辞書編纂者の最後の恋文
言葉は、牢獄である。 感情という名の形のない獣を、意味という名の檻に閉じ込め、定義という名の鎖で繋ぎ止める。 「嬉しい」と言った瞬間に、その喜びは記号へと成り下がり、「悲しい」と零した瞬間に、その痛みは一般化される。
僕――語講アキは、その牢獄の番人だった。 新しい辞書『新釈』の編纂。それが僕の生業であり、信仰であり、そして呪いだった。
「アキくん、この言葉の語釈、もう少しなんとかならない?」 そう言って僕の机に身を乗り出してきたのは、同僚の読ミコさんだった。 彼女は言葉を愛していた。ただし、僕のように「閉じ込めるため」ではなく、「解き放つため」に。
「『恋』の定義、ですか?」 僕は眼鏡を押し上げ、赤ペンで真っ赤に染まった原稿を差し出す。 「現在の案では、『特定の異性に強く惹かれ、その存在が常に念頭にある状態』としていますが。何か不満が?」
「不満だらけよ。全然足りないわ」 ミコさんは唇を尖らせる。 「惹かれるだけじゃない。胸が苦しくなるとか、世界が明るく見えるとか、そういう『色彩』が抜けてるわ。これじゃあ、ただの精神疾患の診断書じゃない」
「辞書は客観的事実の集積です。ポエムを綴る場所ではありません」 「じゃあ、この感情は何? 名前がついていない、このモヤモヤしたやつは」 彼女は自分の胸に手を当てて言った。 「アキくんと一緒に残業して、コンビニのアイスを半分こして、帰りの夜風が少しだけ冷たい時に感じる、この……『これ』。これは、どのページに載ってるの?」
僕は答えられなかった。 僕の脳内にある数万語のアーカイブを検索しても、その「これ(・・)」に合致する見出し語は見つからなかった。 それは「友情」にしては熱すぎたし、「愛情」にしては静かすぎた。
「……現在、調査中です」 僕は逃げるように目を逸らした。
それから半年。 『新釈』の完成を目前に控えた春の日。 ミコさんは、他社へ引き抜かれる形で編集部を去ることになった。
最終日の夜。 誰もいないオフィスで、僕は彼女に一通の手紙を渡した。 「……辞書の『あとがき』の草案です。目を通しておいてください」
彼女は不思議そうな顔をしながら、封筒を開けた。 中には、便箋が一枚。 そこには、僕の端正な字で、たった一行の「語釈」だけが記されていた。
【君】 (名)1.僕の辞書に載っていない全ての言葉。2.定義することを諦めさせる、唯一の存在。3.さよなら、と言いたくない理由。
ミコさんは、その手紙を読み終えると、ふっと短く笑った。 その瞳には、定義できないはずの液体が溜まっていた。
「……アキくん。これ、誤字があるわよ」 「え?」 「『さよなら』じゃなくて、『またね』でしょ」
彼女は赤ペンを取り出し、僕の「恋文」に、たった一文字の修正を入れた。 それは、どんな語釈よりも雄弁に、僕たちの関係を定義した。
「言葉にできないから、私たちは言葉を紡ぐのね」
彼女が去った後、僕は一人、静まり返ったオフィスで辞書を開いた。 「恋」の項を見る。 そこには、僕が書いた無機質な定義が並んでいる。 けれど、その行間には、目には見えない僕だけの追記が刻まれていた。
言葉は牢獄だが。 時として、その鍵は、伝えられなかった沈黙の中に隠されている。




