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短、短短、短短編  作者: 夜凪慶


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4/10

隣の家の完璧な晩餐

壁は薄かった。 どれくらい薄いかというと、隣人のくしゃみでこちらのティッシュが揺れるくらい、あるいは隣人の思考がこちらの脳内に直接漏れ出してくるのではないかと錯覚するくらいに薄かった。


木造アパート『落日荘』の202号室。 そこに住む僕――耳聡サトルの唯一の趣味は、その薄い壁を通して、隣の203号室の「幸せ」を盗み聞きすることだった。


「はい、あなた。今日はビーフシチューよ」 「おお、うまそうだな。ルナの料理は世界一だ」 「ママ、にんじんはいってる?」 「入ってるけど、細かく刻んであるから大丈夫よ。好き嫌いしないの」


ああ、なんて甘美な響きだろう。 203号室には、絵に描いたような幸福な3人家族が住んでいる。 旦那さんの太く優しい声。 奥さんの鈴が鳴るような明るい声。 そして、幼い娘の愛らしい声。


毎晩、午後7時きっかりに始まるその晩餐の音は、孤独な大学生である僕にとって、唯一の精神安定剤だった。 コンビニ弁当の冷たいプラスチックの味も、彼らの会話をおかずにすれば、三ツ星レストランのフルコースに変わる……というのは言い過ぎだが、少なくとも砂を噛むような味気なさは消える。


隣人の奥さんの名前は、味好ルナさんというらしい。 何度かアパートの廊下ですれ違ったことがある。 長い黒髪が似合う、儚げで、どこか影のある美女だ。 買い物袋にはいつも、新鮮な野菜や高級な肉が詰まっていた。 「いつも騒がしくてごめんなさいね」と彼女は恥じらうように微笑む。 「いえ、賑やかで楽しそうで、羨ましいです」と僕は本心から答える。


しかし、僕は一つだけ、奇妙な違和感を抱いていた。 僕は、旦那さんと娘の姿を、一度も見たことがないのだ。 アパートの入り口でも、ベランダでも。 出入りしているのは、いつもルナさん一人だけ。 旦那さんは在宅ワーク? 娘さんは不登校? まあ、現代社会にはよくあることだ。詮索は無粋というものだろう。


ある日のことだ。 いつものように午後7時、壁に耳を当てて(趣味が悪いのは自覚している)、彼らの団欒を楽しもうとした時だった。


『ガチャン!!』


皿が割れる音がした。 続いて、怒号。


「どうして食べてくれないの!?」 ルナさんの悲痛な叫び声だった。 「私がこんなに頑張って作ったのに! どうして! どうして腐っちゃうのよ!」


腐る? 妙な言葉選びだ。食べないから冷める、ではなく、腐る?


「……ごめんなさい。大きな声を出して」 すぐに声のトーンが落ちる。 「そうね、私が悪いのね。もっと美味しく作れば、食べてくれるのよね」 「……」 「……」 沈黙。 旦那さんも娘さんも、一言も発さない。 ただ、ルナさんのすすり泣く声だけが響いてくる。


僕は居ても立っても居られなくなった。 DV? 家庭内不和? あの幸せな食卓が崩壊の危機に瀕している。 僕は衝動的に部屋を飛び出し、203号室のチャイムを鳴らした。


ピンポーン。


しばらくして、ドアが開いた。 ルナさんが顔を出す。目は赤く腫れ、エプロンは少し汚れていた。


「……耳聡さん?」 「あ、あの、大きな音が聞こえたので……大丈夫ですか?」 僕は精一杯の勇気を振り絞った。 「もし何か困っているなら、僕で良ければ相談に乗りますし、その、警察を呼んだ方がいいなら……」


彼女はきょとんとして、それから、ふわりと笑った。 その笑顔は、廊下ですれ違った時よりも深く、妖艶で、そしてどこか「空虚」だった。


「まあ、優しいのね。……ちょうどよかったわ」 彼女はドアを大きく開けた。 「作りすぎちゃったの。よかったら、食べていかない?」


部屋の中からは、鼻腔を強烈に刺激する、極上のデミグラスソースの香りが漂ってきた。 僕は躊躇したが、好奇心と、彼女を助けたいという下心が勝った。 「……お邪魔します」


203号室に足を踏み入れる。 そこは、異様な空間だった。 家具がほとんどない。 テレビも、ソファも、本棚もない。 部屋の中央に、大きなダイニングテーブルが一つだけ鎮座している。 そして、その上には――


豪華絢爛な料理の数々が並べられていた。 ローストビーフ、パイ包みスープ、鮮やかなサラダ、そしてメインのビーフシチュー。 4人分どころか、10人は賄えそうな量だ。


しかし。 誰もいなかった。 旦那さんも、娘さんも。 椅子は4脚あるが、座っているのは「空気」だけだ。


「あれ? ご家族は?」 僕が尋ねると、ルナさんは僕を席に座らせながら言った。 「ああ、あの人たちなら、もう『お腹いっぱい』みたいだから」


彼女は甲斐甲斐しく僕の皿にシチューをよそう。 「さあ、冷めないうちに召し上がれ。最高の肉を使ったのよ」


僕は恐る恐るスプーンを口に運んだ。 ……美味い。 衝撃的なほどに美味い。 肉は舌の上で解けるように柔らかく、ソースは濃厚で深みがある。 「すごい……! こんなに美味しいシチュー、初めて食べました!」


「本当? 嬉しい!」 ルナさんは少女のように手を叩いて喜んだ。 「よかった。食べてくれる人がいて。作り甲斐があるわ」


僕は夢中で食べた。 食べる手が止まらない。 ふと、気になって尋ねた。 「でも、旦那さんと娘さんは、どこへ?」


ルナさんは、向かいの席の「誰もいない椅子」に視線を向けた。 そして、テーブルの上に置かれていたICレコーダーを指差した。


「……え?」


「再生ボタン、押してみて」


僕は震える手で、レコーダーのボタンを押した。


『はい、あなた。今日はビーフシチューよ』 『おお、うまそうだな。ルナの料理は世界一だ』 『ママ、にんじんはいってる?』


スピーカーから流れてきたのは、僕が毎晩聞いていた、あの「会話」だった。 ルナさんの声。男の声。子供の声。 全てが、録音されたもの。 いや、違う。よく聞くと、男の声も子供の声も、微妙にトーンを変えたルナさん自身の声だった。


「……声帯模写?」 僕は戦慄した。 彼女は毎晩、一人でこの豪華な料理を作り、一人で3役を演じ、レコーダーに合わせて会話をし、そして…… 手つかずの料理を捨てていたのか?


「寂しかったの」 ルナさんは頬杖をついて僕を見つめる。 その瞳は、深淵のように黒く、光を吸い込んでいた。 「理想の家族が欲しかったの。でも、生身の人間は汚いでしょう? 文句を言うし、裏切るし、好き嫌いをするし」 「だから、完璧な脚本を作ったの。完璧な演技で、完璧な食卓を演出したの」


彼女は立ち上がり、僕の背後に回った。 細い指が、僕の肩に触れる。


「でもね、やっぱり料理は、誰かに『食べてもらわない』と完成しないのよ」 「食材たちが可哀想でしょう? 誰の胃袋にも収まらずに、ただ腐っていくだけなんて」 「だから、探していたの」


彼女の手が、僕の首筋に這う。


「文句を言わず、私の料理を『美味しい』って食べてくれる、新しい家族を」


背筋が凍った。 逃げなきゃ。 そう思ったが、体が動かない。 手足が鉛のように重い。 視界が霞む。


「あ、あら……?」


「効いてきたみたいね」 ルナさんはクスクスと笑った。 「特製のスパイスを入れたの。筋肉を弛緩させる、魔法の粉よ」


僕は椅子から崩れ落ちた。 意識が遠のく中で、ルナさんが僕を見下ろしているのが見えた。 彼女は、うっとりとした表情で言った。


「安心して。あなたは最高の『旦那様』になれるわ」 「手足を切って、ホルマリン漬けにして、このテーブルに飾ってあげる」 「そうすれば、あなたは永遠に私の料理を見つめてくれるし、私は永遠にあなたのために料理を作れる」 「腐らない、裏切らない、完璧な家族の完成よ」


彼女は包丁を手に取り、レコーダーのスイッチを押した。


『おお、うまそうだな。ルナの料理は世界一だ』


男の声が響く。 それは、これから僕が永遠に聞かされることになる、呪いの賛美歌だった。


薄れゆく意識の最後、僕は思った。(ああ……壁が薄かったのは、彼女が隣室の様子を伺うために、削っていたからだったのか……)

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