第2話 悲劇
スペースバイウェイ誕生から2週間が経ったある日の午前、ケイ子は馬の出産に立ち会うために、道脇牧場から車で20分くらいのところにある別の牧場に出向いていた。
少々難産ではあったものの、ケイ子や牧場スタッフの協力もあって、仔馬は無事に産まれた。
「皆さん、母馬も元気そうですし、仔馬もがんばって立ち上がろうとしています。良かったですね。」
ケイ子は馬から少し離れたところで、安堵の表情を浮かべながら言った。
「はい。無事に最初の一歩を踏み出すことができて光栄です。」
「道脇さん、本当にありがとうございました。」
スタッフの人達はケイ子に感謝の意を示した。
その時、ふとケイ子の携帯電話がピリリリッ!と鳴り出した。
表示されたのは井王君の携帯電話の番号だった。
「みなさん、ちょっとすみません。」
彼女はそう言うと、別の場所に移動して通話ボタンを押した。
「もしもし、鉄二君?」
『あっ、ケイ子さんですか!?』
井王君は切羽詰ったような声色で話しかけてきた。
「どうかしましたか?」
『実はメープルパームが!メープルパームが急に苦しみ出して倒れたんです!』
「えっ?それで馬の容体はどうなんですか?立ち上がれそうですか?」
『いいえ。横たわったまま立ち上がれずにいます!このままでは命が危ないです!どうかすぐに帰ってきてもらえますでしょうか!?』
「分かりました。急いでそちらに向かいます!」
彼女は会話を締めくくると、急いで牧場スタッフにそのことを告げた。
「皆さん、大変恐縮ではありますが、そういう事情なので、後のことはお願いしてもよろしいですか?」
「分かりました。後は自分達でやります。」
「どうかお気をつけてお戻りください。」
牧場の人達は突然のことに驚きながらも、了解してくれた。
ケイ子は持っていた道具を車に入れ、牧場を後にすると、急いで道脇牧場に向かった。
(メープルパーム、どうか無事でいて!幼い仔を残して死ぬんじゃないわよ!)
彼女は瞬間移動をしたいくらいの気持ちの中で、車を走らせた。
そして時間の流れがあまりにも長く感じられる中で、道脇牧場が姿を見せ始めた。
彼女は急いで牧場の駐車場に車を止めると、医療器具を持ちながら駆け足で馬房へと向かっていった。
馬房の前では、長谷さんが両手を合わせながら到着を待ちわびていた。
「円さん、お待たせしました!」
「ケイ子さん!こちらです!さあ、早く!」
2人は急ぎ足で馬房の中へと入っていった。
馬房の中央にはメープルパームが苦しそうに息をしながら横たわっており、伸郎と井王君が
「頑張ってくれよ!産まれたばかりのスペースバイウェイのためにも!」
「死ぬんじゃないぞ!絶対に生き延びて、元気になってくれ!」
と言いながら、懸命に励まし続けていた。
彼らのかたわらには状況を理解できないまま立ち尽くしているスペースバイウェイがいた。
ケイ子は「皆さんお待たせしました!」と言うと、井王君にスペースバイウェイを別の馬房に移動させるように指示を出した。
「それでは早速診察を開始します!」
彼女はスペースバイウェイが出ていったことを確認しながらそう言うと、聴診器を取り出して診察を開始した。
そして倒れた原因を把握すると、すぐに注射器に麻酔薬を注入し、注射を行った。
「伸郎さん、鉄二君、円さん。今から緊急手術を行います。私が指示を出しますので、皆さんは冷静に従ってくださいっ!」
「はいっ!分かりました!」
3人は一斉にそう返事をすると、ケイ子の助手として手術に関わった。
2時間後、メープルパームの手術は決して成功したとは言えないものの、何とか終了した。
ケイ子は慣れた手つきで傷口を縫い合わせると、手術の終了を宣言した。
しかし倒れたままのメープルパームは依然として予断を許さない状態だった。
彼女は麻酔が切れた時に、馬が痛みでショック死してしまわないか気になっていた。
他の3人もそれを気にしながら、それでも手分けして回復に努めた。
もちろんメープルパーム自身も生きようと必死だった。
まるで『産まれたばかりの…この仔を置いて…、死ぬ…もんですか…!何としても…生き伸びなければ…!』と自分に言い聞かせているかのようだった。
かたわらでは馬房に戻ってきたスペースバイウェイが、何故母親が倒れているのか分からないまま、まるで『ママ…。ミルク…。』と言っているかのように寄り添っていた。
「あきらめるな!」
「お願い!頑張って!」
「こんなところで死にたくなんかないだろ!」
伸郎、長谷さん、井王君は懸命に声をかけて励まし続けた。
その日の夜10時過ぎ、伸郎を馬房に残して外に出てきたケイ子は、井王君と長谷さんともしもの場合について話し合った。
その結果、2人の同意を得られたケイ子は彼らを部屋に戻し、自分は再び馬房に入っていった。
その間も伸郎は看病を続けていた。
しかしメープルパームは3時間前に打った麻酔が切れてきた故の痛みで、苦しむばかりだった。
「ケイ子!もう一本麻酔を打ってもらえないか!?」
伸郎はすがるような言い方で思わず叫んだ。
「もう用意した麻酔は全て打ちました。残念ですが、私の手ではこれ以上痛みを取り除いて、延命処置をすることはできません。正直、この馬に残された道はこのまますぐにでも痛みでショック死するか、ゆっくりと衰弱死するかの2通りしかないでしょう。」
「そんな…。」
絶望的なことを言われ、伸郎は思わず肩を落とした。
「私としてはいっそのこと…、この場で楽にしてあげた方がいいと思っていますが…。どうでしょうか…?」
ケイ子は泣きたい気持ちを懸命にこらえながら、声を震わせて言った。
「…そうか…。分かった…。」
伸郎はそう言って立ち上がると、スペースバイウェイを連れて別の馬房へと移動することにした。
「スペースバイウェイ…。これが、母親の生きている姿を見られる最後の時だ。こんな形でお別れしなければならないことを、どうか許してくれ。」
すでに彼の目には涙が流れていた。
一方のスペースバイウェイは状況が理解できないまま、母親の姿を見届けた後、伸郎に連れられて馬房を後にしていった。
一方のケイ子はそれを見届けた後、道具袋から一本の注射器を取り出した。
それから間もなく、伸郎が馬房に戻ってきた。
「ケイ子。スペースバイウェイはアンダーラインのところに連れていったよ。」
「ありがとう。それでは…、今から始めます。」
「分かった…。」
伸郎は震える声で言うと、ケイ子の隣に座った。
「メープルパーム…、ごめんね…。これが私にできる、最後の処置よ…。」
「さようなら、メープルパーム…。どうかこれからは、星になってスペースバイウェイとダイヤモンドリングを見守ってあげてくれ…。」
2人は涙をボロボロ流しながら、メープルパームを楽にするための処置を行った…。
翌朝、ケイ子は悲しみがいえないまま、疲れきった体にムチ打って別の牧場へと出向いていった。
一方、伸郎、井王君、長谷さんの3人は馬房の中で、すでに体が冷たくなってしまったメープルパームのために、ささやかな葬儀の準備をしていた。
(このままではスペースバイウェイも死んでしまう。何とかして自分達でミルクを与えて、育てていかなければ…。)
伸郎は深い悲しみに沈みながらも、何とか手を打とうと考え始めた。
その思いは井王君と長谷さんも同じだった。
しかし、生後2週間で親を亡くした馬を自分達の手で育て上げるということは、これまで前例がなかった。
当然、何をすればいいのか分からず、みんな途方にくれるばかりだった。
それでもこの世に生を受けた以上、何としても立派な競走馬に育て上げていかなければ…。
彼らは懸命に悲しみを振り払い、スペースバイウェイを育てていくための手を考え始めた。