第1話 仔馬誕生
ここは道脇牧場。オーナーである道脇 伸郎氏が経営している牧場だ。
従業員は彼の他に、獣医師である妻のケイ子、主に馬の飼育や調教などを担当している井王 鉄二、主に事務や予算管理を担当している長谷 円の4人だった。
なお、ケイ子は道脇牧場以外にも色々な牧場や施設に出向き、馬の診察や治療を行っていた。
(伸郎とケイ子の間には2人の男の子がいたが、長男は大学の動物学科に通っており、次男は騎手を目指して競馬学校に通っていたため、家を空けていた。そのため、井王君と長谷さんの2人は家族同然の存在だった。)
この牧場は競走馬の生産をしており、主に産まれてきた産駒を1歳の夏まで育ててセリ市に出し、落札されたお金で経営を成り立たせていた。
(ただし、売却せずに牧場所有の競走馬として走らせることもあった。)
現在、牧場の繁殖牝馬のスペースには2頭の牝馬がおり、別のスペースには2頭の1歳馬がいた。
そして、競走馬が1頭現役で走っていた。
ある年の春の時点における、各馬のプロフィールは次の通りだった。
現役馬
・アルゴンランプ(3歳)(オス)… アンダーラインの5番目の仔。セリでの値段に納得できなかったため、伸郎が自分で競り落とし、自らオーナーとなって走らせている。現在7戦1勝。クラスは500万下。獲得賞金は695万円。父はスキーキャプテン。
繁殖牝馬
・アンダーライン(15歳)… 競走馬としては未出走。5歳時に繁殖牝馬として購入され、これまで7頭の馬を産み落としてきた。去年の出産を最後に繁殖牝馬を引退し、現在は余生を送っている。
・メープルパーム(8歳)… アンダーラインの2頭目の仔。セリには出されずに牧場の所有馬として走り、通算20戦4勝、総賞金6910万円の成績を残して2年前に繁殖牝馬となった。去年、最初の仔であるダイヤモンドリングを産み、現在はダンスインザダークの仔を受胎している。
1歳馬
・アンダースロー(オス)… アンダーラインの最後の産駒。父はナグルスキー。
・ダイヤモンドリング(メス)… メープルパームの初仔。父はメジロライアン。
牧場では、間もなくメープルパームの仔が産まれそうだということで、受け入れ態勢を整えていた。
4月初めのある日、伸郎から出産の時が近づいてきたという知らせを受けたケイ子は、出張先での用事を済ませるとすぐに車で牧場に戻ってきた。
そして井王君と長谷さんを加えた4人は、各自の役割を確認した上で、いつ出産の時を迎えてもいいように交代で様子を見守り続けた。
母馬はその日の夜11時半頃に産気付いた。
夜12時に井王君と交代する予定になっていた伸郎は、急ぎ足でそのことを知らせた。
「えっ?本当ですか?」
遅番の準備をしていた井王君は驚いて返した。
「ああ。僕はすぐに馬房に戻るから、鉄君にはすぐにケイ子に知らせてほしい。」
「分かりました。ではすぐに行きます。円さんは今寝ていますが、どうしますか?」
「無理に起こす必要はない。ぐっすりと熟睡していたらそっとしておいてくれ。」
「はいっ!」
伸郎は井王君に頼みごとを済ませると、すぐに駆け足で馬房に戻っていった。
部屋で仮眠をとっていたケイ子は、井王君からの知らせを受けるとすぐに道具を手に取り、馬房へと向かっていった。
次に井王君は長谷さんが眠っている部屋に行った。
「円さん、メープルパーム産気付いたよ。起きられる?」
彼はささやくような声で呼んだ。
「……ん?」
暗闇の中で、長谷さんは眠そうな声で返した。
「あっ、ごめん。起こしちゃったね。」
「もうすぐ出産?」
「そうだよ。無理に起きてこなくてもいいんだけれど。」
「…大…丈夫…。今から…起きて行くわね…。」
長谷さんはふとんをめくる音を立てながら答えた。
「じゃあ僕、先に行ってるから。」
「はあい…。」
井王君は長谷さんのあくび交じりの返事を聞くと、そっと扉を閉め、メープルパームのところに向かっていった。
4人が馬房にそろってから30分後、いよいよ仔馬の脚が見え始めた。
「さあ、いよいよ誕生よ。みんな準備はいいわね?」
ケイ子は真剣な目でみんなに告げた。
「はい。」
3人も真剣な目で答えた。
ケイ子は脚をそっとつかむと、慣れた手つきでゆっくりと仔馬を引っ張った。
「いいぞ、その調子だ。」
「辛いだろうけれど、頑張ってくれよ。」
「もう少しの辛抱だからね。」
伸郎、井王君、長谷さんはおどかさないようにそっと声をかけながら、馬を励ました。
それからしばらくして、一頭の仔馬が見事に誕生した。メス馬だった。
「よし、産まれたぞ!」
「おめでとう、メープルパーム。」
「母も仔も、よく頑張ったわね。」
伸郎、井王君、長谷さんは拍手をしながら仔馬の誕生を喜んだ。
一方、ケイ子は仔馬に異常がないことを確認した後、聴診器を取り出して母馬の健康状態をチェックし始めた。
「ケイ子、どうだ?メープルパームの具合は?」
伸郎は仔馬が産まれた喜びに浸りながら聞いた。
「ちょっとぐったりしているようです。出産で相当体力を消耗したようですね。」
「えっ?本当ですか?」
伸郎は驚きながら問いかけた。さっきまで喜んでいた井王君と長谷さんも表情が変わった。
「この馬の健康状態がちょっと心配です。もしものことがあると、産まれてきた仔馬にも大きな影響が出てしまうので、母親が元気になるまで24時間体制で様子を見た方がいいのではと思います。」
ケイ子は厳しい表情で忠告をした。
「じゃあこれからは昼夜交代で馬の様子を観察することにしよう。井王君、長谷さん。しばらく業務がきつくなると思うが、頑張ってくれ。」
「分かりました。馬のためにも頑張ります。」
「それではここで泊り込みをしながら、私も頑張ります。」
彼らは仔馬が必死に立ち上がろうとしている中で、これからの予定について話し合いを始めた。
その中で、仔馬の名前をどうするかについても話題に出てきた。
この年の馬の名前については長谷さんが担当することになっていたため、彼女はあらかじめ考えておいた候補をいくつか挙げた。
彼女は前年に井王君が牝馬につけた「ダイヤモンドリング」という名前にちなんで、何か宇宙に関する名前をつけたいと考えていた。
そしていくつか名前を挙げて相談した結果、最終的に「スペースバイウェイ」という名前が採用された。
それから連日、4人は業務をこなしながら交代でメープルパームとスペースバイウェイの様子を見守った。
彼らにとっては作業の負担が増えたため、日を追うごとに疲れが見え始めたが、馬のために懸命に頑張り続けた。
スペースバイウェイは特に体に不安は見つからず、どうにか大丈夫そうだった。
しかし、母馬のメープルパームは体調が一向に上向かなかった。
母乳の出もあまり良くないため、牧場スタッフは2頭のこれからを気にしていた。
中でもケイ子はメープルパームのことが一番気になっていた。
しかし、他の馬の出産にも立ち会わなくてはならないため、連絡を受ける度に出かけていかなければならなかった。
彼女の不安はそれから間もなく、彼女の予想を超えた形で現実になってしまうことになるということを、牧場スタッフの4人はまだ知る由もなかった。
それはスペースバイウェイにとって、長く苦しい道のりの始まりでもあった。
名前の由来コーナー その2
・道脇… 「Byway」の意味が「脇道」なので、そこからこの名前に決めました。
・伸郎… 「トランクバーク号物語」で、村重厩務員(この作品では調教助手)の下の名前を考えていた時に、候補にあがっていた名前です。その時は最終的に「善郎」を使用し、「伸郎」はお蔵入りになりましたが、ここで採用することにしました。
・ケイ子… 名前を考えていた時、近くに太陽電池に関する本が置いてあったので、太陽電池の原料となる「ケイ素」から命名しました。
・井王… 「ケイ子」が元素名から命名したのを受けて、このキャラの名前にも元素名を使うことにし、「硫黄」から命名しました。
・鉄二… 学生時代に硫黄と鉄を混ぜて加熱し、硫化鉄にする実験を思い出して、下の名前には「鉄」を使うことにした結果、この名前にしました。他に「鉄太」も候補でしたが、発音しにくいため、却下しました。
・長谷 円… この作品の第1話を執筆している時に、夕飯でお茶漬けを食べたため、お茶漬けの「永谷園」からこの名前にしました。
・アルゴンランプ(Argon Lamp)(オス)… アルゴンは原子番号18番目の元素名。ランプはその場の思い付きです。
・アンダーライン(Underline)(メス)… ゲームの初期牝馬「アンダーラッピン」をヒントに、その場の思い付きで命名しました。
・メープルパーム(Maple Palm)(メス)… 「メープル」はカエデ、「パーム」はヤシ(椰子)という意味です。この馬が産まれた時はまだ競走馬としてデビューした馬がおらず、資金が減る一方で経営がかなり厳しい状態でした。その時に「トランクバーク」のことを思い出し、この馬にあやかって、名詞を2つつなげて命名しました。
・アンダースロー(Under Throw)(オス)… 母の名前「アンダーラッピン」にちなんでこの名前にしました。なお、ドラマチック競走馬列伝1を作る時、主人公の馬の候補でした。しかし美浦所属だったため、2作続けて美浦の馬を主人公にはしたくないという理由で、栗東に所属したインビジブルマンが主人公になりました。
(なお、英語で「Under Throw」と言っても、野球の下手投げの意味にはなりませんのでご注意ください。英語ではSubmarineとなります。)
・ダイヤモンドリング(Diamond Ring)… 皆既日食の直前や直後に見られ、太陽が月の陰から一角だけ顔を出し、指輪のように輝いて見える現象です。




