第30話 サキの異変
10月のレースの後、スペースバイウェイは調子を落としてしまったため、しばらく休養に入ることになった。
一方、1年以上の休養のために30kg以上太ってしまったカヤノキは、他の馬達と積極的に併せ馬を行い、少しずつ馬体重を落としていった。
11月の時点での厩舎の馬達の成績は次の通りだった。
ヘクターノア… 15戦4勝(オープン、GⅢ1勝)
オーバーアゲイン… 16戦3勝(1000万下)
スペースバイウェイ …16戦3勝(1000万下)
カヤノキ… 8戦2勝(500万下)
3歳馬
ソーラーエクリプス… 12戦1勝(500万下、現在放牧中)
トランクキャップ… 11戦1勝(500万下、現在放牧中)
ナイトオブファイア… 10戦2勝(1000万下)
2歳馬
ロマリア… 3戦0勝(現在放牧中)
メロディーオブラヴ… 2戦0勝(現在脚部不安のため、放牧中)
トランクインパクト… 3戦0勝
12月になると、カヤノキの馬体重は当初よりも10kg絞れ、少しずつ競走馬らしい体つきが戻ってきたものの、年内のレース復帰は断念することになった。
オーバーアゲインはこれまでの3勝がすべて2400m以上の距離で、長距離でないと勝負にならないため、出られるレースが少なく、陣営は次第に頭を抱えるようになった。
ヘクターノアは重賞勝ちのタイトルこそ持っているものの、現在の調教での走りではオープン特別でさえ勝てそうにない状態だった。
陣営はもしかしたら、あのエプソムCが一世一代の大駆けになってしまうかもしれないという思いがあった。
一方の3歳馬は、2勝目を挙げたナイトオブファイアが尾頭橋特別(中京、芝1800m)に、ソーラーエクリプスが3歳以上500万下(中山、ダート1200m)に出走し、それぞれ13着(シンガリ負け)、6着に終わった。
今年はこれまで厩舎で重賞1勝を含む7勝を挙げることができ、経営はどうにか軌道に乗りつつあった。
久矢君は星厩舎の馬だけでなく、他の厩舎からも騎乗依頼が増え、今年はここまで19勝を挙げた(通算79勝)。
そんな寒いある日の朝、久矢君とスクーグさんの2人は手分けをしながら馬の世話をすることになった。
「それじゃサキ、僕はノアとアゲインとカヤの世話を担当するから、君は残りの馬達を頼む。」
「うん、いいわよ。それじゃ、今日もがんばろうね。」
「ああ。」
彼らは短い会話を終えると、それぞれの馬房に行った。
久矢君はヘクターノアのえさやりや、床の掃除をしている間、少し気になることを思い浮かべた。
(サキ、最近食事の時によく薬を飲んでいるけれど、あれって何だろうな…。本人は『ちょっとした常備薬よ。』と言っていたけれど…。)
彼はそう思いながら、慣れた手つきでせっせと仕事をこなしていた。
10分後、ノアの世話が終わり、今度はオーバーアゲインの馬房に移って、また同様のことを始めた。
すると、近くの馬房から馬が『ヒヒーーン!!』と大きな声で鳴くのが聞こえた。
「何だろう?うちの厩舎のようだけれど。」
彼はその鳴き声が気にはなったものの、そのまま作業を進めた。
しかし、その馬の鳴き声は何度も続いた。しかも近くから聞こえるため、星厩舎の馬房にいる馬の声のようだった。
「スペースバイウェイかな?サキなら今頃はそこにいるはずだし。もしかして、バイウェイに何かあったのかも?」
彼はそうつぶやくとさすがに放ってはおけなくなり、仕事の手を止めてその場所へと行ってみることにした。
声の主は予想通りスペースバイウェイで、首を乗り出して『誰か来て!』とでも言っているかのように叫んでいた。
「おーい、どうしたんだ、サキ。バイウェイがケガでもしたのか?」
久矢君はそう言いながら、馬の脚元辺りを見た。
すると、そこには左腕を押さえながらうずくまっているスクーグさんの姿があった。
「サキ!どうしたんだ?」
久矢君は急いで馬房の中に入り、彼女のところに行った。
それにつられるようにしてスペースバイウェイも振り向いて、2人を見た。
「痛いよお…。」
スクーグさんは左腕を押さえたまま、苦悶の表情を浮かべていた。
「サキどうしたんだ?何でこんなことになったんだ?」
久矢君は彼女に寄り添いながら、原因を探るために辺りを見渡した。
すると、すぐ近くに、中身のこぼれたバケツが横たわっていた。
(そうか。バケツを持ち上げた時に、痛みが走ったのか。)
彼は原因を特定すると、即座に
「大丈夫か、サキ!すぐに医者に見せてやるからな!」
と言って手を差し伸べ、苦しみながら「痛いよお…。助けて…。」と言う彼女を抱え上げた。
「バイウェイ、知らせてくれてありがとう。サキは必ず助けてやるから、心配しないで待っていてくれ!」
久矢君はそう言いながらスペースバイウェイに頭を下げると、スクーグさんを抱えながら馬房を出て、星調教師のところへと向かっていった。
星調教師は事情を知るとすぐに村重君や、たまたま手伝いのために星厩舎に来ていた道脇騎手を呼び、久矢君達の仕事の引継ぎをお願いした。
そして久矢君とスクーグさんを車に乗せると、一緒に病院へと向かっていった。
病院に到着すると、久矢君は泣きながら痛がるスクーグさんを再び両腕で抱え上げて車を降り、入り口に向かった。
病院の中では事前に電話で連絡を受けた看護師の織川さんが待っていた。
「久矢君、お待ちしていました。さあ、こちらへどうぞ。」
「分かりました。サキをお願いします!」
スクーグさんを抱えた久矢君と織川さんは、車から降りてこちらに向かっている星調教師をよそに、急いで検査室へと向かっていった。
検査の結果は、左腕の疲労骨折だった。
久矢君がスクーグさんに寄り添い続ける中、星調教師は別室で織川さんと話し合った。
「疲労骨折ですか…。こうなっては痛み止めの薬を服用し続けてもだめですね。」
「はい、星先生。彼女の左腕の骨は老人の骨のように弱っていましたし、こうなっては厩務員としての仕事を続けていくのは不可能だと思います。」
「そうですか…。咲はカヤノキが復帰するまでどうしても厩務員を続けたいと言っていたので、その熱意に押される形で、痛み止めの薬をお願いしたのですが…。」
「私も彼女の気持ちは分かるのですが、今考えれば、痛み止めに頼るようになる前にドクターストップをかけておくべきでした。申し訳ありません。」
「いえ。僕が止めなかったのが悪いんです…。彼女のご両親にも申し訳ない限りです。」
2人はお互い頭を下げながら謝った。
(こうなっては咲には厩舎を離れていってもらうしかないな…。スペースバイウェイを始め、何頭もの馬達を鍛えて強くしてきた実績は認めるが、もう戦力にはならない。そうなったら誰か1人を新たに雇わなければ…。)
星調教師は後悔と悔しさに打ちひしがれながらも、新しい人を雇うなどの対策を考えなければならなくなった。




