第29話 お帰り、カヤ
10月。星厩舎では、カヤノキが昨年の9月以来、約1年ぶりに厩舎に帰ってきた。
厩舎の人達はこの馬の復帰を願って、1年間ずっと馬房を空けて待ち続けていただけに、彼らや馬達は喜んで出迎えた。
スペースバイウェイはその週の調教で、早速カヤノキと併せ馬を行った。
(鞍上はスペースバイウェイが久矢君、カヤノキが村重君。)
2頭は横に並んでスタートしたが、カヤノキは1年のブランクがあっただけにたちまち遅れてしまい、結果、スペースバイウェイよりも大きく遅れてのゴールとなった。
しかし、星調教師やタイムを計測したスクーグさんを始めとする陣営は、ひとまずカヤノキが再び走れるようになってくれたことに満足していた。
2頭は馬房に戻ってきた後、早速色々会話を始めた。
しかしスペースバイウェイは、カヤノキの表情が堅く、しかも暗いことが気になっていた。
『カヤ、まだ調教怖いの?』
『うん…。』
『馬体重、これから絞っていけそう?』
『……。』
『どうしたのよ。悩みがあるなら話してよ。こう見えても私は厩舎のキャプテンやっているのよ。』
『うん…。』
カヤノキは迷いながらも、今日走ったウッドチップを見て、故障した時のことがフラッシュバックしたことや、これから本当にレースで走れるようになるのかという不安、そしてスクーグさんが馬に乗ろうとしない理由を問いかけた。
『サキおねーちゃんなら、もう馬には乗らないそうよ。』
『えっ?どうして?』
『おねーちゃん、大ケガの影響で左手の握力が下がってしまったの。私、彼女に手術のあとを見せてもらったんだけど、目を背けたくなるような傷が残っていたわ。あれでは調教ができないのも納得できたわ。だから今は引き運動やプールの時しか調教には関わらないの。』
『そんな…。』
カヤノキはスペースバイウェイの話を聞いてショックを受け、涙を流しながらうつむいてしまった。
『私のせいだわ…。私が故障なんかしたせいで、彼女の人生を狂わせてしまった…。』
『だからそうやって泣かないの!』
スペースバイウェイはいつになく厳しい口調で、泣き出してしまったカヤノキいましめた。
『だって私…。』
『そんな顔を見てもおねーちゃんは喜ばないわ!おねーちゃんにだって辛い時はあるけれど、通院してリハビリをしながら厩務員として頑張っているわ。だからあんたもメソメソしないの!』
『……。』
カヤノキはスペースバイウェイに叱られても、何も返す言葉がなく、ただうつむくままだった。
厩舎に戻り、調教を再開したとは言え、彼女はこれから競走馬として復帰するまでに、いくつもの難関を乗り越えていかなければならなかった。
スペースバイウェイ達は、それが長い道のりになりそうなことを覚悟していた。
そんな中、菊花賞の週に、スペースバイウェイはレースに出走するために、トランクキャップ、ヘクターノアと共に東京競馬場へと向かっていった。
最初の出番はトランクキャップで、3歳以上500万下(芝2000m)に出走した。
キャップと鞍上の網走騎手は雨で不良馬場の中、道中で中段につけた後、最後の直線にある坂を上りきった時に先頭に立った。
そしてそのまま最後まで粘り切るかと思われたが、ゴール直前で坂江騎手騎乗のライジングホースに差しきられ、惜しくも2着に終わってしまった。
「やったーー。久しぶりに愛馬が勝ったぜーーい!イェーイッ!」
馬主の錦 里谷はそう言いながら大喜びした後、記念撮影でピースサインをしながら愛馬や調教師と共に写真におさまった。
2時間後、雨もすっかり止み、馬場も重に回復した頃、今度はヘクターノアがこの日のメインレースである富士S(GⅢ、芝1600m)に出走した。
このレースではGⅠマイルチャンピオンシップを目指す馬達が大勢集まり、GⅠ勝ち馬2頭を含む重賞勝ち馬が14頭も集う、18頭立ての豪華メンバーとなった。
ヘクターノアは単勝18.1倍の7番人気となった。
「うーーん…。うちも重賞勝ち馬なんだが、このメンバーではこれが精一杯かな…。」
「まあ、前走でエプソムCを勝ってから夏バテに悩まされたせいで、復帰がここまでずれこんでしまいましたからねえ…。」
星調教師と村重君は、渋い顔をしながら愛馬を見守った。
ヘクターノア鞍上の久矢君は、道中はエプソムC同様後ろに控え、最後の直線勝負に打って出た。
しかし最後の直線になっても全く伸びず、トランクミヤジマ、ミラクルロッジ、トランクアース、ワンダフルワールドらを始めとする他馬からみるみる引き離されてしまった。
結局ヘクターノアはシンガリの18着に沈んでしまった。
(勝ったのはミラクルロッジ。)
「休み明けとは言え、前走の1着から一気にこれか…。」
「何か天国から地獄になった気分ですね。」
星調教師と村重君は、さすがに落胆の表情を隠せずにいた。
しかし、すぐ後の最終レースでスペースバイウェイが3歳以上1000万下(牝)(ダート1600m)に出てくるため、素早く気持ちを切り替えることにした。
芝、ダート共に重の中、7枠10番で、単勝21.9倍(12頭立ての6番人気)のスペースバイウェイは、まずまずのスタートを切ることができた。
(よし。このまま芝を走っている間に好位につけるぞ。)
鞍上の久矢君は積極的に前を狙う作戦に打って出た。
(※東京競馬場のダート1600mはスタートして約100m芝コースを走った後、ダートに入ります。)
間もなく1番ジャスティスライト、9番トランクチャーチ、5番トランクビーケー、3番オーバーカムも前に進出していき、スペースバイウェイは4~5番手辺りで落ち着いた。
中段には7番トランクナデシコがおり、最後方は12番ドライユアティアズだった。
それからは特に順位があまり変動することもなく、レースは淡々と進んだ。
3コーナーの大けやき手前まで来ると、騎手達が1人、また1人と手綱をしごき始め、スパートを開始した。
(そろそろこの辺で仕掛けてみよう。)
久矢君は大けやきの横を通り過ぎると同時にスパートを開始した。
スペースバイウェイの前につけていた4頭のうち、ジャスティスライトは内でじっと機会を狙っており、オーバーカムは早めのスパートで単騎先頭に踊り出た。
一方のトランクチャーチとトランクビーケーはお互いをけん制しあっているのか、横に並んだままの状態だった。
後ろではトランクナデシコが外に持ち出しながら上がっていき、ドライユアティアズはまだ最後方のままだった。
最後の直線。久矢君は外に持ち出すと懸命にムチを入れた。しかし意図に反して一向に順位が上がらなかった。
一方、内ではジャスティスライトが上がっていき、オーバーカムを抜いて先頭に立った。
その後ろで並んで走っていたトランクビーケーとトランクチャーチのうち、前に出てきたのはビーケーの方で、チャーチは少しずつ遅れを取り始めた。
中段にいたトランクナデシコは伸びあぐねるスペースバイウェイを交わすと、ぐんぐん追い込んでいき、先頭のジャスティスライトと2番手のトランクビーケーに迫る勢いだった。
ドライユアティアズは終始最後方のままで、このままでは何の見せ場もないままレースが終わってしまいそうな状況だった。
オーバーカムとトランクチャーチはすでにずるずると順位を下げており、もはや5着以内に支払われる賞金も難しくなってきた。
先頭はジャスティスライト。しかしトランクビーケーも食い下がる。外からはトランクナデシコ。
トランクナデシコは粘るジャスティスライトを交わす勢いで追い上げてきた。しかし結局クビ差だけ届かず、ジャスティスライトに勝たれてしまった。
2着はトランクナデシコ。3着はトランクビーケー。
一方のスペースバイウェイは直線でほとんどカメラに映らないまま10着でゴールインした。
そしてドライユアティアズは最後まで敵に後ろを見せることのないまま、シンガリの12着になってしまった。
「結局今日は勝利なしに終わってしまったか…。」
「残念ですけれど、来週もレース控えていますから、切り替えましょう。」
星調教師と村重君はさばさばとした様子で、今日のレースを振り返り始めた。
(来週はロマリアとトランクインパクトが福島で2歳未勝利戦に出走します。)
『気合いが空回りしてしまったわねえ。せっかくカヤに勝利の報告をしようと意気込んだのに…。』
スペースバイウェイは、大敗をしてしまった悔しさをぐっと我慢しながら、他馬と一緒に馬運車で美浦へと帰っていった。
4歳10月の時点におけるスペースバイウェイの成績
16戦3勝
本賞金:1200万円
総賞金:3190万円
クラス:1000万下
名前の由来コーナー その20
・トランクチャーチ(Trunk Church)(メス)… 「トランク」は冠名、「チャーチ」は教会という意味で、母が「シャルロットチャーチ」だったことに由来します。
・ドライユアティアズ(Dry Your Tears)(メス)… インビジブルマン号物語にも登場する馬「ティアズインヘヴン」が重賞3勝の大活躍をしたことを受けて、馬名に「ティアズ」を使おうと思い、X JAPANの「Tears」という曲のサビ「Dry your tears with love」から命名しました。




