第11話 賭け
スペースバイウェイが育成施設で休養しているある日、長谷さんは道脇牧場の事務室で自分の椅子に座りながら、衛星放送で冬至ステークス(1600万下、中山、芝2500m)に出走したアンダースローの様子を見ていた。
(当日、中山競馬場には伸郎が駆けつけていた。ケイ子は馬の診察のために出かけており、井王君は休暇を取って両親の元に里帰りをしていた。)
アンダースローは前走の立冬特別(1000万下、東京、芝1800m)を勝ち上がり、この日は昇級初戦だった。
予想屋の人達はまだこのクラスでは通用しないと思ったのか、それとも前走よりも馬体が6kg増えたことが響いたのか、単勝倍率は81.0倍で、12頭立ての11番人気と低かった。
「うーーん…、人気が低いと不安になるわねえ…。」
彼女は思わず腕組みをしながらつぶやいた。
6枠7番のアンダースローはレースがスタートすると、中段よりも後方の場所を選択して内に入り、有力馬のトランクミヤジマをマークする形になった。
そしてそのまま内を走って、内回りコースをぐるっと1周回った。
2週目の第4コーナーまでやってくると、鞍上の騎手の手が動き、トランクミヤジマとほぼ同時にスパートを開始した。
しかしそこから末脚を発揮してぐんぐん順位を上げていくトランクミヤジマとは対照的に、アンダースローは画面にほとんど映らなくなってしまった。
「ちょっとアンダースロー!伸びなさいよ!」
彼女の呼びかけもむなしく、アンダースローは勝ったトランクミヤジマから大きく遅れて11着に終わってしまった。
「はあ…。前走を勝って賞金1450万円(うち、牧場に入る分は1082万円)を稼いでくれたから、少しは資金に余裕ができたけれど、果たしてこれから勝っていけるのかしら…。栗東の相生厩舎に所属しているアルゴンランプも、もう2年間勝っていないし…。」
長谷さんはため息をしながら顔をしかめた。
(※アルゴンランプは3歳時の12月に500万下を勝って以来、10戦走って5着が1回あるだけで、それ以外は7着~13着という着順だった。)
スペースバイウェイとアルゴンランプに賞金を稼げるメドが立たない以上、頼みの綱はアンダースローしかいないだけに、彼女が不安になるのは無理もなかった。
そんな矢先、事務室の電話が「ピリリリッ!」と鳴った。
すっかり物思いにふけっていた彼女は思わずビクッと反応した。
電話番号の表示は星厩舎のものだった。
「もしもし。道脇牧場の長谷と申します。」
『星駿馬と申します。こんにちは。』
「こんにちは。スペースバイウェイがお世話になっております。」
『こちらこそ。今日はそのスペースバイウェイのことでお電話したいのですが、お時間はよろしいでしょうか?』
「はい、大丈夫です。ご用件は何でしょうか?」
『実はスペースバイウェイの調教法について相談したいことがありまして…。』
彼は続けざまに、ミーティングの席でスクーグさんから提案されたやり方を打ち明けた。
内容はえさの量を増やすこと。
坂路調教の本数をこれまでより一本増やすこと。
3頭で併せ馬をする時には、他の馬達は馬なりで走り、スペースバイウェイは2頭の間を全速力で走り抜け、他馬を怖がるクセを克服させること。
ウッドやダートなどの周回コースを単走で走る時には、ゆっくり走らせながら周回回数を増やし、スタミナをつけさせるということだった。
内容を聞いて、長谷さんは思わずはっとした。
「ちょ、ちょっと待ってください!スペースバイウェイにそんな調教をしたら故障してしまいますよ!」
『僕も咲にはそう言ったんだが、本人は「厳しいのは分かっています。でもこの馬に強くなってほしいんです。お父さんが体の弱かった私を鍛えて強くしてくれたように。」と言ってね。ゆずらないんですよ。』
星調教師は続けざまに、スクーグさんの意図を知った久矢君と意見が分かれてけんかになったこと。
そして彼が怒って
『お前がそんなに言うなら、勝手に鍛えろ!その代わり、僕はレースでは乗らない!レース中に故障を発生して、落馬して大怪我でもしたら、たまったもんじゃないからな!』
と冷たく言い放ったことや、それ以来、2人の関係がギクシャクしてしまったことも伝えた。
しかし、それでも彼女は
『久矢君がそう言うのなら、別にそれでもいいわ。でも私はあきらめない。私一人でもこの馬を強くしてみせる!お父さんだって、最初はお母さんやお医者さんから無茶だと言われて反対され、孤立していた時期があったわ。それでも私はお父さんに鍛えられたおかげでお医者さんの宣告を覆し、今こうやって元気に生きていられるの。』
と言って、最後まで信念を曲げなかったことも打ち明けた。
「そうですか。スクーグ厩務員さんは本当に馬のことを思ってくれているんですね。気持ちは分かりました。でも、本当にうまくいくんでしょうか?」
『そればかりは僕にも分からない。久矢君はまだ彼女を信じられず、村重君は首をかしげるばかりだが、僕は彼女の熱意に賭けることにした。後はそちらの同意さえ得られれば、スペースバイウェイが帰厩次第、彼女のアイデアを実行に移してみようと思う。』
「そうですか。では、他のスタッフと連絡を取って、このことを相談してみることにします。結論はそれからでもよろしいでしょうか?」
『分かりました。では、連絡をお待ちしています。』
「こちらこそ、よろしくお願いします。」
『それでは、失礼します。』
星調教師はそう言って電話を切った。
(スペースバイウェイはそこまでしないと勝負にならないということなのかしら。確かに賭けではあるけれど、競走馬にとって、勝つって本当に大変なことね…。)
受話器を置いた長谷さんはそう思いながら考え込んでしまったが、しばらくした後、伸郎達に連絡を取り、伝えられたことを包み隠さず伝えることにした。
彼女から連絡を受けた伸郎は、早速星調教師と連絡を取った。
それから伸郎は牧場に戻るまでの間、あれこれ考えた末に、4人がそろったミーティングの席で、結論を出すことにした。
2日後、道脇牧場では全員がそろったため、ミーティングの席でスペースバイウェイのことについて話し合った。
「うーーん…。身軽な咲さんなりの考え方があるとはいえ、果たしてうまくいくのだろうか…?」
「私としては、故障して未勝利のまま引退となる確率の方が高いと思いますが…。」
井王君とケイ子の表情は厳しかった。
「それでも、勝つためにはそれに賭けるしかないと私は考えています。幸い、アンダースローが立冬特別を勝ってくれた時の賞金があるので、未勝利戦のある来年の9月までの費用は捻出できそうです。ただ…。」
「ただ、何ですか?長谷さん。」
ケイ子は座ったまま、少し身を乗り出して問いかけた。
「私としては、アルゴンランプとの兼ね合いが気になるんです。この馬がこれまでに稼いだ賞金から、かかった費用を差し引くと、そろそろ赤字になりそうな状態なので、このまま2頭とも現役を続けていった場合、アンダースローが賞金を稼いでくれないとまた予算的に厳しくなっていきそうに思えるんです。」
「そうか…。それなら、アルゴンランプをどうするのかも考えなければならんな…。」
「そうですね。賞金を稼げるメドが立たない馬に、いつまでも月60万円の預託料を払い続けるわけにはいきませんから…。」
伸郎とケイ子はさえない表情で言った。
「それに、メープルパームを失って以来、繁殖牝馬がいない状況が続いていますから、できることなら繁殖牝馬を購入する資金もほしいです。」
「確かに彼の言うとおりですね。このままでは牧場から競走馬がいなくなってしまいますから…。」
井王君と長谷さんは繁殖牝馬にかかる費用も気にしていた。
4人はその後も意見を交換した。
そしてケイ子、井王君、長谷さんは伸郎の決断にゆだねることにした。
「みんな、意見ありがとう。以上を踏まえた上で自分の結論を言うと、僕は咲さんの思いに賭けてみることにする。そしてアルゴンランプには僕の方から相生厩舎に連絡して、今度の3歳以上500万下のレースに出走し、それで結果を出せなければ引退を考えようと思う。それでいいだろうか?」
伸郎がそう言うと、他の3人は迷いを振り切って納得した。
伸郎から一報を受けたスクーグさんは、スペースバイウェイが厩舎に戻ってきた日から、早速温めていたアイデアを実行に移した。
星調教師や久矢君、村重君は彼女が
「バイウェイ。あんたは強いの。きっと勝てるから、あきらめないで!」
「さあ食事の時間よ。以前よりも量が増えているけれど、残さずに全部食べなさい!あんたは他の馬達よりもたくさん食べて、体を大きくするの。」
「今週はたくさん走って疲れた?でも来週はもっと走るわよ。私は誰にも負けない身軽さを持ち合わせているんだから、脚にかかる負担は軽いはずよ!だから、故障なんかしたら承知しないからね!」
「これからはレースで負けても仕方ないという考えは許さないわよ!絶対に勝つつもりで、死に物狂いで走りなさい!」
と、彼女の父親ゆずりのやり方で、スペースバイウェイに厳しく、そして威勢のいい声で接する姿を目の当たりにすることになった。
星調教師は不安を抱えながらも、そんな彼女をじっと見守り続けていた。
名前の由来コーナー その8
・トランクミヤジマ(Trunk Miyajima)… 「トランク」は冠名。「ミヤジマ」は広島東洋カープが得点を入れた時と、試合に勝った時のテーマ曲、通称「宮島さん」から取りました。僕は中日ファンですが、得点テーマはこれが一番のお気に入りです。




