死神デスマーチ
午前二時。 それは、草木も眠る丑三つ時であり、幽霊たちが活発化する魔の時間帯であり、そして何より――我々システムエンジニアにとっては「定時」と呼ばれる時間帯である。
「……バグだ」
僕は呟いた。 乾いた唇から漏れた言葉は、埃っぽいオフィスの床に落下して、誰にも拾われることなく消滅した。 画面の中で明滅するカーソル。 それはまるで、僕の残り寿命をカウントダウンする死の砂時計のようだ。
僕の名前は過労タスク。 名前からして既に人生の伏線回収が終わっているような気がするが、親を恨む暇があったらコードを書かなければならない。 ここは株式会社『ブラック・ホールディングス』。 光さえも脱出できない、重力崩壊した労働環境。
「帰りたい……」 それは願望ではなく、もはや生理現象だった。 呼吸したい、瞬きしたい、帰りたい。同義語である。
その時だった。 背後で、「気配」がした。 誰かが入ってきた音ではない。 空間そのものが切り裂かれ、異質な何かが「滲み出してきた」ような感覚。 室温が急激に下がる。 空調の故障か? いや、これは――殺気だ。
「……過労タスクだな?」
低い声。 地獄の底から響くような、あるいは錆びついた扉を無理やり抉じ開けたような声。
僕は椅子を回転させた。 そこに立っていたのは、黒いローブを纏い、身の丈ほどもある大鎌を持った、骸骨だった。 ハロウィンの仮装? いや、今は六月だ。 となると、答えは一つしかない。
「……死神さんですか?」 僕は尋ねた。驚きはなかった。 連日の徹夜で脳が麻痺しているせいか、あるいは「ようやく終わるのか」という安堵があったからかもしれない。
「そうだ」 死神は顎をカクカクと動かして肯定した。 「我は死を司る者。お前の魂の灯火が、今まさに消えようとしているのを感知してやってきた。過労死……現代特有の、愚かしくも悲しい死に様だな」
死神は鎌を振り上げた。 その刃は鋭く、蛍光灯の光を反射して冷たく輝いている。 「さあ、楽にしてやろう。現世の苦しみから解放され、虚無へと還るがいい」
「あ、ちょっと待ってください」 僕は手を挙げた。 タクシーを止めるような気軽さで、死の宣告を制止する。
「なんだ? 命乞いか? 無駄だぞ。お前の肉体は限界を迎えている。心臓は悲鳴を上げ、血管はボロボロだ。今ここで死なずとも、10分後にはカフェインの過剰摂取で急性心不全を起こす」
「いえ、そうじゃなくて」 僕は視線をモニターに戻した。 「今、コンパイル中なんです」
「……は?」 死神の眼窩の奥で、赤い光が点滅したように見えた。
「あと5分でビルドが終わるんです。これをサーバーにデプロイしないと、明日の朝9時のクライアント確認に間に合わないんですよ。わかります? 納品前のデスマ(デスマーチ)なんです」 「……知らん。我の知ったことではない」 「いや、困りますよ。今死んだら、誰がこのバグを修正するんですか? 佐藤さんはインフルエンザでダウン、鈴木さんは失踪中。僕しかいないんですよ、わかるでしょう?」
僕はキーボードを叩き続けた。 カチャカチャカチャカチャッターン! エンターキーを強打する音だけが、静寂なオフィスに響く。
死神は呆れたように鎌を下ろした。 「貴様……死ぬことよりも、仕事を優先するのか? それは魂の冒涜だぞ」 「優先順位の問題です。死ぬのは、納品した後でもできます。でも、納品は、死んでからじゃできないんですよ」
「狂っている……」 死神は呟いた。 「人間とは、生に執着するものではないのか? あるいは死を恐れるものではないのか? 貴様のその、病的なまでの責任感はどこから来る?」
「責任感? 違いますよ」 僕は充血した目で死神を見上げた。 「恐怖ですよ」 「恐怖?」 「ええ。死ぬことよりも、『納期を守れなかった時の部長の説教』の方が、100倍怖いんです。あんたの鎌より、部長の怒号の方が鋭いんです」
死神は沈黙した。 数秒の静寂の後、彼は深く、深くため息をついた(肺がないのに)。
「……哀れな」 死神は言った。 「貴様は既に、死んでいるも同然だな。魂が鎖で繋がれている。死という解放さえも受け入れられぬほどに、現世のシステムに汚染されている」
「御託はいいんで、手伝ってくれませんか?」 「は?」 「あんた、浮いてますよね? 物理干渉できます? そこのコーヒー取ってくれません?」
「我をパシリに使うな!」 死神が激昂した。 その時、モニターに無慈悲なエラーメッセージが表示された。
『Error: 404 Not Found』 『Segmentation Fault』
「ああっ!」 僕は頭を抱えた。 「なんでだ! ここは直したはずなのに! くそっ、また最初からログを洗い直しかよ……!」 絶望。 目の前が真っ暗になる。 これならいっそ、殺してくれ。今すぐに。
僕が項垂れていると、横から骨ばった手が伸びてきた。 死神だ。 彼はキーボードに手を置くと、目にも止まらぬ速さでタイピングを始めた。
「……え?」
カカカカカカカカカカッ! その速度は、音速を超えていた。 残像が見えるほどの高速入力。
「ここだ」 死神が言った。 「128行目。変数の定義が間違っている。あと、ここのループ処理は無駄が多い。メモリリークの原因だ」 「え、あ、はい……」 「データベースの接続設定も古い。最新のライブラリに更新しておいた。ついでに、セキュリティホールも塞いでおく」 「す、すごい……」
死神は止まらない。 「我はあまねく魂の記録を閲覧できる。貴様の書いたスパゲッティコードなど、解読するのは赤子の手をひねるより容易い」
5分後。 「完了」 死神がエンターキーを弾いた。 画面には『Build Success』の文字が輝いている。
「で、できました……! 奇跡だ……!」 僕は涙を流して喜んだ。 「ありがとう死神さん! これで納品できる! これで帰れる!」
「うむ」 死神は満足げに頷いた。 「これで心置きなく死ねるな? 未練はなくなったはずだ」
「あ、はい。そうですね」 僕は伸びをした。 肩の荷が下りた。最高の気分だ。 「じゃあ、お願いします。一思いに」
僕は目を閉じて、首を差し出した。 死神が鎌を振り上げる気配がする。 さようなら、ブラック・ホールディングス。 さようなら、デスマーチ。
しかし、いつまで経っても衝撃は来なかった。
「……死神さん?」 目を開けると、死神は困ったように立ち尽くしていた。 鎌が、僕の首に触れた瞬間にすり抜けている。
「……切れん」 死神は言った。 「なぜだ? 未練は断ち切ったはずだ。魂は軽くなっているはずだ。なのに、なぜ刈り取れない?」
死神は僕の顔をじっと覗き込み、そしてハッとした。
「貴様……」 「はい?」 「『次の仕事』のことを考えているな?」
僕はギクリとした。 「い、いや、そんな……。ただ、今回の納品が終わったら、次は来週の仕様変更の対応をしなきゃなーとか、再来月のプロジェクトの見積もり作らなきゃなーとか、漠然と思っただけで……」
「それだ!」 死神は鎌を床に叩きつけた。 「貴様の魂は、労働という業と完全に癒着している! 一つの仕事が終われば、即座に次の仕事が鎖となって魂を縛り付ける! これでは永遠に刈り取れん!」 「職業病ですね」 「病気というレベルではない! 呪いだ!」
死神は頭を抱えた(頭蓋骨を)。 「ええい、忌々しい! これでは我がノルマを達成できん! ただでさえ今月は、事故死が少なくて回収率が悪いというのに!」
「死神業界も大変なんですね」 「黙れ社畜! ……こうなれば、意地でも連れて行くぞ」
死神は僕の隣の席――空いている佐藤さんの席にドカッと座った。 「貴様の仕事を全部終わらせてやる。未来永劫、向こう100年分のタスクを今夜中に片付けて、その瞬間に魂を回収してやる!」 「え、いいんですか?」 「構わん! 我の本気を見せてやる!」
それから、奇妙な二人三脚が始まった。 僕が仕様書を書き、死神がコードを書く。 僕がコーヒーを淹れ、死神がバグを潰す。 その生産性は、通常の開発チームの50人分に相当した。
朝日が昇る頃。 全ての仕事が終わっていた。 直近のタスクだけでなく、会社のサーバーにある全てのプロジェクト、さらには社長が隠し持っていた裏帳簿の整理まで、完璧に完了していた。
「はぁ、はぁ……」 死神の肩が上下している。 「終わった……。これで、貴様を縛るものは何もない……」
「すごいです、死神さん! あなたは神だ! いや死神だけど!」 僕は感動していた。 「よし、じゃあ約束通り、魂を持って行ってく――」
その時。 オフィスのドアが開いた。 入ってきたのは、社長だった。早朝出勤とは珍しい。
「おお、過労くん! すごいじゃないか!」 社長はモニターを見て驚愕した。 「全ての案件が片付いている! 君、いつの間にこんな才能を開花させたんだ!?」
「あ、いや、それは……」
「素晴らしい! 実に素晴らしい!」 社長は僕の手を握りしめた。 「君を役員に昇格させよう! そして、君にはこれから、新規事業の全てを任せる! 世界を変えるような巨大プロジェクトだ! 死ぬ気で働いてくれよ!」
社長は嵐のように去っていった。 残されたのは、僕と死神。
「……」 「……」
新たな仕事。 しかも、役員待遇。世界規模のプロジェクト。 それは、かつてないほど巨大で、強固な鎖となって僕の魂を縛り付けた。
死神は、ゆっくりと立ち上がった。 そして、僕の肩に手を置いた。
「……過労タスクよ」 「はい」 「達者でな」
「え、諦めるんですか?」
「無理だ。あれは刈れない。あれは、ブラックホールの特異点だ。近づけば我まで吸い込まれて、永久機関の一部にされてしまう」 死神は震えていた。 「我は死の世界に帰る。地獄の方が、ここの労働環境より幾分かマシだ。有給休暇もあるしな」
死神は空間を切り裂き、逃げるように去っていった。
「あ、待ってください! せめてこの仕様書のレビューだけでも!」 僕の声は届かなかった。
朝日が眩しい。 今日もまた、定時が始まる。 僕はネクタイを締め直し、キーボードに向かった。 死神さえも匙を投げた、最強のアンデッド。 それが、社畜という生き物なのだから。




