第4話 牧場の所有馬として
姉のダイヤモンドリングと別れ、義兄のアンダースローと別れ、そして祖母のアンダーラインと別れたスペースバイウェイは、井王君を始めとする牧場スタッフの人達の手で少しずつ走るための訓練を施され、競走馬への道を進んでいった。
伸郎は主に訓練を担当している井王君に、体調や様子について細かくチェックした。
「鉄二君。どうだ?スペースバイウェイの調子は。」
「悪くはないです。こちらの用意したメニューも何とかこなしています。ただ、アンダースローやダイヤモンドリングと比べると、やはり能力的に劣っているということは否めませんね。」
「そうか。やはり何をするにしても、この馬には苦労が付きまとうな。」
「仕方ないです。でも、僕達は与えられた条件の中で頑張るだけです。必ず競走馬にしてみせます。」
「頼んだぞ。僕もできることがあれば色々協力する。」
「はいっ!」
井王君は気合いを込めながら返事をした。
その後もスペースバイウェイは、みんなの協力の下で、トレーニングを重ねていった。
それでも体が弱いという印象はぬぐえず、アンダースローやダイヤモンドリングのようにみっちりと鍛えることはできなかった。
さらにかなりの寂しがりやで、柵の中で一頭だけポツンと取り残されてしまうと、決まって『誰か来てよお…。』と言っているかのように、寂しそうに鳴き続けた。
ある日、長谷さんとケイ子の2人は、事務所からその声を何度も聞いていた。
「ケイ子さん、スペースバイウェイ、また鳴いているわね。」
「そうね。何度聞いてもたまらなくなるわね。」
「一体いつまでこの状態が続くのかしら?これじゃ、先が思いやられるんだけれど。」
「あの生い立ちじゃ仕方ないわよ。母を失っただけでなく、同い年の馬もいないんだから。でも、人間と深いつながりができればある程度は埋められるわ。それまでの辛抱ね。」
「はあい。」
2人はこの馬がこれからどうなるか、不安を抱えずにはいられなかった。
それに加えて、今牧場には繁殖牝馬がいないため、このままではこれから馬の生産ができなくなってしまうということも気がかりだった。
できることなら繁殖牝馬を買うか、どこかから引き取りたかったが、資金面を考えると、思い切った勝負になってしまうため、それもできなかった。
とにかく、今の牧場の収入源はアルゴンランプのレース賞金しかなかった。
そのアルゴンランプはスペースバイウェイ誕生以降、500万下のレースで2着、5着に入り、ある程度の賞金は稼いでくれた。
しかしせっかく稼いだその賞金も、今年の秋までの間に自身の預託料に消えてしまったため、牧場の資金難を解消することはできなかった。
その後、アルゴンランプは500万下のレースで9着、1着となって2勝目をり、1000万下に昇級して年越しを迎えた。
しかし1000万下では12着、10着と全く振るわず、しかも体調不良にも悩まされ、年が明けてからはその2回しかレースに出走できなかった。
そして陣営は1000万下での出走を断念することにし、夏開催で500万下に降級になるのを待つことを決めた。
降級後、相生厩舎の陣営はすぐに500万下のレースに出走させたが13着。しかも体調を崩したため、またレースはしばらくお預けになってしまった。
一方、牧場の所有馬として走ることになったアンダースローは、2歳の5月に美浦の堂森厩舎に入った。
堂森調教師の話では調教は順調に進み、9月にはデビューできそうだということだった。
(ダイヤモンドリングはある競馬好きなテレビタレントによって落札された後、その年の11月にアルゴンランプと同じ栗東の相生厩舎に入厩した。そしてじっくりと時間をかけて調教を積んだ後、翌年(つまり今年)の9~10月にデビューのメドが立ちそうな状況になった。)
一方、1歳のスペースバイウェイは、伸郎の提案で8月に行われるセリ市に出してみることになった。
彼の意図は売ることも考慮しながら、自分で競り落とすことも考えたいということだった。
伸郎は井王君と一緒にスペースバイウェイを会場まで運ぶと、馬体をきれいに掃除した。
「どうか、少しでも高い値段がついてくれ。そのためには、大勢の人達の前に出ても堂々としているんだ。頼んだぞ。」
伸郎はそう言い聞かせると馬を井王君に任せ、自身はバイヤーの席に向かっていった。
そしていよいよ声がかかり、スペースバイウェイは井王君に連れられてステージに姿を現した。
すると、臆病な性格のせいか急に立ち止まり、後ずさりをしようとした。
「ほらほら!前進前進!」
井王君は叱るようにそう言うと、手綱をグイッと引っ張ってステージ中央まで連れてきた。
(あちゃー、これは痛いな。)
伸郎は口にこそ出さないが、思わず顔をしかめた。
「うーーん…。父はダンスインザダーク、母は4勝馬のメープルパームで、血統としては悪くないんだけれどなあ…。」
近くにいた武並 定光はため息をつきながらつぶやいた。
「馬体が小さい上にあれでは問題外ね。値段が安くても買えないわ。」
今年のGⅠ高松宮記念を劇的な復活劇で勝ったフォーククラフトの馬主である大車鷲子は、そう言うと、さっさと次に出てくる予定の馬に照準を合わせてしまった。
その声は伸郎の耳にも届いた。
(確かにその気持ちは分からなくもないが、この馬をここに連れてくるまでに、たくさんの苦労があったんだ。それだけは分かってくれ!)
彼は思わずそう言いたくなった。しかし、たとえ口に出してそうアピールしてもそれはプラスにはならないだろう。いや、もしかしたらマイナス要素になってしまうかもしれない。
そう考えた彼は懸命にそれを我慢し、心の中で叫ぶにとどめた。
「それではメープルパームの12の馬、400万円からスタートします。始めっ!」
司会者の人はマイク越しに叫びながらセリを開始した。
(頼むぞ。種牡馬選びで700万円、育成を合わせれば900万円以上かかっているんだ。できるだけ高い値段がついてくれ!)
伸郎は必死になって願った。
しかし武並さんや大車さんのように、この馬は買えないと考える人が多いのか、それともこの状況では自分から行動しにくいのか、いくら待っても声をかけてはくれる人は現れなかった。
(ダメかなあ…。)
さっきまで気合いを込めていた伸郎の表情には、次第に脱力感が見えてきた。
「買い手、おりませんか?」
司会者はハンマーを上に上げながらマイク越しに叫んだ。
「…400万!」
伸郎は思わず手を上げて叫び、他のバイヤーの興味をそそる作戦に打って出た。
「400万、入りました!」
司会者は威勢のいい声をあげて、「他におりませんか?」と続けた。
しかし伸郎の作戦は外れてしまい、誰も後に続こうとはしなかった。
どうやら大多数の人達は行動しにくかったのではなく、始めから見向きもしていなかったのだろう。
「ございませんか!?」
司会者は大きな声で問いかけた。
するとその声に驚いたのか、スペースバイウェイはビクッと反応し、後ずさりをしようとした。
(こらこら!逃げるな!)
井王君は心の中でそう叫びながら手綱を引っ張り、その場にとどまらせた。
「おりませんね!?それでは400万円で落札となります!」
司会者はハンマーをたたいて落札を告げた。
会場からはパチパチと拍手が沸き起こった。しかし伸郎にとって、その拍手は屈辱でしかなかった。
(…結局、生産者買い取りか…。ある程度覚悟はしていたが、やっぱりこうなると悔しいな…。)
彼は顔をしかめてうつむきながら立ち上がり、深々とお辞儀をした。
セリが終わると、伸郎は懸命に悔しさを押し殺しながら、井王君と共にスペースバイウェイを牧場に連れて帰った。
そしてアンダースローと同様に自らが馬主となって走らせることをケイ子、井王君、長谷さんの前で宣言した。
これからアルゴンランプ、アンダースロー、スペースバイウェイの3頭を所有するとなると預託料も増えるため、牧場の経営はますます厳しくなることが予想されるが、3人は伸郎の決断を支持してくれた。
彼らの後押しを受けた伸郎は自分でその責任を背負い、スペースバイウェイを始めとする3頭の競走馬を幸せにしようと意気込んでいた。
名前の由来コーナー その3
・堂森… 広島東洋カープに所属している堂林選手を参考に命名しました。僕は中日ファンですが、一番好きなプロ野球選手はと言われたら、この選手を挙げます。なお、アンダースローが所属している厩舎には当初、名前がありませんでしたが、後のシーンで調教師がセリフ付きで登場することになったため、名前を付けることにしました。