恋愛フラグ
「好きです。付き合ってください」
その言葉が発せられた瞬間、世界は停止した。 いや、比喩表現ではない。物理的な意味で、世界が停止したのだ。
放課後の屋上。 茜色に染まる空。 遠くで聞こえる吹奏楽部の練習音(トランペットの下手くそな高音)。 そして、目の前に立つ美少女。
名前は、遠野メビウス。 クラス委員長であり、成績優秀、品行方正、容姿端麗。 まさに絵に描いたような高嶺の花だ。 そんな彼女が、僕――無道という名の、教室の隅で埃を数えることしか能のない男子生徒に、告白をしてきたのである。
これはバグだ。 世界のアルゴリズムが、致命的なエラーを吐き出している。
「……あの、無道くん?」
メビウスさんが、小首を傾げる。 その角度は、計算され尽くしたかのように45度。 可愛さを演出する黄金比だ。
「聞こえなかったかな。もう一度言うね。私は、あなたが好きなの。細胞レベルで」 「細胞レベル」 僕は思わず復唱する。 「それは生物学的な興味ということですか? それとも比喩としての情熱?」 「両方よ。あなたのDNA配列が、私の琴線に触れたの。二重螺旋のランデブーってやつね」
彼女は一歩、近づいてくる。 制服のスカートが風に揺れる。シャンプーの香りが鼻腔をくすぐる。 それは甘く、そしてどこか、薬品のような匂いがした。
「理由を聞いても?」 僕は冷静さを装って尋ねる。 非モテ男子特有の防御本能(ATフィールド)が全開だ。 「僕には、君に好かれる要素が皆無です。顔は十人並み、運動神経は壊滅的、学力は中の下。特技といえば、円周率を10桁まで言えることくらいですが」 「3.1415926535」 彼女は即答した。 「そんな些細なスペックはどうでもいいの。私が欲しいのは、あなたという『存在』そのもの。理由なんて、後付けの設定資料集みたいなものでしょ?」
彼女は微笑む。 その笑顔は、あまりにも完璧だった。 作り物めいているほどに、完璧な笑顔。
「で、返事は?」 彼女は右手を差し出した。 握手を求めているのか、それとも何か別のものを求めているのか。
僕は、迷った。 当然だ。こんな美少女に告白されて、断る理由がない。 罠かもしれない? ドッキリかもしれない? 罰ゲームかもしれない? それでも構わない。 一生に一度あるかないかの奇跡だ。 ここで「イエス」と言わなければ、僕は死ぬまで後悔するだろう。
「……喜んで」 僕は、彼女の手を取った。 「僕で良ければ、よろしくお願いします」
その瞬間。
メビウスさんの笑顔が、歪んだ。 いや、違う。 彼女は泣いていた。 大粒の涙が、その美しい瞳から溢れ出し、頬を伝って落ちる。
「あ……」 彼女は震える声で呟く。 「よかった……。やっと、やっと言ってくれた……」
「委員長?」 「長かった……。本当に、長かったよぉ……」
彼女は僕の手を強く握りしめる。 骨が軋むほどの力で。 華奢な体のどこに、こんな馬鹿力があるのか。
「あの、痛いです」 「ごめんね。でも、嬉しくて。……ねえ、無道くん」 「はい」 「今の返事、本当だよね? 嘘じゃないよね?」 「もちろんです」
「そっか。よかった」
彼女は、涙に濡れた顔で、満面の笑みを浮かべた。 それは、今まで見たどの表情よりも美しく、そして――恐ろしかった。
「じゃあ、リセットするね」
「え?」
彼女は、空いている左手を、スカートのポケットに入れた。 取り出したのは、無骨なサバイバルナイフ。
「え、ちょっ、待っ――」
言葉を発する暇もなかった。 銀色の閃光が走り、僕の視界は赤く染まる。 首筋に熱い衝撃。 声が出ない。 酸素が吸えない。
崩れ落ちる僕の体を、彼女は優しく抱きとめた。 薄れゆく意識の中で、彼女の声が聞こえる。
「ごめんね、無道くん。ごめんね」 彼女は、血まみれの僕の頬にキスをする。
「これで、1万3千4百2回目」
彼女は、虚空に向かって話しかけるように言った。 まるで、誰かに報告書を提出するかのように。
「パターンAからZ、全ての会話分岐を試したけど、無道くんが『イエス』と答えると、必ず3日後に世界が滅びるの」 「君が恋人になると、君の運命力が増大しすぎて、第三次世界大戦が起きたり、隕石が落ちたり、未知のウイルスが蔓延したりする」 「君は、生きてちゃいけないの。幸せになっちゃいけないの」 「でも、私は君が好きなの」
彼女は泣きながら、僕の心臓にナイフを突き立てる。
「だから、探してるの。君が私の告白を受け入れてくれて、なおかつ、世界が滅ばないルートを」 「今の『喜んで』の返答パターンも、ダメだった。私のシミュレーションだと、これを選ぶと明日の正午に核ミサイルが発射される」 「だから、やり直し」
視界が暗転する。 感覚が消失する。 死ぬ。僕は死ぬ。
最後に聞こえたのは、彼女の愛おしげな、そして狂気じみた呟きだった。
「安心して、無道くん。 正解が見つかるまで、何万回でも、何億回でも。 私はあなたを殺して、また最初から、あなたに恋をするから」
ザシュッ。
「――好きです。付き合ってください」
ハッと目を開けると、そこは放課後の屋上だった。 茜色に染まる空。 遠くで聞こえる、下手くそなトランペットの音。
目の前には、遠野メビウスが立っている。 少しだけ、疲れたような顔をして。 けれど、完璧な笑顔を作って。
「……あの、無道くん? 聞こえなかったかな?」
僕は、激しい既視感に襲われながら、立ち尽くしていた。 なぜだろう。 首筋が、幻肢痛のように、酷く痛む気がした。




