彼はどこへ消えた
クロが賢治に会うと出て行って、五日が経つ。一日、二日ならばどこか友人の家をふらふらしているのだろうと判断できるが、五日だと流石に心配になる。部屋を出て行くときの後姿を思い出し、それがあまりにも鮮明であることに直春は驚いた。短く切りそろえた黒い髪の流れも、金糸の刺繍が入ったコートの翻りも、ブラックジーンズの裾が捲れていたことも。
ただいま帰りました、という控えめな声もなければ、連絡の一つも舞い込まない。面倒なことは後で後で、押しやっているだけに違いない。そう思うと体中がむずむずした。クロの行きそうなバーや劇場に訊ねてみるが、あの猫みたいな人なら来ていないと言う。
「まったく、クロってやつは怠け者だから」
そうですね、怠け者ですよ。五日も探されなかったのはいいとして、五日も行方を断っていたのですから。
クロの非難が聞こえてくるようだ。自分にも落ち度があることは分かっている。直春は反省するが、すぐに次の行動に移った。賢治の家に行くのだ。賢治の電話は掛け電話であり、こちらから通話を申し込むことは出来ない仕組みになっている。直春はコートを掴んでブーツに片足を差し込む。玄関にすえつけた鏡に直春の顔が映った。あどけなさが未だに残る青年の面持ち、天然パーマの黒い髪、やる気のない三日月みたいな細い目、突き出した唇。鏡の中央にはクロの下手な字で、「実だくなミにちゅうい」としか読めない怪文があった。
今日で一五になるのだから一人でどうにかできているのだろう、という甘い認識が一瞬にして吹っ飛んだ。もしかしたら、標識の字が読めなくて、途方に暮れているのかもしれない。帰り道とは正反対の方に進んでしまって、どこか知らない浜辺に辿り着いて一人でしくしく泣いているんだろうか。心配の種がまかれ、むくむくと発芽する。直春は舌打ちし、寒空の下に飛び出した。
空は茜と紫が混じり、月の寝息に合わせて雲が流れていた。日没は近い。夕日を眺めながら寒さに打ち震えているクロが浮かんだ。自分は居候、直春が家主、という思い込みをしているのか、寒いとか、暑いとかを正直に言わない。異変に気付いて大丈夫かと問えばにこりと微笑んでこういうのだ。
流石賢治さんの紹介してくれた方、直春は優しい人です。温かな飲み物を貰えるのなら、深い色のココアを入れて下さるほど最上なことはありません。
クロはどこまでも低い姿勢の人間で、いつも儚げな笑みと微かな憂いを纏っていた。引っ込み思案で、少し卑屈で、おかげで直春は心配で仕方がない。クロが心のそこから笑った姿を見たことがないのもその一つだろう。口の端を少し挙げただけの、感情の表に出ない笑顔が、彼の最上の喜びを表す顔だと言えた。クロがどこかで凍えているかもしれないと一番に心配しているのはきっと直春だ。
もしも道に迷っていたら。もしも凍えていたら。もしも事故に巻き込まれていたら。
直春は色々な「もしも」を考えつつ、賢治の家へ急いだ。
賢治は小さな古いビルの二階を借り切って、そこを住処としている。二〇にも満たない少年が、どのようにビルを借りて、毎月の家賃を払っているかは不明だ。自ら稼いでやりくりをしているらしいが、それが本当かどうかは知れなかった。直春との関係は、歳の離れた飲み友達。正直そうな丸い瞳に似合わず、辛めのジントニックを好む。「直春はいい人と知れるから、クロを直春の家に住まわせてくれないか」と頼んだのは他ならぬ若い飲み友達その人だ。直春も酔った勢いで二つ返事でオーケーした。身の安全だけは保障してくれと頼まれている居候が妙な事件に巻き込まれていては、約束を違えることになる。狭い階段を上がり、直春はアルミフレームの扉を叩いた。
「どうぞ」
狼のようなハスキーな声がする。タバコをのみすぎたから枯れたんだ、とは本人の弁。ノブを回すと、果たして窓に面したソファに賢治が座っていた。曲げた腕をソファの背に引っ掛け、ふんぞり返っている。夜空の群青色は背中に負い、まるでぬばたまのマントを身に着ける若い帝王だ。いつもの灰色なつなぎではなく高貴な服を着れば、それらしく見えるに違いない。突然の来訪に驚いているようで、茶色な目は軽く見開かれていた。直春はおどかしてすまないな、と頭の後ろをかく。
「三日前。クロがお前のところへ言ってくる、と出てったきり、かえって来ないんだ」
「すれ違わなかったのか。クーちゃんならさっき帰るって出て行ったはずだ」
賢治はきょとんとしている。見ると、テーブルの上には飲みかけのココアが二つ置かれている。今まで、来客のあった証だ。白い湯気が立っている。ソファの背を叩いて前のめりになる。
「直春はいい奴だって、終始お前のこと誉めっぱなしだったぜ。あのヒネた言い回しで」
「クロが、ずっとここにいたのか」
肩の力が抜けるのを感じた。直春は賢治の向かいにどっかりと座り、リラックスしたように足を伸ばした。ところが賢治は何の安堵の表情を見せないまま、手元の黒い電話を引き寄せた。直春は、何故賢治の表情が柔らかないのか、不安に思った。
「どうしてすれ違わなかったんだ」
電話を耳に押し付けながら、賢治が問う。質問に答えようとして、直春は口を開いたまま固まった。カップのココアが冷める前に出て行った人間と、どうしてすれ違わずにいられよう。
「どうしてって、おいおい、なんでそう真剣になってるんだ」
直春はおどけてみせる。が、無視される。すれ違わなかったことが、深刻なこととでも言うように。受話口から、プツン、と何かが繋がる音がした。途端、賢治の目が細くなった。
「正義バーマンを出してくれ。クロがどこにいるか知らないか」
挨拶することも、名乗ることもなく、鋭い口調で電話の相手に告げた。直春は身を乗り出して賢治と何者かの会話を傍受しようと試みた。何やらことが大きくなっている、そんな予感がした。が、年下の少年の眼に射抜かれて、浮かせた腰を元に戻した。賢治が右手で何かを押さえる仕草をする。それから、軽く握った拳を左右に揺らした。
落ち着いて。何か書くものを。
「そうか、マスター。あなたでも」
直春はコートのポケットを探り、インクのなくなりそうなペンを差し出した。最後まで使い切ることを目標に買った、安い事務用ボールペンである。拝むようなポーズをとり、ボールペンをもぎ取ると、手の甲に文字を書く。赤い月、と。
「それなら、赤い月は何時、」
はっと、賢治は後ろを振り返る。そして全てを言い終わらない内に電話を切った。状況を把握し切れていない電話の相手の声は夜の静寂に融けていった。賢治の手がだらんと下がった。指の間からボールペンが零れる。彼の心に、何が起こったのかは知る由もない。
「 つ、 えるつ だ」
乾いた薄い唇が動いた。直春は愁眉を寄せ、音の断片を繋ぎ合わせた。それが、一つの意味を持っていると理解されたとき、賢治は既に走り出していた。
あいつ、消えるつもりだ。賢治は確かにそう言った。
アルミニウムの扉が揺れる。カタタタタ、カタタタタとマーチのようなリズムで足音が階段を下っていった。
「おい、冗談だろ」
直春は右肩を揺らして笑った。そもそもクロは自殺する性格じゃない。不幸な星の下に生まれましたと嘆きながら、天寿を全うするタイプだ。消えようとしているなんて、信じられない。直春は賢治が戻って来て、冗談だ、と舌を出して謝るのを待った。
ところが賢治は戻ってこない。
「おい、マジかよ」
直治の顔が青くなった。事の重大さに気付き、賢治を追いかけて階段を駆け下りた。
ビルの外に出ると、思いがけず体が震えた。手の平を空へ向け曇天を一瞥する。手を繋いで歩く親子が赤い水玉の傘をさしていた。
賢治は左へ行ったのか、右へ行ったのか。完全に見失う。コートの襟をきつく握り締め、どうしようかと思案した。
「右か、左か」
この間飲みに行ったとき、賢治の右に座ったから、右にしようか。
「左だ」
足を向けた瞬間、呼び止められる。振り返ると、黒いレザーコートの男が立っていた。透明なビニールが差をさしている。
「あんたは、」
「賢治の知り合いだ。やつなら、」
あれなら向こうへ行った、それからは知らんがな。彼はあごをくい、と動かした。誰だろうとは思ったが、クロや賢治の行方を知らない今、信用するほかない。
「有難う」
直春は手を振って、走り出した。
その道とその景色は直春にとって初めてのものだった。賢治のビルから東へは、用がなかったので赴いたことがない。クロは来たことがあったのだろうか。流れる景色を見て、直春は思った。一人で知らない道に入り込むことは、方向音痴のクロにとって自殺行為だ。いつか同じように五日帰ってこなかった日は、直春の近所をぐるぐる歩き回っていた。
ああ、直春。会いたかったです。え、直春の家の近くなのですか。気付きませんでした。ええ、とても寒くて、お腹が減って。けれどただそれだけですから、誰も心配などしてくれませんよ。
薄紫に変色した唇を噛んで、クロが笑う。あの時、直春はクロには自分が守らなくては、と初めて思った。直春の心配の芽が、また成長した。賢治の不穏な発言が頭の中をぐるぐるめぐる。
「まったく、クロってやつは」
体が熱くなり、節々が悲鳴を上げ始める。しばらく運動と言うものをしていなかったな、と思った。
道をまっすぐに進んでいると、T字路に突き当たった。クロの小さな足跡と賢治のブーツの靴底が残っている。左。次に二つ先の曲がり角を右へ。真っ直ぐ、左、五股の道を右から二番目。
世界は白。ずっと白。どこまで走り続ければ済むのか、気が遠くなる。
熱い。今すぐにでも止まりたい。死んでしまいそうだ。
「っ」
死にたきゃ、死ねばいい。甘い考えを息と共に吐き出す。
直春はコートを脱ぎ捨てた。ばさっ、と背後で音がするが、気にしない。体が幾分軽くなり、その一瞬の余裕にあわせて、フォームを変えた。
角を曲がる度に足跡が薄くなっていく。
消えてしまったら最期。もう追いかけられない。犬じゃあるまいし、においを辿るなんて無理に決まっている。
消える前に、追いつかないと。
直春は舌打ちして急停止した。靴のそこが雪を押しやる。道は二つに分かれている。
またニ択。
しかも足跡が完全に消えてしまった。どっちへ向かったか見当がつかない。
直春はきりきりと唇を噛む。どこだ、どこへ行った。前後左右をねめ回す。今度は道を教えてくれる親切な男も見当たらない。
どこかで曲がるべきだったのか、行き過ぎたのか、道のりの半分にも満たないのか。
直春
弾かれるように振り向いた。
遠くに見える黒いバベル、赤いランプが屋上でちかちかしている。
屋上で黒い影が舞った。
小さな火花が生まれて弾ける。
階下の灯りがついた。
影が落ちる。
空から白い花びらが深深と降る。
息も忘れ、その様子に魅入った。心臓が鼓膜の裏で脈打つのが分かる。
白黒の世界で、赤いランプだけがちかちかと光っている。ゆっくりと、赤が滲んだ。飛行機の、空を行く音がする。
男と子供の、二人連れが直春の隣を過ぎた。黒と赤の手袋が繋がれている。吐く息が白い。
直春は歩き出した。
冷たいコンクリートの上で、賢治は胡坐をかいていた。背中を落下防止用の柵に預けて。口元には紅の小さな炎が点る。白い煙を吐き出して、直春を歓迎した。
「遅かったな」
空き缶に灰を落とす。直春は答えず、訊いた。
「クロは」
「吸うか」
直春の答えを待たず、賢治はつなぎのポケットをまさぐった。一本を差し出し、彼の手から離れるなり火をつける。直春の愁眉が更に狭まった。
「賢治」
「よくここが分かったな。魔法か超能力かを使ったのか。正直に言うと、直春は辿り着けないと思ってたぜ。見失ってるからな。直春が思うより、今、びっくりしてるんだぞ」
「黒いコートの人がこっちだって」
「黒いコート。ああ、あいつか」
賢治が肩をすくめ、身震いをする。そう言えば、彼は上着を着ていない。凍えを紛らわすように煙草を吸う。
「賢治」
「何だ」
賢治が首をめぐらす。
「この建物から、人が落ちるのが見えた」
直春は冷静に言った。賢治の顔色が変わった。信じられない、と言った目つきをする。
「まさか、」
「その少し前にクロが俺を呼ぶのが聞こえた。振り向いたら、影が落ちるのが見えた。あれは間違いない、クロだ」
賢治に喋る隙を与えず、直春は言葉を並べた。賢治は呆然としている。直春は思い出したように、煙草を口にくわえた。
「それはないだろ」
賢治がやっとのことのように、声を絞り出した。絶対的な確信を持った否定。直春は眉を吊り上げた。彼は確かにこの目で見たのだ。誰かが落ちるさまを。
「見間違いだ。人が落ちたんなら、もっと騒ぎになっているだろ。それにクーちゃんは落ちたわけじゃないし」
そうかもしれない。直春は納得しかけた。が、それならまた、謎が生まれる。
「じゃあ、クロはどこに行ったんだ。賢治、お前はクロを追っていたんじゃないのか」
「消えた」
賢治は舌打して、歯切れ悪く答えた。そんな曖昧な答えがあっていいものだろうか。直春は賢治を見下ろした。賢治は意図的に直春の目から顔を背けた。
「確かにクーちゃんを追いかけてきて、ここに着いた。だがな、そこからが知れない」
「知れないって、どういうことだよ」
「だから、知れないんだって」
同じ言葉を繰り返す。今度は不機嫌に、だ。賢治は服についた砂を払い、立ち上がる。着いて来い、という仕草。直春は半分疑いながら従った。
「分かるのは、」
賢治は屋上の角を指した。灰色のフェンスに何かがまとわりついている。
「クーちゃんが確かにここにいた、と言うことだ」
直春は目を凝らし、次の瞬間に目を見開いた。棒になった足を駆り立て、それに近付く。
金色の刺繍が入ったクロのコートだった。
賢治が新しいタバコに火をつけて、静かに言った。
「分かっただろ。消えたんだって意味が」
コートはしっかりと絡み付いて吹き飛ぶ事無く、冷たい冬の風になびいていた。
昔々、私は自分の作品を一つの世界でまとめる傾向にありました。
この話は、先日投稿した「時の螺旋」とこれから投稿する「IFシリーズ」の鎖となる作品なのですが、
読み返してみたら謎だらけでとっても恥ずかしい、、、。
その謎だらけをおもしろい味に感じたので投稿です。
舞台が展開している様子を文字で表現したい、という目標があって書きました。