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第32話 復帰するカヤと引退する2人

 年が明けて、星厩舎に所属する馬達は一斉に1歳ずつ年を取った。

 年明け最初の週では、ナイトオブファイアが東雲賞(1000万下、中山、芝1800m)に、ヘクターノアが中山金杯(GⅢ、中山、芝2000m)に出走し、それぞれ3着、16着になった。

 スペースバイウェイはその翌週、3歳以上1000万下(牝)(中山、ダート1200m)に、1年5ヶ月ぶりのレースとなるカヤノキと一緒に出走することになった。(カヤノキは格上挑戦。)

 このレースに関連して、星調教師はまずスクーグ桜と連絡を取り、左腕の手術を受けてギプスで固定している咲さんの近況を伝えた。

「桜さん。そういうわけで、今週日曜日にカヤノキの復帰レースを見届けた上で正式に厩務員を引退し、美浦を去っていくことが決まりました。」

『レースを見届けるということは、観客席から見ることになるんでしょうか?』

「僕としてはそれを勧めたのですが、彼女はパドックでの引き運動だけはやらせてほしいと言い出しまして、ちょっと頭を悩ませているところです。」

『本当ですか?まったく咲ときたら、骨折した腕でそんなことをするつもりだなんて、どこまで無茶をするつもりなのかしら…。そんなことできる状態ではないことくらい分かっているはずなのに…。』

「それでも彼女は最後まであきらめたくないと言っていますし、当日、痛み止めの注射を打った上で、様子を見ながら僕が判断します。もしも無理と判断すれば僕がやりますので、その点は心配しないでください。」

『まあ、先生がそう言うのなら…、お任せすることにしましょう。それでは、私達は今週末に有給休暇を取って、日本に向かいます。そこでレースを見届けた後、翌日に娘を連れて帰国しようと思います。今までご迷惑をおかけしましたが、娘が本当にお世話になりました。』

 桜は泣きたい気持ちをぐっとこらえながら言った。

「わざわざ、中山競馬場までお越しいただき、ありがとうございます。カヤノキはまだまだ仕上がり途上の段階ですが、何とか出走にこぎつけますので、よろしくお願いします。」

 星調教師も込み上げるものを感じながら、会話を締めくくり、電話の受話器を置いた。

 彼は気持ちを落ち着かせると、今度は道脇長伸騎手と連絡を取り、彼にカヤノキの騎乗を依頼した。

『先生、こんな僕に依頼をしていただきまして、ありがとうございます。』

「まあ、引退する咲に代わって2月からうちの厩舎の調教助手を担当してもらうことになるから、頑張ってほしい。勝ってくれとは言わん。だが、せめてこの馬の心の傷を癒し、レースに使っていけるように立ち直らせてほしい。それがお前の騎手としての最後の仕事だ。」

『分かりました。必ず期待に応えてみせます。』

「それじゃ、よろしく頼む。」

 星調教師は桜と話した時とは打って変わり、終始冷静な口調で話して会話を締めくくった。


 レース当日、第12レースの3歳以上1000万下(牝)には、スペースバイウェイとカヤノキを含む10頭の馬が出走した。

 カヤノキが格上挑戦をした理由は、スペースバイウェイと一緒に出走するためだった。

 復帰レースに向かう前、カヤノキは『やっぱりレース怖い!出たくない!』と言いながら、オドオドするばかりだった。

 そんな彼女に対し、スペースバイウェイはキャプテンらしく振るまい、懸命に不安を取り除こうとした。

『大丈夫よ。私と一緒に走るんだから。それに、サキおねーちゃんが見にきてくれるんだから、彼女のためにも走ろうよ。』

『でも彼女に大ケガをさせたのは私だし…。』

『絶対に恨んでなんかいないわ。おねーちゃんは決してカヤを恨むようなことは言わなかったし、大ケガの悔しさをあんたにぶつけるようなこともしなかったじゃない。むしろ復帰をずっと待ち望んでいたわよ。』

 カヤノキは、未だに深く残る心の傷と懸命に闘いながら、スペースバイウェイに説得される形で、レースに出走することになった。

 競馬場の関係者エリアには、長伸騎手の姿を見ようとする伸郎と珪太の姿があった。

(本当ならケイ子も来る予定だったが、お得意先の牧場にいる馬の治療と経過観察のために来られなくなってしまった。)

「珪太。これが弟の最後の騎乗となる。しっかりと見届けておいてくれよ。」

「はい。それにしても、本来ならスペースバイウェイを応援するべき立場なのに、変な感じですね。」

「まあそうだが、今日のところは長伸に注目することにしよう。まあ、単勝187倍だから勝てというのは酷だがな。」

「はい。僕もそこまでは言いません。でも少しでも上の順位になってほしいですね。」

 2人は長伸本人を不安にさせまいと、気丈にふるまいながら会話をしていた。


 一方、パドックの観客席では、アーロンと桜の姿があった。

 彼らは他のレースには見向きもせずに、娘の登場をじっと待ち続けていた。

「Saki is going to appear with No.7, Kayanoki, isn’t she?(咲は7番のカヤノキと一緒に登場するんだよな。)」

「ええ、そうよ。痛み止めの注射を打って、先生のゴーサインをもらった上での参加よ。正直不安だけれど、出るからには何とか無事に役割を果たしてほしいわね。」

「Yeah. We can’t do anything now, but let’s ease her mind after this race.(ああ。今は何もしてやれないが、このレースが終わったら、彼女の心をねぎらってやろうな。)」

「そうね。ボロボロになるまで頑張り抜いた彼女を、これからは私達が支えていかなければね。」

 2人はこのレースが終わったら関係者入り口の前に移動し、娘を出迎えることになっていた。

 そして娘と3人で一夜を過ごした後、翌日にハワイへと飛び立っていく予定になっていた。


 メインの第11レースに出走する馬達がコースへと向かっていってしばらくすると、いよいよ第12レースに出走する10頭の馬達が姿を現した。

 8番をつけたスペースバイウェイ(単勝17.3倍、6番人気)は、村重君に引かれながらパドックを歩いた。

 そして7番をつけたカヤノキは、スクーグさんに引かれながらスペースバイウェイのすぐ前を歩いていた。

(スクーグさんはそれまでつけていた三角巾を外してギプスを厚手のコートで隠し、麻酔のためにほとんど感覚のない左手にロープを巻き付けた状態で懸命に歩き続けた。)

 その姿を見た両親は、何か声をかけたい気持ちを懸命に抑えながら、娘の姿を見守り続けた。


 しばらくすると、久矢君や道脇騎手をはじめとする10人の騎手が姿を現し、あいさつをした後、各馬に散らばっていった。

「咲さん、よろしくお願いします。」

「…こちらこそ…。」

 道脇騎手の問いかけに、スクーグさんは震える声で返した。

 それ以降はお互い何も言わないまま、道脇騎手はカヤノキにまたがった。

 そして、前の馬に続いて再び周回を始めた。

(騎手として馬に乗るのはこれが最後だけれど、来月からは調教でこの馬と付き合っていくことになる。だから、せめてこのレースで良き関係を作らなければ…。そのためにも、こんなところで泣くもんか。)

 彼は観客席にいる父と兄の姿を見ても一切表情を変えることなく、レースに向けて気持ちを高めていた。

 一方のカヤノキも不安と闘いながら、それでも自分を支えてくれたスペースバイウェイやスクーグさん達の為にも、懸命に気合いを入れていた。

 その様子を、スペースバイウェイにまたがっている久矢君は後ろから神妙な表情で見つめていた。

(サキ…。あのケガさえなかったら、君はきっとたくさんの馬達を鍛えて強くし、立派な調教助手に出世していけたはずなのに…。僕は君を身代わりにしてしまった挙句、助けてやれなかった…。本当にごめん…。でも今日のレース、きっと勝つからな。)

 たとえ勝っても、彼女は自分のもとを去っていってしまうという事実は変わらない。

 だけど、せめてこのレースを勝ってスペースバイウェイと一緒に彼女を送り出してやろうと心に誓っていた。

 しばらくすると10頭の馬と10人の騎手、そして馬を引く人達は、パドックの会場を後にして、地下馬道へと向かっていった。

 アーロンと桜の2人はパドックに誰もいなくなると、娘の後を追うようにして本馬場の方へと向かっていった。


 地下馬道から本馬場への出口では、引き運動を担当していた人達が各自で馬の手綱を外し、1番の馬から順にダートコースでウォーミングアップを開始した。

 スクーグさんもカヤノキと道脇騎手と共に本馬場に姿を現すと、

「それじゃ道脇さん、よろしくお願いします。」

 と小声で言いながら、右手でロープを外した。

「分かりました。」

 道脇騎手は小声で返すと、カヤノキを勢い良く走らせていった。

 スペースバイウェイと村重君、そして久矢君は、それから10秒程遅れて本馬場に姿を現した。

 そこで待っていたのは、抑えていた気持ちをとうとうこらえきれなくなり、顔をくしゃくしゃにしながら泣きじゃくるスクーグさんの姿だった。

(サキ…。今まで本当にありがとう。)

 彼はこれからレースに挑んでいくにも関わらず、その姿を見て思わず涙ぐみそうになってしまった。

 村重君は、スペースバイウェイをつないでいたロープを外すと、すぐにスクーグさんのそばに行き、彼女を抱えるようにして、来た道を引き返そうとした。

 その姿を見届けながら、久矢君とスペースバイウェイは、ダートコースへと飛び出していった。

「Her career was over just now…(彼女のキャリアは、たった今終わったんだな…。)」

「そうね。これからは私達が、咲を幸せにしていかなければ…。」

 アーロンと桜は泣きじゃくりながら地下馬道に姿を消していった娘の姿を見ながら、すっかり感傷に浸っていた。


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