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最終話 母のもとへ…

 7月。手術を受けると同時に繁殖牝馬を引退したスペースバイウェイは、その後もなかなか体調が上向かず、もどかしい日々を送った。

『ママ、だいじょうぶ?どこかいたいの?』

『痛くなんかないわ。フロントラインが元気をくれるから、大丈夫よ。』

『ほんと?じゃあ、わたし、ずっとママといっしょにいるっ!』

『ありがとう。おかーさんはきっと元気になるから、心配しないでね。』

 スペースバイウェイはいつどうなってしまうか分からない不安と闘いながらも、自身唯一の仔となったフロントラインに精一杯の愛情を注いだ。


 7月末。獣医である珪太とケイ子の2人はそんなスペースバイウェイが気になって仕方なかった。

「母さん、ダイヤモンドリングとクリスタルロードは本当に元気に過ごしていますけれど、スペースバイウェイは見るからに不安になりますね。」

「私としても不安だけれど、手術をせずに投薬だけで済ませていたらもっと症状は進行していたでしょうから、これが最善の策だったのは間違いないけれど…。」

「でも食欲もあまりないみたいだし、このままではフロントラインの生育にも影響が出そうですね。」

「そうね。フロントラインには悪いけれど、やっぱりもう一度検査を受けさせてみようかしらね。」

 2人は時間をかけてじっくりと議論をした後、そのことを伸郎に伝え、もう一度検査を受けることが決まった。


 数日後、伸郎が運転する馬運車が牧場に到着すると、井王君と長谷さんは馬房にやってきて、スペースバイウェイを連れ出そうとした。

『ママに何するの!?つれていかないで!ヤダーーッ!!ひとりにしないで!!』

 案の定、フロントラインはそう言いながら泣き叫び、作業を妨害しようとした。

「こんなことをしてごめんね。でも私達もお母さんのことを思っているからこそ、こうしているの。」

「スペースバイウェイはこのままでは病気が悪化していく一方なんだ。辛くても何とかこらえてくれ。」

 2人はフロントラインを懸命に口説きながら、何とか外に連れ出し、馬運車へと連れていった。

「2人ともご苦労様。僕はケイ子を連れて診療所に連れていくから、君達は他の馬達の世話を頼んだぞ。」

 伸郎はそう言い残すとアクセルを踏み込み、車を発進させた。

 スペースバイウェイは診療所に到着すると、ケイ子立会いの下ですぐに検査を受けた。

 その間、伸郎は何とか軽症であることを願いながら待ち続けた。

 それから2時間後、辺りが薄暗くなってきた頃に、ケイ子が疲れたような表情でやってきた。

「どうだった?スペースバイウェイは?」

 伸郎は何か嫌な予感を感じ取りながら問いかけた。

「実は別の箇所でまた病気が見つかりました。それも、かなり進行しています。治療には全力を尽くしますが、それでも秋まで生きられるかどうか…。」

「それは本当なのか?」

 伸郎はケイ子の言う診断結果に耳を疑った。

「私もこんな結果が出るなんて予想もしていませんでした。でも事実なんです。」

「確かに元気がない一面はあったが、それでも牧場ではフロントラインの面倒をしっかり見ていたじゃないか。」

「恐らく、スペースバイウェイは自分の命と引き換えにする覚悟でフロントラインを育て上げようとしていたのでしょう。だからこそ、辛くても精一杯元気に振る舞っていたんだと思います。」

「……。」

 伸郎は呆然としながら黙ってしまった。

「とにかく、私はこれから治療をしていくための準備をするためにここに残りますので、伸郎さんは牧場に戻ってフロントラインを始めとする馬達の世話をよろしくお願いします。」

「…分かった。スペースバイウェイを頼んだぞ。」

「はい。私としても、最善を尽くします。」

 ケイ子はそう言うと大きく一息つき、他の獣医師のいる所へと向かっていった。

 一方の伸郎は懸命に気持ちを落ち着けた後、牧場へと戻っていった。

 連絡を聞いた珪太、井王君、長谷さんは呆然としながらその場に立ち尽くしてしまった。


 それから10日後、七夕賞9着(14頭立て)を最後に43戦9勝の成績で現役を引退したアンダースローが牧場に戻ってきた。

「アンダースロー、本当に今までご苦労様。」

「さあ、ここで疲れをじっくりと癒してちょうだい。」

 井王君、長谷さんを始めとする5人は満面の笑みで英雄を迎えた。

 アンダースローはまず母親であるアンダーラインと会い、久しぶりの再会を喜んだ。

 今度はダイヤモンドリングとクリスタルロードに会い、秋からはクリスタルロードの面倒をしっかり見ていくことをダイヤモンドリングに伝えた。

 そして最後にスペースバイウェイとフロントラインのいる馬房にやってきた。

 すると、そこには以前よりやせ細った姿で牧場に戻ってきたスペースバイウェイがいた。

『こんにちは…って、おい、どうしたんだよ!バイウェイ!病気なのか?』

 アンダースローは驚きながら問いかけた。

『ママは病気なんかじゃないもん!きっとすぐに元気になるんだから、そんなこと言わないでよぉ!』

 かたわらにいたフロントラインは怒りながら詰め寄った。

『こんにちは。久しぶりね、アンダースローさん…。私は大丈夫よ…。』

『そんなこと言っても、以前の姿と全然違うじゃないか!病院に行った方がいいんじゃないのか!?』

『病院なんか行かなくていいもん!ママは私とずっといっしょに過ごすって言ってくれたもん!』

『そんなこと言っても…。』

『アンダースローさん、心配しないで…。私は何があってもフロントラインを立派に育てるって決めたから、こんなことには負けないわ…。産まれてすぐに母を失った私が…どんな思いをしたか…。あんな辛い経験を…、この仔にはさせたくないの…。』

 スペースバイウェイはゼイゼイ息をするような言い方で説得した。

『君がそう言うのなら、分かった。でも何かあったらすぐに知らせてくれよ。』

 アンダースローはそう言うと、渋々その場を去っていった。

 一方のスペースバイウェイも、入院してフロントラインと離れたまま延命処置を受けるより、自分の寿命を縮めてでも娘を育て上げる道を選んだだけに、弱音を吐くわけにはいかなかった。

 牧場のスタッフも昼夜交代で働きながら、スペースバイウェイを始めとする馬達を見守り続けた。


 9月。いよいよ仔馬が親離れをする時期がやってきた。

 アンダースローは1ヶ月間、牧場でじっくりと休んで英気を養った後、クリスタルロードとフロントラインのコーチをする準備を整えていった。

 一方のクリスタルロードはアンダーラインの助言も受けて、母親から離れていくための心の準備をしていた。

 一方、フロントラインは母親のそばを離れようとせず、べったりとくっついたまま日々を過ごしていた。

 そんな中でもスペースバイウェイの症状はさらに進行していき、ケイ子と珪太の診断では、もはや今月が限界だろうということだった。


 9月中旬。井王君、長谷さん、珪太がダイヤモンドリングをクリスタルロードから離す作業をしている中、伸郎とケイ子はスペースバイウェイの容体を見ようと馬房にやってきた。

 するとそこに待っていたのは、とうとう立ち上がれなくなってしまったスペースバイウェイの姿だった。

 かたわらではフロントラインがまるで『ママ、起きてよお!もっとがんばってよお!』と言っているかのように泣き叫んでいた。

 すでにスペースバイウェイの体はボロボロで、もはやいかなる手当てを施しても助からないことは目に見えていた。

「これはひどいわね。何とかここでできる限りの延命治療を続けてきたけれど、もう限界ね。」

「ケイ子、それは本当か?」

「ええ。こうなったらメープルパームの時と同様なことを考えなければいけないわね。」

「まさか、自分達の手で痛みを取り除き、楽にするということなのか?」

「……。」

 ケイ子は黙ったまま、コクリと首を縦に振った。

 それを見た伸郎は、母親に寄り添うフロントラインを見つめながら、生後2週間のスペースバイウェイを母親から引き離し、自分達の手でメープルパームの最期を見届けた時のことを思い出した。

(まさか、スペースバイウェイを母親から引き裂いただけでなく、仔とも引き離す選択を迫られることになるなんて…。こんなことをしたらフロントラインには間違いなく恨まれるだろう。でもスペースバイウェイが苦しむ姿を見続けるのも辛いし…。一体どうすればいいんだ…。)

 伸郎が考え込んでいると、ケイ子は

「後の判断は伸郎さんに任せます。私は今から、あの時メープルパームに施したのと同じ薬を準備しておきます。もしもゴーサインが出たのなら、その薬を持ってここに戻ってこようと思います。」

 と言い残して、馬房から出ていった。

 それから伸郎は作業中も、食事中もどうすればいいのか悩み続けた。

 この週はクリスタルリングが阪神競馬場での新馬戦に出走するため、本来なら出かけていかなければならなかったが、結局井王君に行かせることにした。

 そうしている間にも横たわったままのスペースバイウェイはゆっくりと衰弱していった。

 このままではこの馬を楽にさせることができないまま、ただ苦しみを与えるだけになってしまう。

 もう助からないと分かっているのであれば、できるだけ苦しませないようにしてあげたい。

 でもそれを理解できないフロントラインは一体どう思うんだろう…。

 ましてスペースバイウェイは最後まで自分の仔の面倒を見続けようとしている…。

 もしスペースバイウェイが僕と会話ができるのなら、何て言うのだろう…?

『たとえ自分がどうなっても…、私はこの仔を立派に育て上げてみせます…。この仔を元気な姿で送り出せるのなら…、私は…どんなに苦しんでもかまいません…。』

 と言うのだろうか?

 彼がそれをスペースバイウェイに問いかけたところで、馬は何も答えてくれなかった。

 でも、伸郎はこの馬ならきっとそう答えるだろうと信じることにした。

「ケイ子、やっぱりスペースバイウェイは最後まで見守ることにする。やっぱりフロントラインと1秒でも長く一緒にいさせてあげることが最善の策だと思ったから。」

 彼は悩みぬいた表情でケイ子にそう伝えた。

「分かりました。では、スペースバイウェイが1日でも、1秒でも長く生きられるように延命処置をしていくことにします。」

「ありがとう。みんなにもそう伝えてくる。」

 伸郎はそう言うと、珪太、長谷さんと関西に行っている井王君にそのことを伝えた。


 2日後、すでにクリスタルロードはダイヤモンドリングのもとから離れ、アンダースローのもとで走ることを学び始めていた。

 一方、フロントラインはもう首を上げる力も残っていないスペースバイウェイにまだ寄り添い続けていた。

 すでに今日が命日になるだろうと見ているケイ子は夕方になると他の4人を集め、少し離れたところから2頭を見守り続けた。

『ママ…、おねがいだからがんばってよお…。死んじゃやだ…。私をひとりにしないでよお…。』

 フロントラインは奇跡を信じるように語りかけた。

『大…丈夫…よ…。あなたは…1人なんかじゃ…ないわ…。これから…あなたは…クリスタルロードや…アンダースローさんと…一緒に過ごしながら…、立派な…競走馬へと…成長…していくのよ…。』

 スペースバイウェイは残された命の火を燃やし尽くすようにして、娘に語りかけた。

『やだ…。ずっとママのそばにいる!』

『おかーさんは…、立派に…育った…ラインの姿を…見ることができて…、幸せだった…。もう…思い残すことは…ないわ…。さあ、行きなさい…。これから…壮大な…ドラマが…待っているわ…。おかーさんは…メープルパームと共に…、遠くから…見守って…いるからね…。』

『ママーーッ!そんなこと言わないでよお…!』

『ありがとう…。フロント…ライン…。幸せに…ね…。』

 スペースバイウェイはそう言い残すと、開いていた目を少しずつ閉じていった。

 そして少しずつ苦しみから解放されていき、安らかな表情へと変わっていった…。

『ママーーーーッ!!!』

 フロントラインは自分の顔を母親の額に当てたまま、泣き崩れてしまった。

 その様子を伸郎達5人は、涙を流しながら見守り続けていた…。

 こうして、スペースバイウェイは星空の下の世界から、星空の世界の中で待っている母メープルパームのもとへと旅立っていった…。


 翌日、涙かれるまで泣き続けたフロントラインは、井王君と長谷さんの手によって母親の眠る馬房から出され、クリスタルロードとアンダースローのもとへと向かっていった。

 その後、牧場では一時帰宅した長伸も加えた6人でスペースバイウェイの葬儀がしめやかに行われた。

 葬儀が終わった後、なきがらはたてがみを残して『メープルパーム号、ここに眠る』と書かれたお墓の隣に静かに埋葬された。

 そしてたくさんの花が供えられた後、『スペースバイウェイ号、ここに眠る』と書かれたお墓が作られた。

 長伸はそれに向かって手を合わせた後、牧場を後にし、再び美浦へと戻っていった。

 やがて日は暮れ、夜になっても伸郎は1人お墓の前から動こうとはせず、たくさんの星が輝いている夜空を見つめていた。

「スペースバイウェイ…。辛かったか?できることなら楽にさせてやりたかったが、最後までそれができずに、苦しい思いをさせてしまって、本当に申し訳なかった…。でも、これからはアルゴンランプやメープルパームとずっと一緒だ。フロントラインは自分達の手で立派に育て上げてみせるから、どうか君は何も心配せずに、母親といつまでも幸せに過ごしておくれ…。」

 伸郎は涙を流しながら、スペースバイウェイがメープルパームと共に、楽しそうに駆け回っている姿を夜空に思い描いた。

 夜空ではその呼びかけに応えるように、いくつもの流れ星が姿を現しては、消えていった。


(終わり)


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