第1話
はっと目を覚ました。
Tシャツが、寝汗で濡れていた。
何の夢を見ていたんだろう。
よく思い出せないが、嫌な夢だったような気がする。
何かが離れていくような夢だ。
ゆっくりとベッドから起き、着替える。
なんか、今日は気分がよくない。
「和樹!」
家を出ると、向かいの家から愛理が出てきたところだった。
園宮 愛理、俺の幼馴染みである。
軽く手を挙げて挨拶する。
愛理が俺の隣に並んで、通学路を歩き出す。
*******
「おい、聞いたか?」
教室に着くなり、隣の席の山口が声をかけてくる。
「何を」
「転校生だよ。今日、うちのクラスに来るんだってさ!」
「へえー」
「何だよ、反応薄いなあ」
山口が不満そうに口を尖らせる。
「ひょっとして、俺の隣の席なの?」
俺の席は一番後ろだ。他の列は6人で1列だが、一番後ろの列は4人しかおらず、両サイドの席はない。しかし、今朝は俺の隣の席に机がある。間違いなく、転校生用だ。
「ご明察。いいねえ、転校生が、もし女子だったらさあ…」
山口が心底羨ましそうな目で見る。
もし女子だったら、ということは、まだ性別は分からないのか。
「もし転校生が女子だったら、また、羽村 和樹の倍率が上がっちゃうかな?」
自分の席に鞄を置いてきた愛理が割り込んできた。
「転校生が男子だったら、園宮愛理の倍率が上がっちゃうだろうな」
私はそんな…とか謙遜してる愛理の横で、山口が恨めしそうな目でこちらを見ていた。
愛理は、モテる。
アイドル系の容姿と気さくさで、男女ともに人気がある。いい歳してツインテールがまだいけるのは、あどけない顔をしているからだろう。くせ毛なのか、うねった髪は愛理の活動的な性格によく合っていると思う。
チャイムが鳴り、担任の吉田が噂の転校生を引き連れて入ってきた。生徒がかったるそうに席につく。転校生は女子だった。吉田は咳払いをすると、しわがれた声で話し出す。
「すでに知っている者もいると思うが…」
隣で山口が、なんか地味だな、と呟いた。
同感だ。
まず制服が地味だが、これはうちの学校の女子生徒の制服が可愛すぎることによるものだろう。数年前、うちでは偏差値を上げる為に制服デザインをプロのデザイナーに依頼したという。実際に志望者が増えて偏差値は上がったし、愛理もこの学校を受験する時、志望理由は家が近いということと、制服が可愛いということだった。だから、きっと世間ではあの、なんかダサい制服が普通なんだ。
しかし、更にそこに転校生自身の黒髪ロングのストレートというありふれた髪型が地味さ、平凡さに拍車をかけている。
顔を覚えにくいタイプだ。
転校生は吉田が話している間、鋭い眼光でクラスをぐるりと見回す。顔は覚えにくいが、あの目はなかなか忘れ難いかもしれない。敵意を向けられているようだ。
「では、自己紹介を…」
「七尾 祥子です。よろしくお願いします」
吉田に促されて、七尾は相変わらずの怖い顔でそっけなく挨拶した。
それだけか。もっと趣味とか言うものじゃないのか?吉田も困惑気味だし、クラス全体もなんか引いてるっぽい。
「席は、羽村の隣だ。羽村…」
俺は軽く手を挙げた。こんなことしなくても、空いてる席は一つしかないんだから、一目瞭然だと思うが。
「羽村?」
七尾がこちらを見る。
怖い顔のまま。
七尾がつかつかと歩いてきた。
…やっぱり顔が怖い…。
「羽村和樹?」
目の前で仁王立ちをしてそう尋ねる。
「…そうだけど。俺、あんたと知り合いだっけ?」
「…随分、顔が変わってるみたいね?」
七尾は嫌味な口調でそれだけ言うと、隣の席につく。
クラスの皆が、七尾と俺を交互に見ていた。山口が、お前ら知り合いかよ、とクラス全員の疑問を代弁する。俺は手を振って知らない、と答えた。
実はずっと前に会ったことがあるのかもしれないが、仮にそうだとしても思い出せない。
「何だったんだろうな?何か変わったこと言えば、気を引けると思ったんかな。クラス一のイケメンのさ!」
山口が噛みつくように言う。
「そんな訳ないだろ。あっちは、俺の名前を知ってたんだぞ」
「ヨッシーに連れてこられる途中、聞いたんじゃないのか…1組にいるイケメンの名前は羽村和樹だ、って。それで、『あなたが羽村和樹君っ?』ってわけさ…」
「あいつの顔、敵意むき出し、って感じだったぞ…」
「そういえば、そうだったな。予想と違ったんかな。…それよりお前、ちょっとは謙遜しろよ!!」
俺と山口は廊下にいた。
なぜ教室にいないのかと言うと、(無愛想だったとはいえ)ミステリアスな転校生に興味津々な女子たちが転校生を質問責めにしているからだ。愛理もその中にいる。
その数は他のクラスの女子をも巻き込み、俺や山口の席まで侵食していた。だから避難している訳だ。もちろん、七尾の話をするのに、露骨に七尾の隣でするわけにいかないという理由もある。
「七尾、俺の顔が変わってるみたい、って言ったよな。それ、どういう意味だろう。昔と比べて、ってことか?」
「…整形したの?ってききたかったんじゃないのか…」
山口はそろそろ七尾の話題に飽きてきたようだ。そんなに気にすることじゃないと思っているんだろう。まあ、それはそうだ。そんなに気にすることじゃない。ただ、不気味なだけだ。
放課後。
いつものように愛理と帰ろうとしたのだが、七尾に引きとめられた。
「和樹。一緒に帰りましょう。話があるから」
初対面の俺の名前をいきなり呼び捨てで、有無を言わせない口調だった。
愛理が「じゃあ3人で帰ろう」と言いかけたが、七尾はそれを遮った。
「悪いけど、今日は外してくれる?二人だけで話したいの」
「あ、うん。わかった。じゃあ今度は、私も入れてね。先帰るよ。また明日ー」
愛理は物分り良く帰っていった。
愛理は廊下の先で、他の子に話しかけられ、肩を並べて行ってしまう。
「私たちも行きましょう」
七尾に急かされ、下駄箱に行く。
話って何だろう。
得体のしれない不気味な女と帰るのは不思議な気持ちだ。
校門を出ても、七尾は何も言わないでいた。無言で歩いている。七尾は最初こそ質問責めにされていたが、その無愛想さからか、昼休みには既に七尾に積極的に話しかける猛者はいなくなっていた。それも当然だ。これだけ無愛想だったら。一応愛理は、お弁当を一緒に食べないか誘っていたが、にべもなく断られていた。
「なあ、話って何だよ?」
とうとう俺がそう訊いたが、七尾はポツリと「私のこと、覚えてる?」と言った。
「いや。…あのさ、どこかで会ったことあるのか?」
「…覚えてないんだね」
「…ああ」
「…園宮さんと、付き合ってるの?」
「はあ?」
そんなことがききたかったのか?
確かに愛理のいる前ではきけないだろうけど。
「ただの、幼馴染みだよ」
なんでこんなことを、今日転校してきたばかりの、不気味な女に教えてやらないといけないんだろう。
「本当に、そう思ってる?」
七尾は尚も食い下がった。
「俺が愛理を好きかってききたいんだろ。そんなんじゃないよ。それより、話って、こんなくだらないことだったのか?」
「…」
七尾は黙り込んだ。
これは本題ではないはずだ。
家の近くの公園まで来たところで、七尾は立ち止まった。
「よく聞いて」
七尾は真剣だった。
「あなたと私は、この世界の住人じゃない」「あなたと私以外、現実じゃないの」「早く現実に帰らなければ、あなたがどうなるか分からない」「あなたはこの世界が心地いいだろうけど、帰った方がいいの」「よく考えて」「この先どうなるかわからなくても、一瞬の心地よさのためにここに残るか」「それとも、現実に戻り、人生をやり直すのか」
七尾の声がどこか遠くで響いているように聞こえた。言っていることが非現実的すぎて、理解できない。
「どちらがいいか。当たり前だけど、私はあなたに戻ってほしくて、ここに迎えにきた。私が全部を話すことは可能だけど、それじゃ意味がない。あなたが自分で覚悟を決めて、帰らないことには…」
七尾の訴えは真剣で、ふざけているようには見えなかった。
「すぐに決断しなくていい。できないと思うから。ただ、早い方がいいんだってことは、覚えておいて。…では、また明日」
呆然として何も言えなかった俺を置いて、七尾は俺の家とは反対方向に歩いていく。
俺も自宅の方に足を向けた。
まだ、七尾に言われたことが整理できない。
あいつ、頭おかしいんじゃないのか。
部屋に入ってからもずっと、そんなことを思っていた。
俺と七尾以外は現実じゃない?
そんなことがあるものか。
じゃあ今はなんなんだ。この部屋はどこだ?今俺が床に足をつけてる感触は多分本物だ。
愛理は?愛理とは長い付き合いだ。
物心ついたときからずっと。
早く帰らないとならないなら、とっくに手遅れなんじゃないのか?
やっぱり、七尾の作り話だろ。
俺はそんな結論にしか至らなかった。
ー何か変わったこと言えば、気を引けると思ったんかな。
そんな山口の言葉が脳裏をよぎった。
七尾が俺を好きだとは、到底思えないけど。