第20話 走れバイウェイ!(前編)
翌日の土曜日、スペースバイウェイは自らの進退をかけて3歳未勝利戦(中山、ダート1800m)に出走した。
競馬場には星調教師と村重君と伸郎。そしてスクーグ桜さんの4人が駆けつけた。
(なお、桜は関係者エリアに入れなかったため、入場料を払って一般のお客としてやってきた。)
スペースバイウェイの単勝は4.1倍で、11頭立ての2番人気だった。
1番人気は単勝2.6倍のトランクベニー。3番人気は6.0倍のトランクリベラだった。
1枠1番のスペースバイウェイは、スクーグさんの代わりにやってきた村重君に引かれながらパドックを周回した。
しばらくして号令がかかると、11人の騎手が一斉に姿を現した。
久矢君はあいさつが済むとスペースバイウェイのところにやってきて、村重君と対面した。
「村重さん、よろしくお願いします。」
「こちらこそ。咲さんの分までよろしくお願いします。」
「はい。」
久矢君は大きくうなずくと、馬にまたがって、再び周回を始めた。
(いよいよ運命のレースだな。この11頭のうち、現役を続行できるのは1頭だけだ。その1頭がこの馬になるように、全力を出し切らなければな…。誰よりもこの馬の勝利を願いながら、大ケガでここに来られなかったサキのためにも…。)
彼はパドックの間、首にかけたスクーグさんのお守りを右手で勝負服越しに当てながら、彼女の奮闘の日々を思い出していた。
一方のスペースバイウェイも厩舎での出来事を思い出していた。
彼女の出発直前、手術後の検査を終えたカヤノキが厩舎に戻ってきた。
しかし彼女は大ケガの痛みや、スクーグさんに大ケガをさせた自責の念で憔悴しきってしまい、泣いてばかりで、せっかく助かった命を無駄にしてしまいかねないような雰囲気さえあった。
間もなく出発しなければならないスペースバイウェイは気持ちを整理できず、どうすればいいのかという状態だった。
そんな時オーバーアゲインとヘクターノアが
『バイウェイ。カヤのことは僕達に任せて、君はレースに集中してくれ。』
『そうだよ。君がレースで勝つことがカヤを元気付けることにもなるんだから。』
と声をかけてなだめてくれた。
『分かったわ。絶対に勝ってくる。だからカヤをお願い。』
スペースバイウェイはそう言い残して厩舎を後にし、カヤノキやスクーグさんのために、どうしても勝ちたいという思いをたぎらせていた。
パドックが終わり、誘導馬に続いて先頭でコースに姿を現すと、村重君は久矢君の顔を見た。
(久矢君、作戦はすでに伝えたとおりだ。頑張ってくれ。)
(分かった。頑張ってくる。)
久矢君はコクッとうなずくと、スペースバイウェイの手綱を軽くしごいて馬を走らせた。
2人で考えた作戦は次の通りだった。
『村重さんはどう考えていますか?』
『最内で特に逃げ馬もいないから、1コーナーまで並んだまま行くことができれば、コーナーワークで自然に先頭に立つことができる。先頭に立ったら、あとは最後まで逃げ切るつもりだ。』
『スタミナは大丈夫でしょうか?』
『咲さんが言うには、スタミナを無駄に消耗しなければ1800m持ちこたえられるということだ。そういう点では最内枠だったことは本当に好都合だったと思う。』
『そうですか。分かりました。』
失敗の許されない状況の中、彼はその作戦を踏まえながら、何度も頭の中でレースのシミュレーションをしていた。
一方、6枠6番のトランクベニー騎乗の坂江騎手(テン乗り。つまり初騎乗)も並々ならぬ闘志を燃やしていた。
(この馬は本来なら、重賞を勝つこともできる素質を持っているはずなんだ。そういう意味では去年12月の未勝利戦でハナ差2着に敗れ、その後に屈ケン炎になったことは相当に痛かったが、やるしかない。オーナーはすがる思いでそれまでの主戦騎手を降ろし、僕に最後の望みを託してきたわけだから、勝って報いるしかない!)
その気持ちは4枠4番のトランクリベラに乗っている網走騎手(ほとんどのレースに騎乗)も同じだった。
(オーナーが言うには、決して裕福ではない状況の中で、4100万円もの大金を払ってこの馬を買ってきたにも関わらず、脚部不安に悩まされて賞金75万円(未勝利戦で4着1回)しか稼げなかった。このままではオーナーに顔合わせができない。脚部不安は決してなくなったわけではないが、出走しなければ現役が終わってしまう。とにかくこのレースに勝たなければ…。)
このような気持ちは他の騎手や、これらの馬の関係者達も同じだった。
彼らはまるで最後の望みを賭けてプロ野球のトライアウトに参加しているような、そんな悲痛な気持ちでレースの発走を待ち続けていた。
伸郎と星調教師の緊張感は、レース発走の時間が迫るに連れて、ますます大きくなってきた。
「先生、いよいよですね。何だか胃が痛くなりそうですね。」
「ああ。これまで勝たないと引退という状況に立たされた管理馬を見てきたが、やっぱり何回経験しても緊張する。できればこの状況だけは避けたかったな。」
「僕もできることならこの状況は経験したくなかったです。今までこの状況で勝ちあがった管理馬はいるんですか?」
「いや、まだだ。」
「そうなんですか?」
「ああ。何とかして勝たせてやりたかったが、なす術もないまま引退に追い込まれ、泣いて悔しがる所有者を何人も見てきた。」
「それは辛いでしょうね。」
「はい。正直、こんな光景は見たくないです。だから、スペースバイウェイにはこの状況を打破してほしいです。」
「そうですか…。」
2人が会話をしていると、いよいよファンファーレが鳴り、スペースバイウェイと久矢君が真っ先に正面スタンド前のゲートに入っていった。
ウイナーズサークル付近で携帯電話を片手に持って立っている桜は、手を震わせながら、馬達がゲートインする姿を見つめていた。
(いよいよね。咲にはスペースバイウェイが勝ったら連絡するって伝えてあるけれど、果たして本当に連絡できるのかしら…。久矢君、お願い。咲のために勝って!)
彼女はこれまで経験したことのないような、恐ろしいまでの緊張感と闘っていた。
スペースバイウェイがゲートにおさまってから約1分後、プロミネンスが最後にゲート入りし、いよいよ運命のレースが始まった。
「さあ、走れバイウェイ!」
久矢君は馬に気合いを入れ、勢い良くゲートを飛び出した。
スタートでは7番のトランクリリーが痛恨の出遅れを犯してしまい、会場からはどよめきが起こった。
同時にトランクリリーの関係者の人達は頭を抱え、顔をしかめた。
スペースバイウェイを含む他の10頭は出遅れることもなく、横一線の状態でレースが始まった。
しばらくすると、トランクベニーとトランクリベラの2頭は後ろに下がっていき、後方待機に打って出た。
スペースバイウェイは2番のローマンオリンピア、9番のスペシャルデイオフ、11番のプロミネンスらと並走したまま正面スタンド前を通過していき、やがて1コーナーへと差し掛かった。
(さあ、バイウェイ。作戦通り、ここから先頭に立つぞ。でもこのコーナーは上り坂だから下手にペースを上げれば後でバテてしまう。だからうまくペース配分をしていくんだ。すぐそばに他馬がいて、怖いかもしれないが、いいな。)
久矢君はそう考えながら手綱を引き、早く単騎で先頭に立ちたがるスペースバイウェイをなだめた。
後方待機を選択したトランクベニーとトランクリベラはコーナーで内に入り、距離のロスを少なくする作戦に打って出た。
スペースバイウェイの隣を走っていたローマンオリンピアは、コーナーで少しずつペースを上げていき、並走を続けていた。
(この馬は過去に、他馬を嫌がるというクセがあった。だからそれに賭けてみよう。ベニー、リベラの有力馬もいるが、まずは人気の一角であるこの馬を崩さなければ…。)
ローマンオリンピア鞍上の逗子騎手は、自身が6番人気だけに正攻法では苦しいと読んで、スペースバイウェイのペースを崩しにかかってきた。
外を走っていたスペシャルデイオフとプロミネンスは、コーナーワークのために少しずつ後退していき、トランクベニーとの距離が少しずつ縮まっていった。
一方、出遅れたトランクリリーは内に入ったものの、相変わらず最後方のままだった。
2コーナーを回り切ると同時に、ローマンオリンピアは仕掛けたようにスペースバイウェイの前に出た。
(くっ…。2番手か。作戦ならもうすでに先頭に立っているつもりだったんだが…。だがバイウェイ。ここでかかってはダメだ。どうか落ち着いて僕の言うことをしっかりと聞いてくれ。)
久矢君は予想していなかった状況に一瞬動揺したが、はやる気持ちを抑え、スペースバイウェイをなだめながら走らせた。
レースに残された時間はあと1分。
その1分で、生き残れる1頭と、引退を迫られる10頭がいよいよ決まる…。
(後編に続く)




