第14話 2人の距離
1ヵ月後の5月。スペースバイウェイとオーバーアゲインは東京競馬場で土曜日に行われる未勝利戦に出走することになった。
(スペースバイウェイは3レース、ダート1600m、オーバーアゲインは4レース芝2000m。)
これまで3戦続けてスペースバイウェイに乗っていた坂江騎手は京都競馬場に行っていたため、乗り替わりとなった。
そのため陣営は当初、久矢君に騎乗依頼をしようとしたが、前の週で騎乗停止処分を受けてしまい、オーバーアゲインを含めて乗ることが不可能になってしまった。
そこで星調教師は道脇長伸騎手に依頼することにし、本人と会って話をした。
「そういうわけで、今度のレースは君に任せようと思う。頑張ってくれ。」
「はい!一生懸命頑張らせていただきます!」
「頼んだぞ。今のうちに色々情報を仕入れておいてほしい。」
「はい。父にも連絡を取って、また特徴を色々つかんでおきます。」
道脇騎手は早速週末のレースに向けて気合いを入れた。
金曜日の夕方、オーバーアゲインとスペースバイウェイが馬運車に乗って東京競馬場に向かっていくのを見届けた後、スクーグさんと久矢君の2人は一緒に美浦トレセンの中を歩き回った。
そして人目のつかないところまでやってくると、建物を背に並んで座った。
彼らは黙り込んだまま、時々お互いの顔を見ながら空を見上げていた。
スクーグさんが何を言おうか考えていると、ふと
「あのさ…。」
と言う声がした。
彼女ははっとして「何?久矢君。」と言いながら、彼の顔を見た。
「あのさ…。明日2頭の馬がレース控えているのに、あの…。つき合わせちゃって、悪いな。」
久矢君は競馬場の調整ルームに向かうことができない悔しさを抱えながら、スクーグさんを気遣った。
「ううん。私は平気よ。オーバーアゲインとスペースバイウェイなら村重さんに任せたし、それに今は久矢君と一緒にいたかったから。」
「本当にか?」
「うん。だっていつもなら金曜日のこの時間、久矢君は競馬場に向かっていく時間でしょ?」
「まあな。」
「そして、日曜日の騎乗が全て終わるまで、外部とは一切連絡が取れなくなるでしょ?」
「ああ。それが決まりだからな。」
「寂しくない?」
「まあ…、寂しくないと言ったら嘘になるかもしれないけれど、仕事だから割り切って考えている。そう言うサキは?」
「…。」
スクーグさんは返事をすることができず、久矢君の方を向いたまま黙ってうつむいてしまった。
「やっぱり寂しいんだな。」
「…うん…。」
彼女は寂しげな表情で、うなずきながら答えた。
(いつもはみんなの前で堂々としているサキが、僕の前でこんな表情を見せるなんて…。僕が週末に競馬場で過ごしている間、彼女はずっと寂しい思いをしていたんだな。だからこそ今回は競馬場に行かず、僕と一緒にいることを選んだのか。)
スクーグさんの気持ちを理解した彼は、何か元気付ける言葉がないか考えた。
そして約30秒程考えた後、「あのさ。」と声をかけた。
「ん?」
「サキ、覚えているか?」
「何を?」
「君がスペースバイウェイを鍛えて強くしたいと言い出した時、僕が何を言ったか。」
「覚えているわよ。言われた時は悔しかったけれど、でもお父さんとお母さんの支えがあったから、心が折れることなく頑張り抜くことができたの。それにスペースバイウェイは私の調教に耐えてくれたし、今はみんなから認めてもらえる存在になったから、今となってはいい思い出よ。」
スクーグさんはうっすらと笑みを浮かべながら言った。
「君がそう言ってくれるのはいいんだけれど、それでも…、あの時君に危険なことをさせたくないという気持ちがあったとは言え、つい興奮してあんなこと言って、ごめんっ!」
久矢君は申し訳なさそうに謝った。
「まだ気にしていたの?私は気にしていないわよ。」
スクーグさんはケロッとした表情で返した。
「ど、どうも…、ありがとう…。」
久矢君は自分の言ったことを許してもらえて、少しは楽な気持ちになった。
「あのさ、サキ…。」
「何?」
「許してくれたお礼に、一つお願いがあるんだけど…。」
「どんなお願いなの?」
「今度、スペースバイウェイがレースに出る時には、僕を乗せてくれないか?僕、バイウェイを勝たせるために、精一杯の協力をするから。」
「もちろん、そのつもりよ。久矢君、目に見えて実力をつけてきているから。」
「ど、どうも、サキ。」
「当然のことよ。それに私達、仲間でしょ?」
「ま、まあな。それからさ、もう一つお願いをしてもいい?」
「何?」
「僕のこと、『久矢君』じゃなくて、別の言い方をしてもらえないかな?例えば『ヒロ』とか…。」
「うーん…。」
彼女は顔をしかめ、首をかしげながら考え込んでしまった。
「…ちょっと抵抗あるわね。私『久矢君』という言い方に慣れていたから。」
「それでも僕は、やっぱり『ヒロ』って言ってほしいんだ。僕達は同い年だし、それに僕は君のこと『サキ』って言っているし。」
「…。」
スクーグさんはどう答えていいのか分からず、黙り込んでしまった。
「すぐじゃなくてもいいんだ。」
「…うーーん、やっぱり私は『久矢君』と言い続けることにするわ。」
「…。」
久矢君はスクーグさんとの距離を縮めようとしたが、結局空振りになってしまった。
本当なら続けざまに、心の中にしまっていた気持ちを打ち明けようとしていたのだが、結局そこまでは言い出すことができなくなってしまった。
それでも彼らは辺りが暗くなりだす中、2人きりの時間を満喫していた。
翌日、東京競馬場の関係者エリアでは、道脇長伸騎手と村重君が打ち合わせをしていた。
「村重さん。星先生はどのような作戦で行くつもりと言っていましたか?」
「先生は『今回は村重君の実力を見るために、君に任せる。』と言っていましたから、僕が作戦を立てます。」
(※その頃、星調教師はオーバーアゲインの関係者と会話をしています。)
「そうですか。では、村重さんはどのような考えですか?」
「内枠(10頭立ての2枠2番)だから、1番のローマンオリンピアの出方を見ながら、内ラチ沿いにつけてほしい。」
「分かりました。道中はどうしましょう?」
「この馬は後ろから行ってはなかなか勝てないから、なるべく前の方につけ、後ろに下がっていかないようにしてほしい。」
「はい。ただ、直線が長いですが、スタミナは大丈夫でしょうか?」
「それはやってみなければ分からない。だが単勝34.8倍で、10頭立ての8番人気で勝つには、これしかない。とにかく懸命に鍛えてくれた咲さんを信じるまでだ。」
「分かりました。それから、ローマンオリンピアが控えた場合には、先頭に立ってもいいんでしょうか?」
「ぜひそうしてほしい。逃げが通じるのかどうかも見てみたい。」
「はいっ!」
彼らは念入りに打ち合わせをした後、いよいよレースに挑んでいった。
スペースバイウェイはレースが始まると好スタートを切り、先頭に立った。
(よし!このまま逃げに出られれば!)
道脇騎手は内ラチ沿いにつけようとして、チラッと左を見た。
すると、1番のローマンオリンピアが後ろからスルスルと伸びてきて、スペースバイウェイに並びかけようとする姿が見えた。
(おっと!ここは素直にこの馬を行かせよう。)
彼はそう判断すると少し手綱を引き、ローマンオリンピアを先頭に立たせた。
道脇騎手はそれを見届けるとスペースバイウェイを内ラチ沿いに寄せ、単独2番手で向こう正面を走り続けた。
すぐ後ろには4番のプロミネンスと5番のトランクリリーが追走し、大外からは少し出遅れた10番のトランクナデシコがスルスルと上がってきた。
一方、人気を集めた9番のシーラカンスは後方に待機していた。
(ローマンオリンピアはかかっているのかな?後ろから並びかける馬もいないし、もしかしたらペースがちょっと速いのかも…。)
彼は3コーナーを回りながら、そう考えていた。
スペースバイウェイは内ラチ沿いを走りながら4コーナーを回り、直線入り口でローマンオリンピアに外から並びかけた。
(よし、行け!先頭に立って粘りきれ!)
道脇騎手はムチを入れてスパートをかけた。
スペースバイウェイはそれに応えて先頭に立った。
(ちなみに、スペースバイウェイが最後の直線で先頭に立つのはこれが初めてです。)
ゴールまではまだ距離が残っているが、もしかしたらいけるかもしれない。
村重君も道脇騎手も、そういう希望を抱いていた。
後ろには相変わらずプロミネンス、トランクリリーが追走していた。
スタートからずっと外を走っていたトランクナデシコは、坂で外によれてしまい、他の馬達とはかなり離れた場所で走っていた。
後方待機のシーラカンスは直線勝負に賭けて猛然とスパートし、差をぐんぐん縮めてきた。
坂を登りきって残りはあと200m。スペースバイウェイは後続が迫り来る中、懸命に先頭を守り続けていた。
「行け!最後まで粘りきれ!」
村重君は懸命に叫んだ。
しかしそれから間もなく、スペースバイウェイはずるずると後退を開始した。
(こら!あと少しなんだぞ!頑張ってくれよ!)
道脇騎手は懸命に手綱をしごき、奮起を促した。
しかし反応は鈍く、トランクリリーに交わされてしまった。
そのトランクリリーは一瞬先頭に立ったものの、すぐにトランクナデシコに交わされてしまった。
一方のプロミネンスは一度もスペースバイウェイの前に立つことなく、ずるずると後退していった。
結局レースは、トランクナデシコが大きな距離のロスをものともせずに快勝した。
後方から追い込みを見せたシーラカンスは3着、トランクリリーは4着。そしてスペースバイウェイは7着でゴールをした。(プロミネンスは9着。)
「うーーん、また負けてしまったなあ…。まだまだ実力不足なのかなあ…。」
村重君はため息をつきながら言った。
(だめだったか…。親父達が懸命に育てて、やっとの思いで競走馬になったのに…。)
道脇騎手はそう思いながら引き上げ場所にやってきて、父親である伸郎と対面した。
「親父、すみませんでした。ほとんど距離をロスすることもなく、作戦としてはうまくいった方なんですが…。」
「気にしないでくれ。ただ、残り200mまではいけるんじゃないかと思ったがな。」
「僕もそう思いました。今度乗せてもらえたら、何としても1着を取りたいです。」
「頼んだぞ。期待しているからな。」
「はい!」
2人は久しぶりに再会できたことを喜びながら、レースについてあれこれと振り返っていた。
3歳5月の時点におけるスペースバイウェイの成績
6戦0勝
本賞金:0円
総賞金:180万円
クラス:未勝利
ちなみにこの後の4レース、3歳未勝利戦に出走したオーバーアゲインは6着でした。
レース後、星調教師は「2000mではまだ短い。次は2400mで行く。」と宣言しました。
名前の由来コーナー その11
・トランクナデシコ(Trunk Nadeshiko)(メス)… 「トランク」は冠名。「ナデシコ」はサッカーの「なでしこJAPAN」にあやかって命名しました。
・プロミネンス(Prominence)(オス)… 辞書には「突出物、目立つこと」と書いてありますが、個人的には太陽の表面から立ち上る火柱をイメージして命名しました。
・トランクリリー(Trunk Lily)(メス)… 「トランク」は冠名。「リリー」は植物の「ユリ」です。古い競走馬育成ゲームで、「シルバーリリー」という馬が大怪我を乗り越えてGⅠ安田記念を制覇したことを思い出し、命名しました。




