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深海からの呼び声  作者: 天月瞳


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深海からの呼び声

幼い頃の記憶について、鈴木が覚えていることはただ一つだけだった。


――夜の海には、近づいてはいけない。


なぜなのか、大人は決して教えてくれなかった。

その言葉をどこで聞いたのかさえ、彼は思い出せなかった。


後に両親から聞いた話では、かつて海辺の辺鄙な村に住んでいたことがあったという。

だが、彼が物心つく前に一家は都会へと移り住んでいた。


新しい家は内陸にあり、海とは無縁の生活を送っていた。

強いて繋がりを挙げるなら、鈴木が異常なほど海鮮料理を好むことくらいだった。

週に何度も、むさぼるように魚を食べていた。


彼が成人を迎えた、その夜。


黒い海が、夢に現れた。


広大で深邃な海面。波濤の音が脳裏を占拠する。

安らかな、静謐な感情が全身を満たしていく。

自分が海の中へと溶け込んでいくような感覚。


鈴木は、これほど純粋な幸福を味わったことがなかった。


その日からだ。

波の音が、時折耳の奥で微かに響くようになったのは。


実害がないため、彼はそれを放置した。


そのまま、十年が過ぎようとしていた。

正確には九年と十ヶ月。

三十歳の誕生日まで、あと一ヶ月という時だった。


その間に鈴木は安定した職に就き、一人暮らしを始めていた。


「また砂か。一体どこから入り込むんだ」

鈴木は忌々しげに玄関の砂を見つめ、箒を取った。


近頃の最大の悩みはこれだった。

掃いても掃いても、砂が尽きない。


昨晩、寝る前に掃除したはずなのに。

翌朝には、昨日よりも多くの砂が床にぶちまけられているのだ。


部屋に戻り、買ってきた寿司を取り出す。

大人になっても、彼の海鮮への執着は変わっていなかった。


パックを開ける。

生魚の匂いが鼻を突く。


鈴木は深く息を吸い込み、満足げに微笑んだ。

痒みを覚える首筋を掻きながら、彼は寿司を口に運ぶ。


舌の上で踊る生の魚肉。その味に満足して目を閉じた時。

次の貫に伸ばした指が、ふと止まった。


指先が湿っている。

醤油かと思ったが、違った。

指には、淡く透明な粘液がまとわりついていた。


鈴木はそれを指先で擦り合わせたが、さほど気に留めることはなかった。


テレビをつけ、ライブカメラが映し出す海面を眺める。

鈴木は微動だにせず、ただその画面を見つめ続けた。

耳の奥で、微かな波の音が聞こえる。

寄せては返す、その音が。

次第に、はっきりと。


まるで、母の胎内の羊水の中にいるような心地。


鈴木は微笑みを浮かべたまま、眠りに落ちた。


夢の中に、再びあの海が現れた。

彼は海面から、ゆっくりと沈んでいく。


沈んでいく。


世俗の重荷はすべて海面に残してきた。

筆舌に尽くしがたい解放感が全身を支配する。


だが、不意に耐え難い窒息感が彼を襲った。


「はっ……!」


鈴木は弾かれたように目を開け、辺りを見回した。

自宅の居間だった。


「寝てしまったのか……」


床がなぜか湿っており、白い透明な結晶が散らばっている。

「また何かをこぼしたか?」

鈴木はため息をつき、床を拭いた。


首筋に違和感がある。

砂利が皮膚の下を流れているような感触だ。

無造作にそこを掻きむしり、彼は浴室へと向かった。


いつものように顔を洗い、歯を磨く。


「ん……?」


なぜか、うがいをした水が苦く、塩辛い。

泡の混じった水を吐き出し、鏡を見る。

首の両脇に、細かな傷跡があった。


鈴木はさらにそこを二度、三度と掻いた。


「後で薬でも塗っておくか。最近、どうも変な感じするなぁ」


深く考えることなく、鈴木は着替えて仕事へ向かった。


「鈴木、お前なんか生臭くないか? 朝から魚でも食ったのかよ」

同期の同僚が鼻をひくつかせながら尋ねた。


「いや、そんなことはないが」

答えるのと同時に、鈴木は無意識に唇を舐めた。

自分の服の匂いを嗅いでみるが、特に異常は感じられない。


「まあいいや。それより鈴木、聞いてくれよ。あのハゲ上司がさ……」


同期の愚痴を聞き流しながら、また一日が過ぎた。

仕事帰りの鈴木は、自分へのご褒美に海鮮を買うことにした。


数匹の鮮魚を買い込むと、店主が売れ残りの魚介をおまけしてくれた。


「どう料理してやろうか」


足取り軽く家に戻る。玄関の砂など、もはや目にも入らない。

「よし。これほど新鮮な魚だ、素材の味を最大限に楽しむべきだな」


鈴木は包丁も使わず、両手で鮮魚を掴み、そのまま大口を開けて齧りついた。

血と内臓が全身を汚したが、心は満たされていた。


「さすがに高いだけはある。鮮度が違うな」


その夜、彼はまたあの海の夢を見た。

翌朝、目が覚めるとベッドは水に浸したようにびしょ濡れになっていた。

枕元には海草が絡みつき、小さな蟹が這い回っている。


着替えを済ませ、出社する。


今日、同期が何を話していたか、

彼の耳には全く届かなかった。


「もうすぐ誕生日だ。実家に電話でもしておくか」


思い立つまま、鈴木は実家の番号を押した。


「もしもし?」

受話器の向こうから、父の声がした。


「俺だ。そっちは変わりないか?」

「ああ、元気だぞ。お前の妹に子供が生まれてな。可愛い女の子だ」

「小森のやつ、手が速いなぁ」

「義弟に向かって失礼なことを言うな」


父の不機嫌そうな声を聞き、鈴木は慌てて話題を変えた。

「そういえば、昔の家は海の近くだったって聞いたけど、どこだったんだ?」


「……」


父はすぐには答えなかった。重苦しい沈黙の後、問い返してきた。

「……なぜ、そんなことを聞く?」


「いや、ちょっと思い出しただけだよ」


また沈黙。


父の声には、隠しきれない絶望が混じっていた。

「頼む……あそこへは行かないでくれ」


「どういう意味だよ」


「お前に伯父さんがいたことは知っているだろう?」


「ああ。若くして亡くなったっていう……」


「お前の伯父さんは三十歳の時……ちょうど今のお前と同じ歳だ。突然何かに取り憑かれたように、海へ入って自殺したんだ」


「いやいや、大げさだよ、俺が同じことするわけないじゃん。ただ場所が知りたいだけだって」


「……これが、宿命なのか」


「って、どこだ?」


父は長い間黙り込み、鈴木が苛立ち始めた頃。

ようやく、絞り出すような声で答えを告げた。


答えを得た鈴木は、適当な世間話をして電話を切った。

そしてその足で、ネットで列車の切符を予約した。


明朝に出発すれば、夕方には着く。

ちょうど、鈴木の三十歳の誕生日だ。


列車に揺られながら、微かな振動の中で鈴木の意識は朦朧としていった。

潮の香りが鼻を突き、波の音が幾重にも重なって耳を包む。


そして、目的地に着いた。

目の前には、夕日に赤く染まった、果てしない海が広がっていた。

浜辺には、まばらに観光客の姿がある。


鈴木は一歩、また一歩と前へ進んだ。


砂浜を越え、波打ち際へ。

足が浸かり、胸元が海水に呑み込まれていく。


さらに、前へ。

観光客が何かを叫んでいるのが聞こえたが、すべては波音にかき消された。




冷たい海水が首筋の傷跡に触れた瞬間、これまで抱えていた違和感が霧散した。


疼き続けていた「裂け目」が、

飢えた口のように一斉に開き、海水を貪欲に飲み込み始めた。


窒息感など、幻影に過ぎなかった。


鈴木は両腕を広げた。


ようやく、家に帰ってきたのだ。


海水が喉へと流れ込む。


苦しみはない。


ただ、かつてないほどの爽快感が、


そこにはあった。

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