身を震わせていた。ディーンはこのようにして、死から免れていた。
「……」
ふと、影色の水は少女の姿を取った。死体の傍らで佇みカタカタ震えるディーンをうつろに見つめている。俺も久しぶりに見た。ディーンが愛し、焦がれ、そうして捨てた少女の似姿。海の使いのなれの果て。俺は影色の水に聞いた。
「久しぶりだな。酒でも飲んでいくかい」
「……っ!」
はっとして俺の方を向く影色の水。こぷりと淀んだ水が少女の体内で怪しく蠢く。……。まったくディーンの気持ちもわかる。影色でも濁っていてもこの少女の似姿は美しかった。それこそ触れたいくらいに。いいや俺は一度触れたのだ。その感触は忘れがたく、そしてほろ苦い。
「……」
影水の少女はしばらく俺を見つめていたが、やがてすっと床に溶けるように消えた。後には彼女がいたという痕跡すら残っていない。あとに残るはカタカタ震えているディーンとうつろな顔の死体だけ。そうして、死体が起き上がる。
「ようこそ。不死人の王国へ」
俺は言った。不思議そうに死んだはずの若い旅人は言う。
「何で? 俺は死んだはず」
「そうだな。だが生きている。そうしてもう死ねない」
「……?」
「ディーンが死ぬまでもう死ねない」
「どういうことだ?」
理解が及ばないのだろう。そんな旅人をよそに俺は言葉を続ける。
「そしてこの町の住人は、ディーンが死ぬまで皆死ねない」
そうして俺は爆笑した。くっく、くっくと爆笑した。一人哀れに網に引っかかった若者を前に、大笑いをした。ようこそ! ようこそ! ようこそ! ようこそ! この永遠に続くクソったれな地獄へまたひとりようこそだ! 今日は酒宴だ! みんな飲め! 俺は表へ出て木槌で鉄製の看板を大いに叩く。それに呼応して周囲から生ける屍達が現れる。
「ようやく死んだか。それで、ディーンは」
「部屋の隅で震えているよ。いつものようにな!」
「ははは、それはいい。じつにいい。塞いでるディーンは実に良い」
「だろう! わははははは!」
俺は酒場の奥から肩の高さぐらいまである大樽を転がした。勢いの付いた樽は俺の酒場の入り口を破壊しながら、酒場の前に転がり落ちた。大音響にディーンがハッとしてこちらを見る。俺は構わず言葉を続けた。
「さあ、酒だ! 酒だ! 酒だ! 酒だ! 今日は好きに、好きなだけ飲め! 新人加入のお祝いだ!」
俺は騒ぐ。馬鹿みたいに騒ぐ。実際馬鹿だったし、馬鹿だからディーンを傷つけようとした。そうして俺も不死となった。あの影水のような少女の中で不死となった。
あの少女が抱える影のような淀みは、俺達の腐った魂だ。ディーンに害意を抱いた俺達の魂。それがあの影のような少女を淀ませ、俺達みんなを苦しめている――。しかしいまはようこそだ! 俺達は酒が入って気勢を上げる。今日は新人が入っためでたい日。そうしてそんな中で一人、ディーンは自分のしでかしたことに、また落ち込み、ふさぎ込んでいる。そうして俺達はそんなディーンを見て笑い、また大いに笑った。今日は祭りだ。フェスティバルだ。
ここは楽園。ディーンだけの哀しき楽園。紛れこんだ獲物は逃がしはしない。
ああ。ああ。ああ。ああ。まったく!
俺は大樽によじ登り身を乗り出してわめいた。
サッド・パラダイスへようこそ! と。
……。
……。
……。
狂騒が終わると、不意に沈思と停滞が訪れた。俺達は青ざめたディーンを真ん中に輪を作って見上げていた。男がほとんど。女の姿は希だった。そのみんながみんなディーンを見つめていた。そうして緩慢な苦痛に呻いていた。
俺達は死ねない。どんなにやっても死ねない。それはわかりきっていた。ディーンが死ぬまでまだ死ねない。腐り果てたとしても、まだ死ねない。魂を奪われているのだ。あの淀んだ海の少女に。いまや陽光は苦痛だった。月の光は俺達を狂わせた。時の進みは苦痛だった。そしてディーンだけがそれを免れていた。つまり少女は、いまなおディーンを愛してはいるのだ。こんな魂を吸う存在になりはてても。ディーンを愛しているのだ。ディーン。かわいそうなディーン。お前は彼女の愛に永遠に気がつかない。自分が呪われた、汚れた存在だと思い込んでいる。
だがそれを口にするものはなかった。ディーン以外の俺達が共有している思いは、呪いによって堅く口止めされていた。とうとうディーンは俺達の視線に耐えられず逃げ出した。町の隅っこでガタガタ震えていた。俺達の祭りは終わった。新人を連れて皆、姿を消した。酒場の前には俺ひとりになった。俺も立ち上がり自分の持ち場――酒場へ戻り、自分のために一杯注いだ。
「……」
ディーン。俺はディーンのことを思った。お前ほど誰よりも愛されている存在はないというのに、海に注がれた太陽に、愛されている存在はないというのに。ディーン、お前だけにはそれがわからない。俺は痛みを消すために強い酒を一杯グビリとあおった。ほろ苦い味は、少しだけ永遠に生きる痛みを忘れさせてくれた――。
酒の仕入れがあった。相手は生きている人間だ。種類を選び酒を買う。代金は払う。金さえ払えば死人だろうが生きている人間だろうが、彼等は酒を売ってくれた。または造った酒を引き取ってくれた。(あるいは買いたたいてくれた。)この町は麦を育て酒を造っているのだ。死人の作る酒! お笑いぐさだろうが、これがわりと好評なのだ。酒を造っていれば少なくとも食いっぱぐれることはないし、そもそも死人だから食う必要もない。(ついでに言えば、眠る必要も)禁酒法の時代にはマフィアのドンがこの町を訪れたこともあるそうだ。もっとも俺は知ったことじゃない。ディーンのために酒を選び、ディーンのために酒を注ぐだけだ。俺は、俺達は、みなディーンに仕える給仕だった。望んでいようが無かろうが俺達はディーンに従っていた。いやむしろ俺達は仕えるしかなかった。ディーンから離れると、体が急速に腐敗するのだ。腐敗はディーンに近づくと収まり元に戻った。俺達はディーンという腐った太陽に照らされた淀んだ惑星だった。
ああ、まったく、俺は! ディーンのことばかり考えている! しかしまだまだ考え足りない。ディーンのこととなると俺は考えが足らない。
ディーンは俺達を放って旅に出れば良かったのだ。元はといえば皆ディーンを殺そうと、あるいは傷つけようとしていた人間だった。腐り果て朽ち果てても、ディーンの知ったことではないはずだ。だがディーンは動こうとはしなかった。きっとディーンは逃げ疲れたのだろう。ここに落ち着くまでずっと逃げ続けてきたのだろう。そうしてこのネブラスカの果てに辿り着いて、それでもやはり人を死人にし続けている。
だから俺は、俺達みんなは眠れない昼には神に祈った。眠りのない夜にも神に祈った。ディーンが救われますようにと神に祈った。ディーンが安らかに死ねますようにと神に祈った。そうして俺達もまた死ねるようにと神に祈った。しかしいまだ祈りは届いていない。
……書き足りないが、ここまでにしよう。